習志野湾岸9条の会

STOP戦争への道 9条を変えるな

10.30冤罪52カ年狭山市民集会

2015年10月27日 | 集会・会合等
日 時  2015年10月30日(金)
前段ミニコンサート 12時半~ こぐれみわぞうさん(ジンタらムータ)
集会 13時~14時半(集会後デモ予定)
   狭山再審弁護団報告
   中山武敏さん(主任弁護人)
   中北龍太郎さん(事務局長)ほか
    石川一雄さん・早智子さん挨拶
   アピール 香山リカさん(精神科医)
   冤罪当事者から連帯アピール
    袴田巌さん、袴田秀子さん、菅家利和さん、桜井昌司さん
    市民の会アピール 鎌田慧さん
②会 場  東京・日比谷野外音楽堂
③主 催  狭山事件の再審を求める市民集会実行委員会
デモ行進出発(14:30) 日比谷公園・西幸門
デモコース<日比谷公園西幸門―内幸町―数寄屋橋―東京駅八重洲口前―常盤橋公園内解散>約55分

先日、20年間獄中に囚われていた青木恵子さん(51)と、内縁の夫だった朴龍晧さん(49)の
再審が決定して釈放されました。次々と明らかにされる冤罪。
狭山事件は被差別を狙い撃ちした悪質な差別事件です。

(狭山事件)
1963年5月1日、埼玉県狭山市で女子高校生が行方不明になり、脅迫状がとどけられるという事件がおきた。
警察は身代金を取りにあらわれた犯人を40人もの警官が張り込みながら取り逃がしてしまいまった。女子高校生は
遺体となって発見され、警察の大失敗に世論の非難が集中した。捜査にいきづまった警察は、付近の被差別
に見込み捜査を集中し、なんら証拠もないまま石川一雄氏(当時24歳)を別件逮捕し、1カ月にわたり警察の留置場
(代用監獄)で取り調べ、ウソの自白をさせて、犯人に仕立て上げた。地域の住民の「あんなことをするのは
民にちがいない」という差別意識やマスコミの差別報道のなかで冤罪が生み出されてしまった。
事件発生当初発見されなかった被害者の万年筆が突然発見されたり、脅迫状の筆跡と石川氏の筆跡が全く違う、
自供に基づいて発見されたとされる被害者の腕時計の種類が被害者の物と違うなどの点があるにもかかわらず
まともな証拠調べも行わなかった。
1964年一審の浦和地裁では内田裁判長が死刑判決を下した。
石川氏が否認に転じてから(当初は罪を認めれば10年で出してやると言われていた)前後して大衆行動が始まる。
1974年二審では寺尾裁判長が無期懲役判決の判決を下したが、高裁前の日比谷公園には解放同盟、社会党(当時)、
総評(当時)傘下を中心としたの労働組合、学生や各大学解放研、狭山闘争実行委員会など10万人が集まり公園を埋め尽くした。
又全国でも同盟休校や大衆行動が取り組まれ、ストライキを行った職場、大学もあった。
最高裁で確定後も石川氏はただちに再審請求を申し立てたが第一次再審請求はまったく事実調べもなく棄却。
再び1986年8月に第二次再審請求を東京高裁に申し立てた。石川氏は31年7か月ぶりに千葉刑務所を1994年12月に仮出獄した。
世論も高まり、国際人権規約委員会が「弁護側がすべての証拠にアクセスできるよう法律、および実務を改めること」
を日本政府に勧告したが、1999年7月またも事実調べを行うことなく、再審請求を棄却した。
そして2006年5月、第3次再審請求。なかなか再審の扉は開こうとしなかったが2009年9月から三者協議が開かれ、
狭山の闘いに前進か見られたが検察の証拠の出し渋りなどによりのらりくらりとしか進んでいない。
速やかに再審を行うべきです。

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