ヤンキースの黒田博樹、高校で補欠だった男が、今やヤンキースの大エース!その成功には「成功の原則がある」と考える。
楽しかった野球が、地獄の苦しみを味わい、「仕事は全然楽しくない」・・・・仕事とは楽しくないものというのは普通のこと、しかしその仕事を楽しくした人もいる。前項に書いた稲森和夫さんである。
atamanisutto.livedoor.biz/archives/51448642.html
2012年9月27日再掲: このブログの管理者機能では、人気記事ランキングを表示する機能がある。現在のトップはヴィクトール・フランクルの「夜と霧」で、2位は稲盛和夫さんの「生き方」だ。 夜と霧 新版 著者:ヴィクトール・E・フランクルみすず書房(2002-11-06) ...
生き方―人間として一番大切なこと
著者:稲盛 和夫
販売元:サンマーク出版
京セラ最高顧問、稲盛和夫さんの本。
日航の会長に就任されたので、一躍注目を浴びている。この本の売れ行きも70万部を突破したとのことだ。
読み始めて、既に読んだ本であることがわかったが、このブログにはあらすじを収録していない。おかしいと思ったら、ブログを始めた2005年1月以前に読んだ本だった。
この本の発行はもともと2004年8月で、出たばかりの頃に読んだ。強い印象を受け、稲盛さんの本はその後何冊かブログに紹介している。
稲盛さんの本をどれか一冊ということになると、やはりこの本だろう。
この本の構成
この本では稲盛さんの考え方を次の5章にわけ、それぞれ15前後のサブタイトルで紹介している。アマゾンのなか見、検索に対応しているので、是非目次をチェックして欲しい。
1.思いを実現させる
2.原理原則から考える
3.心を磨き、高める
4.利他の心で生きる
5.宇宙の流れと調和する
ひとつひとつに稲盛さんの考えが現れており、どこから読んでも良い本だ。
初めて読んだときに強烈な印象を受けた。筆者がいまだに覚えているものを箇条書きで紹介する。
★心に描いたものが実現するという宇宙の法則
★松下幸之助さんの「ダム式経営」発言に衝撃を受ける
聴衆から「どうやったらダム式経営ができるかやり方を教えてくれ」というQuick-fix質問に対し、松下さんはポツリと「そんな方法は私も知りませんのや。知りませんけども、ダムをつくろうと思わんとあきまへんなあ」と語ったという。
聴衆は失笑を漏らしたが、この言葉に稲盛さんは大きな衝撃を受けたという。松下さんのつぶやきに、稲盛さんは「まず思うこと」の大切さを学んだという。寝ても覚めても強烈に思い続けることが大切だ。
そして有名な言葉が続く。
★現実になる姿が(夢が)カラーで見えているか?
思い続けると、成功への道筋が見えてくる。それもカラーで夢が見えるという。
「手の切れるようなものをつくれ」が稲盛さんの教えだ。
★本田宗一郎さんのエピソード
あるとき稲盛さんは本田宗一郎さんの話が聴きたくて、高価なセミナーに参加した。本田さんは遅れてきた上に、到着一番「みなさんは、いったいここへ何しにきたのか。経営の勉強をしにきたらしいが、そんなことをするひまがあるなら、一刻も早く会社へ帰って仕事をしなさい。」と一喝されたという。
稲盛さんは本田さんの人柄に、よりいっそう魅せられたという。
★好きであればこそ「燃える」人間になれる
人には3つのタイプがあるという。1.可燃性、2.不燃性、3.自然性の人だ。仕事を好きになれば自然性の人間になれる。
★アンドリュー・カーネギー博愛賞を受賞
2003年に稲盛さんは、カーネギー協会から日本人ではじめてアンドリュー・カーネギー博愛賞を受賞したという。過去テッド・ターナー(CNN創始者)、ビル・ゲイツ、ジョージ・ソロスなどが受賞している賞だ。
「個人の富は社会のためにつかわれるべきだ」というカーネギーの言葉に強い共感を覚えると語る。
★人間の細胞1個には30億もの遺伝子情報が詰まっている
遺伝子学の権威の村上和雄筑波大学名誉教授が、「サムシング・グレート」と呼ぶ偉大な力、森羅万象を絶え間なく成長させる宇宙の流れ、そんなものを感じて、65歳で仏門に入ったのだと。
一度は仏門に入った稲盛さんだけに、以前紹介した「1メートルのはしで釜ゆでうどんを食べる話」や、旅人の話などの仏教講話も面白い。
「旅人の話」は、旅人が虎に追いかけられ松の木に登ると、上からは龍が、下からは虎が迫ってくる。そんな絶体絶命の立場にありながら、ふと松の木の上から流れてくるハチミツに旅人は心を奪われるという話。人間の弱さ・欲深さを象徴しているという。
200ページ余りの本だが、活字が大きく、簡単に読める。稲盛さんの本をどれか一冊読むなら、間違いなくこの本だ。
松下さんの講話と比べて、稲盛さんの講話はややクセがあるが、松下さんの450万部を超えるベストセラー「道をひらく」と同じように、座右の書にしても良い本である。」」
※
1.稲森さんの本も勉強することとして、黒田博樹氏の本を勉強しましょう。
「ヤンキース黒田博樹 「仕事は全然楽しくない」
http://mxt.nikkei.com/?4_11880_30740_37
「24時間仕事バカ!」の熱狂人生 黒田博樹 プロ野球選手 高校で補欠だった男が、今やヤンキースの大エース!仕事は全然楽しくない!
「広島カープ黒田博樹、ファンから暴行を受ける」
スポーツ紙1面に、そんな見出しが躍るかもしれなかった。いや、むしろ彼はそれを望んでいたのかもしれない。
1999年の暑い夏の日である。読売ジャイアンツ戦に先発した黒田博樹は、相手打線につかまり2回途中6失点でノックアウト。絶望的な気持ちのまま、試合終了を迎えると、球場に乗りつけた車には乗らず、徒歩で家へと向かった。
黒田は、自分の不甲斐なさを責めた。せっかく多くの子供たちが見に来てくれた夏休みだったのに。そんな日に、俺はなんて無様なピッチングをしてしまったんだ。誰か、俺を殴ってくれ──。
歩いて30分ほどして、自宅に着いても気持ちは収まらない。
そして、ついにはマンションの階下を覗きこんだ。
「俺はもう、死んだほうがいい」
1975年生まれ。大阪府出身。NYヤンキースに所属する投手。97年にドラフト1位で広島カープに入団。2006年には最優秀防御率を獲得するなどエースとして活躍。08年にMLBのLAドジャースへ移籍し4年で41勝。昨季よりヤンキースに。
時を経ること13年。彼は再び、同じような思いにとらわれる。
メジャーに移籍してから4年を過ごした西海岸の名門球団ロサンゼルス・ドジャースを飛び出し、東海岸、いや世界を代表する名門球団ニューヨーク・ヤンキースに入団した1年目の開幕直後のことだ。
世界一といわれるだけあって、メディア、ファンの目は厳しかった。オープン戦から「HIROKIはア・リーグでは通用しない」(DH制があるア・リーグは、ナ・リーグより投手不利といわれている)とたたかれ、記者の質問も容赦がない。
「自分は、ア・リーグで通用すると思うのか?」
「ヤンキースタジアムは右翼側が狭い。ホームランを打たれやすくなるが、どう思うか(実際、ヤンキースタジアムは左打者天国と揶揄されている)」
シーズンが始まると、なかなか思い通りのピッチングができず、バッシングの声は日増しに大きくなっていく。
そんな日が続いたある時、黒田は、ニューヨークの自宅のベランダを見やった。広島時代の、あの日のように──。
日本時代の決め球であり、現在も武器のひとつとなっているフォークを操る黒田だが、その手は、意外にも大きいほうではない。
「あの時は、本当にベランダに近づかないようにしていましたね」
シーズンが終わった黒田は笑いながらもそう語った。
「ヤンキースというチームに来て、あれだけの契約をしてもらいましたから(1年1000万ドル)、どうしても全部勝たなきゃいけない、という感覚になっていました。マラソンでいえばスタートしたてのまだまだ先が長いなか、ピッチが上がっていかないというのは相当しんどかったです」
そんな黒田に、救いの手をさ差し伸べてくれたのが、ヤンキースの指揮官ジョー・ジラルディだった。ジラルディは、黒田を監督室に呼び、こう声をかけた。
「先発投手なら、年間に約32、33試合の登板がある。だけど、俺たちはヒロキに32、33勝0敗を望んでいるわけじゃない。いくらいいピッチャーでも、負ける時はある。だから、1年間コンスタントに投げてくれればいい。それに、ヤンキースは今までのヒロキを見て獲得したんだ。ヤンキースに来たからといって、証明しなければいけないことなんて何もない。(ドジャースで)やってきたことをそのまま続けてくれればいいんだ」
自身「肩の荷が下りた」と言うように、以降、黒田のピッチングはすごみを増していく。6月に4勝1敗、防御率1.98の快投を見せると、以降12勝5敗。
結局、シーズンが終わるまでヤンキース投手陣で唯一ローテーションを守り続け、登板数33、16勝、投球回数219回2/3といずれもメジャーキャリアハイを更新。メディアが言及したヤンキースタジアムでは、11勝、防御率2.72と圧倒的な結果を残す。チームも2年連続の地区優勝を果たし、ジラルディに「ヒロキがいなければ、優勝はなかった」とまで言わしめた。
シーズン序盤、あれだけ辛辣に当たったニューヨークメディアも黒田を絶賛する。
「2012年のヤンキースのエースはHIROKI KURODAだ」
「SUPER HIRO」(HIROKIとHEROをかけて)
黒田は昨シーズンをこう振り返る。
「自己ベストの成績が出せたので、そういう意味での達成感は大きかったです。ただ、やっぱり今まで以上にプレッシャーは感じていましたけどね」
他人から見れば充実のシーズンだったはずだ。しかし、口から出た言葉は「プレッシャー」。
なぜ黒田はここまで大きなものを背負いながら投げようとするのだろうか。彼はその答えを「仕事ですからね、野球は」と言い切る。少なくない給料をもらっている以上、それに対しての結果は求められて当然であり、それに応えないといけないというプレッシャーは常に持っている、と。
「はっきり言って、野球が好きなのか、自分自身でもわからないんですよね」
それはつまり、野球という仕事が楽しくない?
「それ、僕にとって究極の命題なんですよね(笑)。もしかしたらいつまでも野球を好きになれないのかもしれない。いや、好きだから続けているのかもしれない。子供のころからやっているので、宿命のように感じている部分もありますし、でも一方で何度か野球を辞めるタイミングがあったのに辞めなかったということは、好きなのかもしれない……。楽しい時期はあったんですよ。小学校から中学校までは親父が監督をするチームでプレーしていたんですけど、とにかくグラウンドに行くのが楽しみで仕方なかった。ただ、それ以降は地獄でしたけどね。だからこそ、今もあまり楽しんだらいけないと思っているのかもしれないですね。苦しまないといい仕事ができない、というか……」
そう、この高校以降の地獄こそ、黒田博樹という投手の原点であり、彼が常に大きな責任を背負いながらマウンドに立つ理由なのである。
MLB時代の背番号は一貫して18。ヤンキース1年目となった昨季はアンドリュー・ジョーンズ(今季より楽天)から譲り受けた。
黒田博樹は、大阪府で生まれた。父は、元プロ野球選手、母は砲丸投げの選手というアスリート一家。幼いころから野球に親しみ、「楽しかった」中学校までの野球を経て、元木大介、種田仁らが入れ替わりで卒業した関西きっての名門・上宮高校へ進学、野球部の門をたたく。
「甲子園に行きたい」
名門校に入った際の高揚感と淡い期待はしかし、脆くも崩れ去る。入部した選手との実力差は歴然。練習は苛烈を極めた。
特に厳しかった夏の練習の記憶はいまでも黒田の脳裏から離れない。打たれれば、草むしりと走り込みの日々。あるときは、課題であるコントロールが改善されず、監督がいいと言うまで走り込みを命じられた。黒田の記憶では4日間。ボールを使った練習は一切できず、ただ黙々と外野を走り続ける。
体力的にも限界を感じ始めていたとき、チームメイトの母親がこっそり連れ帰り、食事を与え、風呂に入れてくれたこともあった。けれど、この話すらハッピーエンドでは終わらない。きっかけは、その母親が、黒田家も不安だろうとかけてくれた一本の電話だった。
「博樹くん、うちで預かって、食事と風呂を取らせて、監督に気づかれないように朝までに合宿所に帰しますから」
すると母親はこう返した。
「ありがとうございます。でも結構です、タクシーでかまいませんので、すぐにでも合宿所に帰して走らせてください」
黒田は今でもあの時の驚きと、気まずそうな友人の母親の顔が忘れられないという。
「あの時は、なんて母親だ、と思いました。とにかく強烈な母親でしたね。祖母の葬式があった時も、当然高校を休むわけですが、終わったらすぐに『お前はすぐに学校へ帰って走ってこい』ですからね(笑)」
家とグラウンドでのスパルタな日々。それでもまだ、本業の野球で結果が出ていれば「地獄」の記憶としてとどまることはなかったかもしれない。しかし、現実は「生き地獄」だった。
黒田博樹は補欠だったのだ。
「公式戦で投げた記憶はないです。でも、それは監督に嫌われているとかそういうことではなく、単純に実力がレギュラーには程遠かった、ということです」
当時の黒田は3番手投手。公式戦で投げた記憶はないのに、練習や練習試合では何千球と投げた。エースが投げすぎで消耗しないためだった。
「いまでこそ、上宮での経験と母親の厳しさがありがたいと思えますけど、当時は本当に地獄でしたね……」
転機は大学だった。「関西の大学に進学し、楽しい野球をしよう」と思っていた黒田は「レベルの高い関東の野球にもう一度挑戦してみて、だめだったら辞めればいいじゃないか」という父親の勧めもあり、専修大学へ進学、野球を続けることになる。当時、東都リーグ2部だった専修大学には、のちに広島東洋カープのチームメイトとなる小林幹英がひとつ上の先輩として、絶対的な実力を誇っていた。
「ものすごい球を投げている幹英さんを見て、目標というかライバルのような存在ができたことが大きかったですね。それまではあまりに日々がきつくてそんなことを考える余裕すらなかったですから」
思わぬ発見もあった。
「高校の時よりも野球を身近に感じられた」と言うとおり、「あの上宮で3年間やったんだ」というプライドと、自身のかなわなかった甲子園に出場したチームメイトたちに負けたくない、という反骨心が沸々と湧いてきたのだ。
以降、少しずつではあるが、黒田はその実力を伸ばしていった。小林幹英卒業後は、エースとしてマウンドに立ち、1部昇格を果たした神宮球場での試合でスピードガンが導入されて初めての150キロを出すこともできた。そして、プロ入り。広島東洋カープからの1位指名だった。
「今思えば、上宮は相当レベルが高かったんでしょうね。高校生活が3年間で本当によかった(笑)。でも、しんどいことでも、それを乗り越えられればその先に何かあるということがわかったし、だからこそ、きつかった経験をネガティブに捉えるのはもう止めようと思えるようになりました」
ヤンキース入団一年目。大きな重圧とともにキャンプ地・タンパへ。息抜きとなったのが、間借りした家の前に広がるフロリダの海での釣りだった。
補欠として過ごした高校時代から、ニューヨーク・ヤンキースにたどりつくまで。劇的な成長を遂げた半生を振り返りつつ、そのなかで見出した、目標達成の方法や勝利をたぐり寄せるための思考法を紹介する。(KKベストセラーズ・1,470円)
NEXT
カープ入団後、黒田は球界を代表するエースにまで成長。広島ではそのピッチングスタイルから、多くのファンを魅了した。2007年オフには活躍の場をメジャーへと移す。そして2011年、ヤンキースに移籍。日本人選手でメジャーでの実績が評価されてヤンキースに入団したのは黒田が初めてだった。
ただ、この間においても黒田は常に苦しんでいた。「マウンドは戦場」「この試合で野球人生が終わってもいい」という覚悟で試合に臨み、勝利を自分の右腕に託してきた。不安で眠れない夜は幾度となくあった。不安だから練習をした。そして、振り返ってみるといつしか自分の後ろには結果がついてきていた。結果が出ているのだから、必然それは彼のスタイルとなる。いつのまにか自身の座右の銘を「苦しまずして栄光なし」と言うようになった。
苦しんだ先に得たものは、黒田にとって計り知れないほど大きかった。日本時代、初めてFA権を獲得した際、なんとかチームに残ってくれと、広島市民球場に集まってくれたカープファンや、ドジャース時代に出会った一昨年のサイ・ヤング賞投手であるクレイトン・カーショー投手は、黒田にとって大切な存在だ。カーショーは、黒田とドジャースの契約が切れた2010年オフに、ミーティングで「ヒロキ、ドジャースに来年も残ってくれ」と言い、黒田の涙を誘った。実は、カーショーは2012年オフにも黒田にメールをしている。
「ドジャースに戻ってきてくれ」
ヤンキースでは、数々の名選手とプレーし、勝利を求めた。そして、黒田が嬉しかったと振り返る出来事がある。
「(チームの中心選手である)ジーターが、ポサダ(ヤンキースのOB)とかに、うちの投手陣で一番好きなピッチャーのヒロキだよ、っていつも紹介してくれたんです。お世辞かもしれないですけど、すごく嬉しかったし、また一緒にプレーしたいと思いましたね」
2013年、黒田は新たにヤンキースと1年契約を結んだ。2カ月後にはまた新たな苦しみが始まる。
インタビュー終了後、黒田は「仕事が楽しければ人生も愉しい」と表紙に書いてある本誌を手に取って言った。
「僕の時だけ、ここちょっと変えておいてください。仕事、楽しくないんです(笑)」
黒田の投球練習は36球。最後の1球が納得がいかなくてもそこで止める。不安は大きいがハードなシーズンを乗り切るために体を優先、心を捨てた。
黒田は決して子供のころからメジャーを夢見なかった。目標は常に目の前にあるものだと考える。その積み重ねこそが、黒田の成功の秘密だ。
数多くの決断をしてきた黒田。毎回その決断には多くの悩みと不安がつきまとった。けれど重要なことは決断ではなく過程だと考え努力してきた。」
※
1.この黒田選手の話から、①悩みが監督の言葉で消えたと言うこと、②技術を研究すると言うことより投げて投げて投げまくってだんだん頭角を現してきたこと、の2点に興味を持った。①については監督の言った言葉によって、自分の思いを変えさせられたと言うことでが、その自分の思いを変えることは、ヒトに言われなければならないものでしょうか、監督の言った言葉は素人でも考えることができるのではないかと言うことです。仲間4-5人と投球談義をすると言うことはどうでしょうか。
契約金が高いとそれなりに実績を上げないといけないと考えることは、・・・・そういうことはあるでしょう。多くの人が陥る悩みでしょう。しかし、それは言い換えれば自分自身が自分で勝手にプレッシャーをかけているのです。
「ジラルディは、黒田を監督室に呼び、こう声をかけた。
「先発投手なら、年間に約32、33試合の登板がある。だけど、俺たちはヒロキに32、33勝0敗を望んでいるわけじゃない。いくらいいピッチャーでも、負ける時はある。だから、1年間コンスタントに投げてくれればいい。それに、ヤンキースは今までのヒロキを見て獲得したんだ。ヤンキースに来たからといって、証明しなければいけないことなんて何もない。(ドジャースで)やってきたことをそのまま続けてくれればいいんだ」」と言うことは何も監督から追われなくても、友人等で話していたら出てくる意見ではないでしょうか。それを進めて一人で何人分もの意見を出して自分の頭で議論を戦わせるのです。そういう一人議論の中で結論を出す・・・それが哲学をすると言うことではないでしょうか。つまり悩みは一人議論・・・哲学をして解決方法を探すことができるのですが、そこは黒田選手は監督から言われて気づいたと言うことです。
②の技術論について、上達のためには技術についていろいろ研究はしないのでしょうか。そこのところは書いていません。ただひたすらに投げたと言うように書いてありますが、黒田選手がヤンキースのエースとして活躍できる最大の要点は??そこは何かあるはずですがそこは書かれていないようです。企業秘密と言うことでしょうか。
そこで、他の一流選手の話を読んで見ることにしました。
その他の野球選手の話が書いてある本を探して見るとありました。
「自分で自分をだます
松阪の故障以来、明暗が分かれている大リーグの松坂大輔と黒田博樹について江夏は語っている。
松阪は高校時代から非常に器用なピッチャーで、「変化球は遊びのなかで覚えた」というほどだった。江夏は器用なピッチャーは案外好不調の波があり、松坂は器用さがマイナスになっている典型だという。
松阪は30歳を過ぎて体力の限界を感じているところだろうから、右ヒジの手術から復帰したあとの転身を見守りたいと。
黒田は松坂より5歳年上だが、ボールに衰えは感じられない。35歳を過ぎて、本人は衰えを感じているだろうが、練習方法や工夫により、衰えが進む時間を遅らせているのだろうと。
江夏は「自分で自分をだますこともしているでしょう」という言い方をしている。「自分で自分をだます」というのは、たぶん江夏が長年活躍できた秘訣なのだろう。抑え投手は、たとえブルペンで調子が悪くても、「調子がいいんだ」と自分をだますことが大事なのだ。登板が続くので「自分はマウンドに上がったら常にベストなのだ」と言い聞かせ、少々のことでは動揺しない精神状態をつくっていくものだ。」(下記、江夏の言葉)
「あらすじ検索サイト あたまにスッと入るあらすじ:野球」を検索、その中から、
「・・・2012/08/21 – 松阪の故障以来、明暗が分かれている大リーグの松坂大輔と黒田博樹について江夏は語っている。 ..... 後援会長の比叡山の僧侶からは、トップ会談の前に「野球を取るか、女を取るか、ここで決断せい」と言われて、「女を取ります」と即答して
コーチング―言葉と信念の魔術
著者:落合 博満
ダイヤモンド社(2001-09)
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最近の投手の中では、杉内とダルビッシュを高く評価している。
ダルビッシュはベースカバーをサボらずにやっているという。ダルビッシュの無失点イニングの記録が続いていた時は、ランナー2,3塁でも日本ハムの野手は前進守備をして、一点もやらない姿勢をみせていた。江夏は、ダルビッシュがチームのみんなに愛されていると感じたという。
ダルビッシュと対談した時も、「この男はほんとうに野球が好きなんだな。投げることが好きなんだな」と感じたという。
エースの特権
江夏が阪神に入団した時に、当時の阪神のエースの村山は、わざわざボールの縫い目を高くつくらせていた。それが「エースの特権」なのだと。縫い目が高い方が、指にひっかりやすく、フォークボールも落ちやすいからだ。当時は各球団が自分で自分仕様のボールを買っていたのだ。
それに対して江夏は縫い目が高いボールはマメができて痛くなるから嫌いなので、入団2年目にメーカーに頼んで10ダースほど試合球の縫い目をたたいて低くしてもらった。
村山は激怒したが、江夏は「自分の意志でやってもらっているんです」と答えたという。既に阪神の投手ローテーションは江夏を軸にまわりつつあり、強いことが言えたのだと。
考えて投げるタイプ 考えないタイプ
江夏は考えて投げるタイプだったので、考えないバッターはやりにくいという。その筆頭は長嶋さんだ。また、長嶋さんはずっと江夏のカーブをフォークと勘違いしていた。「いいフォークだねぇ」と言っていたという。江夏もキャッチャーの田淵も長嶋さんがフォークと思い込むのをそのままにしていたという。
ロッテの有藤にも2試合連続でホームランを打たれた後で聞いたら、やはり考えずに来たボールを打つタイプだったという。
ピッチャーで考えないタイプは少ないが、その筆頭が江川だという。
江川は天性だけで投げており、プロに入って最初の5年間は「怪物」だったが、最後の4年間は並のピッチャーとなり、9年で現役を引退した。文字通り持って生まれた素質だけでやっていたピッチャーだという。
清武さんの「巨魁」ではナベツネが江川を巨人の助監督にいれるべく画策して、それが清武以下の事務レベルの反発を招き、「清武の乱」が起きたことが描かれている。
江夏の言葉が本当なら、「考えない江川」をたとえ副監督でも指導者としてチームに入れるのは考えものかもしれない。
ピッチャーの筋力は投げてつける
ピッチャーの筋力は投げてつけるもので、トレーニングはあくまで補助的なものだという。これは以前筆者がトレーニングの権威、石井東大教授から聞いたことと一致する。
だから、外国人監督の100球制限をキャンプに持ち込むのは日本の事情に合わないと指摘する。キャンプでは投げて体をつくるのだと。
自分で自分をだます
松阪の故障以来、明暗が分かれている大リーグの松坂大輔と黒田博樹について江夏は語っている。
松阪は高校時代から非常に器用なピッチャーで、「変化球は遊びのなかで覚えた」というほどだった。江夏は器用なピッチャーは案外好不調の波があり、松坂は器用さがマイナスになっている典型だという。
松阪は30歳を過ぎて体力の限界を感じているところだろうから、右ヒジの手術から復帰したあとの転身を見守りたいと。
黒田は松坂より5歳年上だが、ボールに衰えは感じられない。35歳を過ぎて、本人は衰えを感じているだろうが、練習方法や工夫により、衰えが進む時間を遅らせているのだろうと。
江夏は「自分で自分をだますこともしているでしょう」という言い方をしている。「自分で自分をだます」というのは、たぶん江夏が長年活躍できた秘訣なのだろう。
抑え投手は自分をだませなくてはならない
抑え投手は、たとえブルペンで調子が悪くても、「調子がいいんだ」と自分をだますことが大事なのだ。登板が続くので「自分はマウンドに上がったら常にベストなのだ」と言い聞かせ、少々のことでは動揺しない精神状態をつくっていくものだ。
現役投手には手厳しい。藤川球児は投球術が一切ないのに成功できた珍しい例だと。一方、西武の牧田和久はつねに低めにほうれるので、注目しているという。
通算300セーブの岩瀬は、落合前監督の「作品」だ。全盛期を過ぎていて、スライダーは曲がりが大きすぎて、左バッターは振らない。それでも抑えで使われることのつらさを岩瀬は感じているのだろう。
抑えの岩瀬、荒木・井端の1・2番コンビは、落合の「作品」だから、最後まで落合は面倒をみてきた。その意味で、落合は選手思いの指揮官だったのだ。リードだけでメシが食える谷繁もその意味では落合の「作品」なのだろう。
カーブ談義
カーブ談義も面白い。江夏は高校時代カーブもほうれないでプロに入った。高校の野球部の監督に「カーブを教えてください」とお願いにいったら、「真っすぐでストライクもほうれんのに、なにがカーブじゃ!」と、ぶっ飛ばされたという。
高校2年の時に対戦して驚かされた鈴木啓示でも持ち球はカーブと直球だけだった。今の高校生ピッチャーがスライダーやフォーク、チェンジアップなど、各種の変化球を投げるのとは隔世の感がある。
プロに入っても江夏のカーブはあまり曲がらなかったが、王さんには効果的だったという。王さんは曲がるイメージで打ちに行くのだけど、曲がらないのでタイミングがあわなかったのだ。
江夏は堀内みたいなドロップに近いカーブをほうりたいと、練習したが、どうしても投げられない。そこで恥を忍んで試合前に堀内に聞きに行ったことがある。
そうしたら堀内は、笑いながら手を見せてくれた。堀内は子供のころ機械でケガをして、右手の人差し指が1センチほど短い。だからあの抜けるカーブを投げられるのだとわかって、江夏はあきらめたという。
カモのバッター カモれないバッター
バッターではじっと一球を待つバッターがやりにくいという。
一球一球追いかけてきたバッターを江夏はカモにしていた。1981年に江夏が日本ハムに移った時、落合はその年首位打者にはなったが、何でも追いかけるバッターだったので、江夏はカモにしていた。
ところが、翌1982年に落合は、じっと待つというタイプに変身していた。江夏はこいつ変わったなと思ったそうだが、案の定その年は打ち込まれ、落合ははじめて三冠王になった。
まともなヒットは少ないのだが、落合は思いっきり振ってきたので、当たりそこないでもヒットになった。
じーっと待って狙い球をフルスイング。ピッチャーにとっての絶対的な鉄則である「フルスイングさせてはいけない」を完全に破られたのだ。
これにはオチがある。
1981年のプレーオフの後、江夏は落合と偶然会って、落合が「麻雀がしたい」というので、連れて行った。
落合がリーチをかけてきて、江夏が待ちを指摘すると、「なんで江夏さん、待ちがわかるの?」と聞いてきたので、「そんなもん、野球とおんなじで、おまえの読みなんてすぐわかるわい」、「野球でもじっと待たれるほうがピッチャーは怖いんだぞ」と言ってしまった。
するとそれまでは一球一球追いかけてき落合が、翌年は図々しく待つバッターに変身して三冠王を取ったのだ。
たぶん落合は江夏の何気ない一言を参考にしたのだろう。その意味では、落合にとって「運命の麻雀」だったのではないかと。
江夏の気分転換はマージャン
面白い話を江夏は書いている。
気分転換には酒を飲むのが一番だろうが、江夏はアルコールがダメだという。女性と会って気分転換という人もいるかもしれないが、「女性は一瞬ですからね。そのあと疲れるだけですから、私はそれよりか麻雀」だと。
なるほどと思う。山本モナとスキャンダルを起こして巨人から出された日本ハムの二岡とか、やけどをする選手が多い中で、江夏の達観には感心する。
「バッターの裏をかく」時代は終わった
現代野球はバッターの待っているボールがわかったら、その近辺に投げることが主流になっているという。
以前の野球では、真っすぐを待っているときはカーブ、外角を待っているときは、インコースと「バッターの裏をかく」戦術だったが、現代野球は外を待っていると思ったら、外にほうってバットを振らせて凡打に打ち取る、カーブを待っていれば、鋭いカーブを投げて打ち取るという戦術だ。
だからバットの芯をすこしはずすために多くの球種が必要なのだ。