保育園児90人奇跡の脱出…「早ぐ、早ぐ!」
2011/04/28 15:16更産経新聞
「東日本大震災の発生時、ちょうど避難訓練の準備をしていた保育所があった。岩手県野田村の野田村保育所。建物は津波で無くなったが、約90人の園児と14人の職員は全員無事だった。保育所は月1回のペースで避難訓練を行い、常に津波を意識していた。なぜ、そこまでの備えができていたのか。(梶原紀尚)
背中に乳児くくり「早ぐ!」
三陸鉄道のねじ切られたレールが津波の威力を示していた。保育所の建物があったはずの場所には、片側の門扉だけしかなかった。人口約4700人の野田村では震災で28人が死亡。450戸以上が全半壊するなどの被害が出た。
震災当日、午後3時から毎月恒例の避難訓練を予定していた。訓練は火災、地震、津波の3つの想定で行われており、津波訓練の場合、15分以内に約500メートル離れた「高台の家」に避難する段取りだ。
主任保育士の廣内(ひろない)裕子さん(53)はこの日、園児たちの昼寝をいつもより早く切り上げ、着替えをさせていた。そのとき地震が起きた。
廣内さんは激しい横揺れに耐えながら「大地震が来たら『源平坂』に逃げろ」という地元の言い伝えを思い出していた。源平坂は避難場所からさらに奥にある高台へと向かう坂。登り切れば津波でも安全だとされていた。
「逃げよう!」
0歳児はひもで背中にくくり、1歳児の10人は保育所で「避難車」と呼ぶ大型の乳母車に乗せた。そのあと、上履きのままの園児たちが続いた。
500メートルほど進み、避難場所である高台の家にたどり着いたが、黒々とした波の塊が防潮林を超え、海岸沿いの国道を走る車をのみ込もうとしていた。高台の家も危ないかもしれない。
「早ぐ、早ぐ!」
一行はさらに約500メートル離れた源平坂を目指すため、ビニールハウスの間を突っ切ろうとした。避難車のタイヤが畑にめり込み気持ちが焦ったが、必死で走り源平坂を登りきった。そのとき坂の登り口で津波が止まったのが見えた。
乳幼児を連れて逃げるのには時間がかかる。保育所では訓練で周到な準備をしていただけでなく、職員らは避難場所についても油断せず、最善を尽くした。
幼いころの十勝沖地震の経験や「源平坂」の言い伝えに助けられたという廣内さんは「教訓を次の世代へ伝えていくことが大切」とし、次のように語った。
「津波の怖さはだんだん薄れる。先祖や親から教えられたように、子供たちや若い職員にも伝え続けていかなくてはならない」
関連記事
震災犠牲者9割水死 津波の怖さを軽視…
「稲むらの火」和歌山でも津波警報避難…」
「避難3原則」守り抜いた釜石の奇跡
2011/04/13 14:32更新 イザ!産経新聞
記事本文【東日本大震災】
背後を気にしながら高台を目指す子供たち。小学生は、中学生に手をひかれている。これは東日本大震災の大津波から避難する岩手県釜石市の鵜住居小学校(361人)、釜石東中学校(222人)の避難の様子を、住民が撮影した貴重な写真だ。釜石市内の児童・生徒はほぼ全員が無事に逃げ延びた。「釜石の奇跡」といわれる避難はどのように行われたのか。南海地震の大津波に備える西日本にとって学ぶべきことは多い。(北村理)
★原則1「想定、とらわれるな」
海岸からわずか約1キロの鵜住居小では地震直後、校舎3階に児童が集まった。地震では建物自体は被害がなかったことや浸水想定区域外だったのが理由だった。海岸から近いにもかかわらず浸水想定区域外だったのは、明治、昭和の津波で被害がなかったからだ。
しかし、児童が3階に集まり始めたころ、隣接する釜石東中では生徒は校庭に駆け出していた。校内放送は停電のため使えなかったが、これを見た児童たちは日頃の同中との合同訓練を思い出して自らの判断で校庭に駆け出した。
児童・生徒ら約600人は、500メートル後方にある高台のグループホームまで避難。ここも指定避難場所だったが一息つく間もなく、裏側の崖が崩れるのを目撃する。危険を感じて児童生徒はさらに約500メートル先の高台にある介護福祉施設を目指した。その約30秒後、グループホームは津波にのまれた。
★原則2「最善を尽くせ」
背後から聞こえる轟音と防潮堤にぶつかる白い波しぶきを見た児童・生徒はたどり着いた介護福祉施設からさらに高台へ駆けた。写真はまさにこの時の様子だ。津波は介護福祉施設の約100メートル手前で止まった。すべてが避難開始から10分足らずの出来事だった。 「間一髪で小学生全員が津波に巻き込まれるところだった」と、釜石市の小中学生の避難行動を調査した群馬大学大学院災害社会工学研究室の片田敏孝教授と金井昌信助教。もちろん津波は小中学校をのみ込み、鵜住居小では3階まで流されてきた自動車が突き刺さっていた。
★原則3「率先し避難せよ」
釜石市教委は平成17年から片田教授らとともに防災教育に取り組んでいたが、翌年の千島列島沖地震の際には避難率は10%未満だった。このため、片田教授は子供たちにも登下校時の避難計画も立てさせた。津波の脅威を学ぶための授業も増やし、年間5~10数時間をあてた。そして、「避難3原則」を徹底してたたき込んだ。(1)想定にとらわれない(2)状況下において最善をつくす(3)率先避難者になる。今回の大津波で児童が校舎3階から校庭に駆け出して高台に向かったこと、中学生が率先避難者となって小学生を導いたことなどすべてが「避難3原則」にあてはまる。
市内では、すでに7割の児童が下校していた釜石小学校(児童184人)もあったが、全員が無事だった。祖母と自宅にいた児童は、祖母を介助しながら避難▽指定避難所の公園にいた児童は津波の勢いの強さをみてさらに高台に避難するなど、ここでも「避難3原則」が生かされていた。
関連記事
釜石市内の小中学生の避難率100%近…
「安全信じたのに」 津波訓練の避難所…
☆
1.助かった人たちは日頃の訓練を生かしたが、それが100%大丈夫だという判断をしなかった。とっさの判断で、そこにはリーダーがいたのです。そのさらなる安全策の提案が、つまり想定外であったが正しい判断の助言によって助かったのです。
わたしは、この想定外を見事に正しく判断し日本を救った事例をロシアのバルチック艦隊との日本海会戦に見るのです。
2.旗艦、東郷元帥は敵艦が動いていく方向に舵を切って追跡した。旗艦には「全艦我に続け」の旗信号が上がっていた。後続の艦は旗艦に続いた・・・だが「敵艦は舵が故障して戦場を離れようとしているだけで、この艦を追ってはならない」と進言した参謀がいた。
そこで旗艦命令に逆らって敵主力艦隊に向かう作戦をとったのです。この働き外あって、想定外の事態に正しく対処したリーダーがいて、日本は強国ロシア、世界最強と言われたバルチック艦隊を撃破し、世界の予想を見事にひっくり返す大勝利で、世界を驚かせ、世界の舞台に躍り出たのです。
3.上記2例の助かった事例で、共通していることは、時と場合に応じて作戦を変更したと言うことです。
避難訓練については、大学の先生も入れて、避難場所を設定しそこに避難する訓練をしていました。しかし、そこには想定の高い津波内での避難場所でしたが、今回の津波は指導者の「想定外」だったのです。
4.私の別のブログ「弓道修行日記」に投稿した記事を転記します。
「迫る津波は想定以上 「危ない」リーダー機転60人救う
2011年3月24日8時52分アサヒコム
想定を超す大津波の到来をラジオで知り、指定の避難場所から住民をさらに高所に避難させ、危機を脱した。
「先生、本当に先生のおかげだぁ」
七ケ浜町花渕浜地区の自主防災組織リーダー、鈴木享さん(57)は、震災後に再会した東北学院大の宮城豊彦教授を抱きしめた。
鈴木さんら住民は、町内に住む宮城さんの指導で避難場所を決めるなど、防災に取り組んできた。宮城さんは津波防災の研究で知られる。
高齢者の多い集落では、地震後の長い移動が難しい。だから、避難場所は県が想定する最大の3.3メートルの津波からようやく逃れられる近所の寺にした。11日の地震後、住民は寺の駐車場に集まった。
じっとラジオに耳を澄ませていた鈴木さんは、他の地域に到達した津波が「5メートル」と知り、耳を疑った。
「県の想定に比べて大きすぎる。これじゃ危ない」
宮城さんと勉強してきた津波のことが頭に浮かび、急いで移動を決断。高齢者を近くの幼稚園のバスに乗せ、集まった仲間に移動を呼びかけた。30分かけて数百メートル離れた高台に60人を移した。
「その途端、避難場所の寺が津波にのまれた」と鈴木さんは振り返る。
津波から1週間後、避難所で人々の生活を支える鈴木さんを訪ね、宮城さんは言った。
「結果的に、適切な避難場所を伝えられなかったことは申し訳ない。でも、学んだ知識を生かし、みんなを救ってくれた。素晴らしかった」(長野剛)
.
☆
1.大学の先生の指導を受けて訓練していた、避難訓練、それに従った避難は絶対大丈夫だという安心感があったでしょう。
2.しかし、ラジオでニュースを聞いて、「この津波は予想外で大きい」と判断したリーダー、もっと高田に行かねばと判断し60名の人をリードしたのです。
3.日本海会戦でも旗艦の指示に従わずそのことによって日本海海戦の勝利となったのです。
日本海海戦ウィキペディアから
「追撃戦 [編集]14時50分、「クニャージ・スヴォーロフ」は突然北へ回頭した。日本の砲弾が後部へ命中し、舵が損傷したために自由な操船が妨げられた結果であったが、東郷、秋山ら「三笠」の首脳はこれを北へ逃げようとしている行動と判断し、後を追わせた。東郷にとっては、この海戦で下した唯一の誤った判断であった。」
「クニャージ・スヴォーロフ」に続くバルチック艦隊の2番艦、戦艦「インペラートル・アレクサンドル3世」の艦長ブフウオトフ大佐はただちに「クニャージ・スヴォーロフ」の舵の故障を見抜いて艦隊旗艦を追わず、結果として後続全てのロシア艦は「インペラートル・アレクサンドル3世」に続いて進路を南東方向に保持したままであった。バルチック艦隊の頭を押さえにかかっていた連合艦隊第1戦隊が「クニャージ・スヴォーロフ」を追って北へ転進したため、バルチック艦隊の前方には障害がなくなり、ウラジオストクへ逃げ込めると安堵しはじめた。
しかしその頃、第2戦隊旗艦「出雲」では、参謀の佐藤鉄太郎中佐が即座に「クニャージ・スヴォーロフ」の舵が故障をしたと判断し「スワロフ(= スヴォーロフ)に旗が揚がってません。あれは舵の故障です」と司令長官の上村彦之丞中将に進言した。「間違いないか」「間違いありません」佐藤の迷いのない答えに上村も決断を下し、東郷の「三笠」からの「左八点一斉回頭」(左へ90度回頭せよ)という旗による命令に反し、「我に続け」の信号旗を出して、第2戦隊はバルチック艦隊への猛追撃を開始した。巡洋艦中心の第2戦隊が、戦艦中心のバルチック艦隊に突撃するという猛将上村提督の名に相応しい前代未聞の作戦といわれるが、そこには、俊才といわれた佐藤参謀の冷静な判断があった。
上村の指揮の下、第2戦隊は東郷の第1戦隊とは別行動をとって東南東へ進むバルチック艦隊を追って敵の東側目指して針路をとり、やがて「インペラートル・アレクサンドル3世」の前へ回り込むことに成功した。上村の第2戦隊は「浅間」が舵の故障で欠けていたものの、残りの装甲巡洋艦5隻はほぼ無傷で20ノットの高速航行が可能であった。しかし、備砲は20.3cm砲が最大であり、バルチック艦隊は損傷しながらも30.5cm砲を備える6隻の戦艦を始めとする多数の艦があり、通常なら戦いを挑む状況ではなかった。3,000mに距離を詰めると双方の砲撃戦が始まり、たちまち第2戦艦隊の先頭にあった戦艦「シソイ・ヴェリキー」が猛火に包まれ戦線から離脱した。「クニャージ・スヴォーロフ」に代わってバルチック艦隊を率いていた「インペラートル・アレクサンドル3世」も浸水によって艦が傾き戦線から離脱した。」
総指揮官東郷の命令に従わず、独自の判断をした上村中将、この上村中将が日本を救ったのです。
4.自衛隊も出されている命令は戦争回避の命令ですので、いかなる場合も発砲出来なくなっています。ですから外国に派遣されても外国の軍隊に守ってもらうことになっています。私は場合によっては、アメリカ軍が攻撃されてやられそうなときは、アメリカを支援することをしなければならないでしょう。そう言うことも考えておかなければなりません。例え法を犯してもその法の方がおかしいのです。
いずれ早い段階でこういう議論をし、憲法改正をはかるべきです。」
私の別ブログ「弓道修行日記」はどういう練習をしてどういう悟りを得たかを書こうとしていたのですが、最近は弓道している場合ではない。と政治問題にシフトしていますが、暇がありましたら覗いてください。
2011/04/28 15:16更産経新聞
「東日本大震災の発生時、ちょうど避難訓練の準備をしていた保育所があった。岩手県野田村の野田村保育所。建物は津波で無くなったが、約90人の園児と14人の職員は全員無事だった。保育所は月1回のペースで避難訓練を行い、常に津波を意識していた。なぜ、そこまでの備えができていたのか。(梶原紀尚)
背中に乳児くくり「早ぐ!」
三陸鉄道のねじ切られたレールが津波の威力を示していた。保育所の建物があったはずの場所には、片側の門扉だけしかなかった。人口約4700人の野田村では震災で28人が死亡。450戸以上が全半壊するなどの被害が出た。
震災当日、午後3時から毎月恒例の避難訓練を予定していた。訓練は火災、地震、津波の3つの想定で行われており、津波訓練の場合、15分以内に約500メートル離れた「高台の家」に避難する段取りだ。
主任保育士の廣内(ひろない)裕子さん(53)はこの日、園児たちの昼寝をいつもより早く切り上げ、着替えをさせていた。そのとき地震が起きた。
廣内さんは激しい横揺れに耐えながら「大地震が来たら『源平坂』に逃げろ」という地元の言い伝えを思い出していた。源平坂は避難場所からさらに奥にある高台へと向かう坂。登り切れば津波でも安全だとされていた。
「逃げよう!」
0歳児はひもで背中にくくり、1歳児の10人は保育所で「避難車」と呼ぶ大型の乳母車に乗せた。そのあと、上履きのままの園児たちが続いた。
500メートルほど進み、避難場所である高台の家にたどり着いたが、黒々とした波の塊が防潮林を超え、海岸沿いの国道を走る車をのみ込もうとしていた。高台の家も危ないかもしれない。
「早ぐ、早ぐ!」
一行はさらに約500メートル離れた源平坂を目指すため、ビニールハウスの間を突っ切ろうとした。避難車のタイヤが畑にめり込み気持ちが焦ったが、必死で走り源平坂を登りきった。そのとき坂の登り口で津波が止まったのが見えた。
乳幼児を連れて逃げるのには時間がかかる。保育所では訓練で周到な準備をしていただけでなく、職員らは避難場所についても油断せず、最善を尽くした。
幼いころの十勝沖地震の経験や「源平坂」の言い伝えに助けられたという廣内さんは「教訓を次の世代へ伝えていくことが大切」とし、次のように語った。
「津波の怖さはだんだん薄れる。先祖や親から教えられたように、子供たちや若い職員にも伝え続けていかなくてはならない」
関連記事
震災犠牲者9割水死 津波の怖さを軽視…
「稲むらの火」和歌山でも津波警報避難…」
「避難3原則」守り抜いた釜石の奇跡
2011/04/13 14:32更新 イザ!産経新聞
記事本文【東日本大震災】
背後を気にしながら高台を目指す子供たち。小学生は、中学生に手をひかれている。これは東日本大震災の大津波から避難する岩手県釜石市の鵜住居小学校(361人)、釜石東中学校(222人)の避難の様子を、住民が撮影した貴重な写真だ。釜石市内の児童・生徒はほぼ全員が無事に逃げ延びた。「釜石の奇跡」といわれる避難はどのように行われたのか。南海地震の大津波に備える西日本にとって学ぶべきことは多い。(北村理)
★原則1「想定、とらわれるな」
海岸からわずか約1キロの鵜住居小では地震直後、校舎3階に児童が集まった。地震では建物自体は被害がなかったことや浸水想定区域外だったのが理由だった。海岸から近いにもかかわらず浸水想定区域外だったのは、明治、昭和の津波で被害がなかったからだ。
しかし、児童が3階に集まり始めたころ、隣接する釜石東中では生徒は校庭に駆け出していた。校内放送は停電のため使えなかったが、これを見た児童たちは日頃の同中との合同訓練を思い出して自らの判断で校庭に駆け出した。
児童・生徒ら約600人は、500メートル後方にある高台のグループホームまで避難。ここも指定避難場所だったが一息つく間もなく、裏側の崖が崩れるのを目撃する。危険を感じて児童生徒はさらに約500メートル先の高台にある介護福祉施設を目指した。その約30秒後、グループホームは津波にのまれた。
★原則2「最善を尽くせ」
背後から聞こえる轟音と防潮堤にぶつかる白い波しぶきを見た児童・生徒はたどり着いた介護福祉施設からさらに高台へ駆けた。写真はまさにこの時の様子だ。津波は介護福祉施設の約100メートル手前で止まった。すべてが避難開始から10分足らずの出来事だった。 「間一髪で小学生全員が津波に巻き込まれるところだった」と、釜石市の小中学生の避難行動を調査した群馬大学大学院災害社会工学研究室の片田敏孝教授と金井昌信助教。もちろん津波は小中学校をのみ込み、鵜住居小では3階まで流されてきた自動車が突き刺さっていた。
★原則3「率先し避難せよ」
釜石市教委は平成17年から片田教授らとともに防災教育に取り組んでいたが、翌年の千島列島沖地震の際には避難率は10%未満だった。このため、片田教授は子供たちにも登下校時の避難計画も立てさせた。津波の脅威を学ぶための授業も増やし、年間5~10数時間をあてた。そして、「避難3原則」を徹底してたたき込んだ。(1)想定にとらわれない(2)状況下において最善をつくす(3)率先避難者になる。今回の大津波で児童が校舎3階から校庭に駆け出して高台に向かったこと、中学生が率先避難者となって小学生を導いたことなどすべてが「避難3原則」にあてはまる。
市内では、すでに7割の児童が下校していた釜石小学校(児童184人)もあったが、全員が無事だった。祖母と自宅にいた児童は、祖母を介助しながら避難▽指定避難所の公園にいた児童は津波の勢いの強さをみてさらに高台に避難するなど、ここでも「避難3原則」が生かされていた。
関連記事
釜石市内の小中学生の避難率100%近…
「安全信じたのに」 津波訓練の避難所…
☆
1.助かった人たちは日頃の訓練を生かしたが、それが100%大丈夫だという判断をしなかった。とっさの判断で、そこにはリーダーがいたのです。そのさらなる安全策の提案が、つまり想定外であったが正しい判断の助言によって助かったのです。
わたしは、この想定外を見事に正しく判断し日本を救った事例をロシアのバルチック艦隊との日本海会戦に見るのです。
2.旗艦、東郷元帥は敵艦が動いていく方向に舵を切って追跡した。旗艦には「全艦我に続け」の旗信号が上がっていた。後続の艦は旗艦に続いた・・・だが「敵艦は舵が故障して戦場を離れようとしているだけで、この艦を追ってはならない」と進言した参謀がいた。
そこで旗艦命令に逆らって敵主力艦隊に向かう作戦をとったのです。この働き外あって、想定外の事態に正しく対処したリーダーがいて、日本は強国ロシア、世界最強と言われたバルチック艦隊を撃破し、世界の予想を見事にひっくり返す大勝利で、世界を驚かせ、世界の舞台に躍り出たのです。
3.上記2例の助かった事例で、共通していることは、時と場合に応じて作戦を変更したと言うことです。
避難訓練については、大学の先生も入れて、避難場所を設定しそこに避難する訓練をしていました。しかし、そこには想定の高い津波内での避難場所でしたが、今回の津波は指導者の「想定外」だったのです。
4.私の別のブログ「弓道修行日記」に投稿した記事を転記します。
「迫る津波は想定以上 「危ない」リーダー機転60人救う
2011年3月24日8時52分アサヒコム
想定を超す大津波の到来をラジオで知り、指定の避難場所から住民をさらに高所に避難させ、危機を脱した。
「先生、本当に先生のおかげだぁ」
七ケ浜町花渕浜地区の自主防災組織リーダー、鈴木享さん(57)は、震災後に再会した東北学院大の宮城豊彦教授を抱きしめた。
鈴木さんら住民は、町内に住む宮城さんの指導で避難場所を決めるなど、防災に取り組んできた。宮城さんは津波防災の研究で知られる。
高齢者の多い集落では、地震後の長い移動が難しい。だから、避難場所は県が想定する最大の3.3メートルの津波からようやく逃れられる近所の寺にした。11日の地震後、住民は寺の駐車場に集まった。
じっとラジオに耳を澄ませていた鈴木さんは、他の地域に到達した津波が「5メートル」と知り、耳を疑った。
「県の想定に比べて大きすぎる。これじゃ危ない」
宮城さんと勉強してきた津波のことが頭に浮かび、急いで移動を決断。高齢者を近くの幼稚園のバスに乗せ、集まった仲間に移動を呼びかけた。30分かけて数百メートル離れた高台に60人を移した。
「その途端、避難場所の寺が津波にのまれた」と鈴木さんは振り返る。
津波から1週間後、避難所で人々の生活を支える鈴木さんを訪ね、宮城さんは言った。
「結果的に、適切な避難場所を伝えられなかったことは申し訳ない。でも、学んだ知識を生かし、みんなを救ってくれた。素晴らしかった」(長野剛)
.
☆
1.大学の先生の指導を受けて訓練していた、避難訓練、それに従った避難は絶対大丈夫だという安心感があったでしょう。
2.しかし、ラジオでニュースを聞いて、「この津波は予想外で大きい」と判断したリーダー、もっと高田に行かねばと判断し60名の人をリードしたのです。
3.日本海会戦でも旗艦の指示に従わずそのことによって日本海海戦の勝利となったのです。
日本海海戦ウィキペディアから
「追撃戦 [編集]14時50分、「クニャージ・スヴォーロフ」は突然北へ回頭した。日本の砲弾が後部へ命中し、舵が損傷したために自由な操船が妨げられた結果であったが、東郷、秋山ら「三笠」の首脳はこれを北へ逃げようとしている行動と判断し、後を追わせた。東郷にとっては、この海戦で下した唯一の誤った判断であった。」
「クニャージ・スヴォーロフ」に続くバルチック艦隊の2番艦、戦艦「インペラートル・アレクサンドル3世」の艦長ブフウオトフ大佐はただちに「クニャージ・スヴォーロフ」の舵の故障を見抜いて艦隊旗艦を追わず、結果として後続全てのロシア艦は「インペラートル・アレクサンドル3世」に続いて進路を南東方向に保持したままであった。バルチック艦隊の頭を押さえにかかっていた連合艦隊第1戦隊が「クニャージ・スヴォーロフ」を追って北へ転進したため、バルチック艦隊の前方には障害がなくなり、ウラジオストクへ逃げ込めると安堵しはじめた。
しかしその頃、第2戦隊旗艦「出雲」では、参謀の佐藤鉄太郎中佐が即座に「クニャージ・スヴォーロフ」の舵が故障をしたと判断し「スワロフ(= スヴォーロフ)に旗が揚がってません。あれは舵の故障です」と司令長官の上村彦之丞中将に進言した。「間違いないか」「間違いありません」佐藤の迷いのない答えに上村も決断を下し、東郷の「三笠」からの「左八点一斉回頭」(左へ90度回頭せよ)という旗による命令に反し、「我に続け」の信号旗を出して、第2戦隊はバルチック艦隊への猛追撃を開始した。巡洋艦中心の第2戦隊が、戦艦中心のバルチック艦隊に突撃するという猛将上村提督の名に相応しい前代未聞の作戦といわれるが、そこには、俊才といわれた佐藤参謀の冷静な判断があった。
上村の指揮の下、第2戦隊は東郷の第1戦隊とは別行動をとって東南東へ進むバルチック艦隊を追って敵の東側目指して針路をとり、やがて「インペラートル・アレクサンドル3世」の前へ回り込むことに成功した。上村の第2戦隊は「浅間」が舵の故障で欠けていたものの、残りの装甲巡洋艦5隻はほぼ無傷で20ノットの高速航行が可能であった。しかし、備砲は20.3cm砲が最大であり、バルチック艦隊は損傷しながらも30.5cm砲を備える6隻の戦艦を始めとする多数の艦があり、通常なら戦いを挑む状況ではなかった。3,000mに距離を詰めると双方の砲撃戦が始まり、たちまち第2戦艦隊の先頭にあった戦艦「シソイ・ヴェリキー」が猛火に包まれ戦線から離脱した。「クニャージ・スヴォーロフ」に代わってバルチック艦隊を率いていた「インペラートル・アレクサンドル3世」も浸水によって艦が傾き戦線から離脱した。」
総指揮官東郷の命令に従わず、独自の判断をした上村中将、この上村中将が日本を救ったのです。
4.自衛隊も出されている命令は戦争回避の命令ですので、いかなる場合も発砲出来なくなっています。ですから外国に派遣されても外国の軍隊に守ってもらうことになっています。私は場合によっては、アメリカ軍が攻撃されてやられそうなときは、アメリカを支援することをしなければならないでしょう。そう言うことも考えておかなければなりません。例え法を犯してもその法の方がおかしいのです。
いずれ早い段階でこういう議論をし、憲法改正をはかるべきです。」
私の別ブログ「弓道修行日記」はどういう練習をしてどういう悟りを得たかを書こうとしていたのですが、最近は弓道している場合ではない。と政治問題にシフトしていますが、暇がありましたら覗いてください。