和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

京都の路地というのは。

2020-09-05 | 京都
山折哲雄著「早朝坐禅」(祥伝社新書・2007年)に
京都のことが出てくる。

「・・・さらに、私が二週間に一度ぐらい足を運んで
お参りするのが、西本願寺だ。岩手県の花巻にある実家が、
浄土真宗西本願寺派の末寺だった関係で、私は学生時代、
京都までやって来て西本願寺の御影堂で得度を受けている。
10日間の研修を受け、最終日には頭を剃って墨染めの衣を着て、
当時の門主さんからおかみそりの儀式を受けた。
その西本願寺に散歩の途中に立ち寄り、本堂の畳に坐って
本尊の阿弥陀如来を仰ぎ見ていると、頭のなかに自分自身の
半生がふっと浮かび上がって来る。・・・・・そのなかに、
いまの生き方を考える上で味わい深い発見があるのだ。」
(p102)

このあとに、小見出しがあって
「京都の本質は、『路地』を歩かないとわからない」。
そこを引用。

「・・京都散歩の味わいは、そういった名所旧跡にだけ
あるわけではない。綾小路通での生活を始めてから
気づいて驚かされたのは、路地のそこかしこにささやかな
祠が祀られ、花が供えられていることだ。京都の路地というのは、
だいたい50メートルから100メートルごとに小さな祠があり、
地蔵や観音像などが祀られている。ただの石がひとつ、
ポンと置かれて祀られているような祠(ほこら)も少なくない。

その祠に、地元の人々が毎日欠かさず花を供えている。
生活のなかに、昔ながらの信仰心が根づいている何よりの証拠だろう。
花だけではない。どの祠も例外なく、きれいに掃き清められ、
水が打たれている。これは本当に感心させられた。

・・・私も、
京都には以前から頻繁に足を運んでいたにもかかわらず、
下京区に住むまでそれに気づかなかった。・・・」(p103)

ちょっと坐禅のことが気になってパラパラとひらいたら、
何のことはない、京都のページに目がいきました。

コメント
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