篠田一士著「三田の詩人たち」(講談社文芸文庫)は、
一読あざやかな印象を残す一冊でした。
迷路だった詩の系譜が、全線開通した時のような驚き。
1984年前期の慶應義塾での講義全9回をまとめたもの。
久保田万太郎記念資金講座『詩学』での講義でした。
最初が久保田万太郎。あとに続くのが折口信夫・佐藤春夫
堀口大学・西脇順三郎・永井荷風。
単行本は、小沢書店から昭和62年に出ておりました。
単行本の題名は「現代詩大要 三田の詩人たち」。
う~ん。きょう取り上げるのは、この本でなくて
篠田一士著「現代詩人帖」(新潮社版・1984年)です。
そのなかに、高橋新吉が取り上げられておりました。
「無用の用としての言葉」と題されて、高橋新吉の詩が
とりあげられている箇所でした。
何とも、わからないながら、気になっておりました。
その詩を篠田氏はうれしそうに語っております。
まず詩から引用。
霧雨 高橋新吉
霧雨の しづかにふる朝
幻しの犬が匍ひ歩いてゐる
茶を沸かし ひとり飲めば
姿なき猫が 膝にかけ上る
ひとときの 夢の露地に
竹を植ゑ 石を置きて 風を聞く
雲走り 夕となれば
うつつの窓を閉ぢ ねやにふす
詩を引用したあとに
篠田一士氏はこう語っておられます。
「『幻しの犬』、『姿なき猫』、『夢の露地』の
三つの成句に着目し、これを幻想詩といってみてもはじまらない。
つまり、『うつつ』の場にはありえぬ幻想風景の謂である。
さればといって、霧雨の降りつづく一日、詩人そのひとでも、
だれでもいいが、任意の人物を想定し、そのひとの心中を横切った
幻想の断片を唱ったものと考えるのは、いかにもみみっちくて、
この傑作詩篇には、もとより無縁だろう。
言葉をそのまま率直に読み、また、読みかえしてゆくうちに、
言葉がまことに融通無碍、夢と現(うつつ)の間を往き来し、
その間に、なんの障りもないことに、読むものは、思わず、
おどろきの固唾をのむ。・・・・」
このあとに、篠田一士の解説はつづくのですが、
もちろん、私はそれを読んでも呑みこめなかった。
ただ篠田氏が「この傑作詩篇には」と指摘されている、
ということだけが気になっておりました。
「ひとときの 夢の露地に
竹を植ゑ 石を置きて 風を聞く」
なんだろう。竹を植え、石を置き、風を聞く
「ひとときの 夢の露地」というのは?
うん。わからないのは変わらないのですが、
庭ということを思うと、この詩を思い出しました。