習志野湾岸9条の会

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靖国の歴史

2013年12月30日 | 日記
靖国神社とは、どういう施設でしょうか。
 靖国神社がつくられたのは、明治維新のただなかです。薩長倒幕軍(天皇政府軍=官軍)と幕府軍の間の戊辰戦争が函館五稜郭の戦いで決着の付いた1869年(明治2年)、天皇政府は江戸を東京と名づけて新首都とし、皇居に接した九段上に東京招魂社という神社を建立しました。この東京招魂社が10年後の1879年に明治天皇の意思で靖国神社と改称され、全国各府県につくられた護国神社の総元締めとなったのです。
 戊辰戦争での官軍勝利の直後に創建されたことが示すように、靖国神社は最初から「国のため、天皇のために忠義をつくして死んだ者」を祀(まつ)るための神社でありました。
 靖国神社と他の神社の大きな違いは、祭神の中身と数です。神社というと、「アマテラスオオミカミ」のような『古事記』『日本書紀』の神話の中の神、あるいは特定の天皇・皇族や菅原道真のような歴史上有名な人物を「祭神」とするのが通例ですが、靖国神社の場合はそれとはまったく異なり、ごく普通の兵士たちを「国=天皇への忠節」を唯一の基準にして「神」(祭神)に祭り上げています。
しかも、今日では総数約246万6千の戦没者が靖国神社の祭神とされ、その「魂」が「ただ一つの神の座」に一緒に祀られるという独特の形をとっています。これを合祀といいます。
しかし戊辰戦争(1868~69)での新政府軍(旧幕府軍は賊軍としてのぞく)の戦死者から、太平洋戦争に至る戦死者「246万6532柱」は、個人別々ではなく、一つの「かたまり」となって祀られています(大将も一兵卒も戦犯も一つのかたまりとして参拝される・・行司の証言)。
 さらに、同じ戦没者でも官軍に対して「朝敵」「賊軍」に回った会津藩の兵士や西南戦争で死んだ西郷隆盛や薩摩の兵隊たちは冷酷に排除されています。また、戦死者ではないが吉田松陰や坂本龍馬のような「勤王の志士」も「国事殉難者」の呼び名で祀られています。
 これらの事実からも靖国神社が単なる「慰霊」「追悼」や「平和祈念」のためにつくられた施設ではなく、実に政治的な要素が強い存在であることが分かります。
 実際に靖国神社が行ってきたことは、個々の死者を戦争の犠牲者として「悼む」ことではなく、「国のための死」を褒めたたえ、奨励し、「顕彰」することでありました。 つまりそれは、「普通の人間(臣民)」でも国=天皇のために命をささげたら「神」になる、靖国神社に祀られれば「英霊」とたたえられ、「名誉の戦死」「誉れの家族」として尊敬され、経済的にも種々の恩恵を受けられる、といった観念を植えつけ、「天皇の軍隊」「天皇の戦争」に次々と駆り立てていくための動員装置だったのです。
 靖国神社という独特の「神社」がつくり出された背景には、明治政府が天皇制国家の正統性を押し出すために案出した「国家神道」という宗教(宗教ならざる宗教=超宗教)があります。 これは、記紀神話(天孫降臨神話)と結びつけて天皇を「現人神(あらがみひと)を統合した上、仏教、キリスト教、天理教などの諸宗教を天皇制国家にむりやり従属させる役割を果たしました。
国家神道の役割は、その後の歴史が示すとおり、天皇制の正統化にとどまらず、何よりも「戦争」を正当化し推進するイデオロギーとして日本とアジアの人民に巨大な惨害をもたらしました。
 国家神道を実際に体現した最大の実体が靖国神社です。教育勅語と軍人勅諭と靖国神社が国民動員の要となったのです。
天皇や南朝の忠臣らを祭神とする神社(橿原神宮、平安神宮など)が次々に建てられる一方、全国の約10万社に及ぶ神社が官幣社(伊勢神宮など)・国幣社・府県社・郷社・村社などに格付け・序列化されました。
靖国神社の場合は、祭神が天皇・皇族や神話上の神々ではない「臣民」のため「別格」の官幣社とされました。その下に府県社としての招魂社を位置づけ、ピラミッド型の支配機構をつくりました。招魂社は1939年に護国神社と改称され、靖国神社の地方版です。
 戦前の国家神道下の神社はすべて内務省が管轄しましたが靖国神社だけは陸軍省と海軍省が直接管理しました。
日清・日露戦争や15年戦争など大量の戦死・戦没者を一手に扱う軍事機関だからです。 この靖国神社の主な行事は、春秋の例大祭と新たな戦没者を合祀する際の臨時大祭があります。戦後は、これに夏の「みたままつり」が加わりました。とりわけ臨時大祭の場合は、天皇の臨席のもとに国家的な一大イベントとして開催され、ラジオの生放送を通じて全国民が参加させられました。「名誉の戦死」をとげた戦没者の遺族たちは、この「晴の日」に特別招待され、各種の恩典を与えられました。こうした国家祭祀・国家儀礼を通じて靖国神社は天皇制国家を支え続けてきました。
 したがって、敗戦後の神道指令で国家神道が廃止された時、靖国神社も当然廃止さる対象だったはずです。
しかし実際には、天皇制存続の陰に隠れて、1946年の宗教法人令に続く52年の宗教法人法により、新憲法(政教分離)下の単立の宗教法人(東京都知事の認可)に「転身」することで存続されました。管轄も陸海軍省から厚生省(現厚労省)に移りましたが、特に精神的・イデオロギー的な中身は戦前とほとんど変わらないまま引き継がれてきました。
 宗教法人靖国神社の規則は、「明治天皇の宣らせ給ふた『安国』の聖旨」を絶対の基準に掲げ、「戦没者の命は国=天皇のもの」「だから合祀の決定権は神社にある」という独断的な立場をとり続けています。これを元に、韓国・台湾など旧植民地出身者を含む多くの遺族たちの靖国合祀取り下げの訴えや首相の靖国参拝違憲訴訟などを問答無用にはねつけてきました。
 また、靖国訴訟のたびに厚生省―厚労省は「国は関係ない、神社の決めたこと」と言って責任逃れをしてきましたが、1956年当時の国=厚生省主導の合祀事務実施の「要綱案」が明るみに出ています。政教分離の現憲法下にあっても、靖国神社と国とは一体の関係にあるといえます。
 戦後の靖国神社は、組織力800万と言われた日本遺族会と自民党・右翼勢力をバックに靖国神社国家護持運動や天皇・首相の公式参拝運動を繰り広げてきました。2002年にオープンした神社境内の軍事博物館「新遊就館」国家主義的宣伝場でもあります。

先日安倍首相が首相としては7年ぶりに参拝して内外問題となっていますが、戦犯が祀られている事もそうですがそれ以前に何故靖国神社が存在し、なぜ戦争のためのものであるか歴史も含めて考えるべきではないでしょうか。