山折哲雄著「早朝坐禅」(祥伝社新書・2007年)に
京都のことが出てくる。
「・・・さらに、私が二週間に一度ぐらい足を運んで
お参りするのが、西本願寺だ。岩手県の花巻にある実家が、
浄土真宗西本願寺派の末寺だった関係で、私は学生時代、
京都までやって来て西本願寺の御影堂で得度を受けている。
10日間の研修を受け、最終日には頭を剃って墨染めの衣を着て、
当時の門主さんからおかみそりの儀式を受けた。
その西本願寺に散歩の途中に立ち寄り、本堂の畳に坐って
本尊の阿弥陀如来を仰ぎ見ていると、頭のなかに自分自身の
半生がふっと浮かび上がって来る。・・・・・そのなかに、
いまの生き方を考える上で味わい深い発見があるのだ。」
(p102)
このあとに、小見出しがあって
「京都の本質は、『路地』を歩かないとわからない」。
そこを引用。
「・・京都散歩の味わいは、そういった名所旧跡にだけ
あるわけではない。綾小路通での生活を始めてから
気づいて驚かされたのは、路地のそこかしこにささやかな
祠が祀られ、花が供えられていることだ。京都の路地というのは、
だいたい50メートルから100メートルごとに小さな祠があり、
地蔵や観音像などが祀られている。ただの石がひとつ、
ポンと置かれて祀られているような祠(ほこら)も少なくない。
その祠に、地元の人々が毎日欠かさず花を供えている。
生活のなかに、昔ながらの信仰心が根づいている何よりの証拠だろう。
花だけではない。どの祠も例外なく、きれいに掃き清められ、
水が打たれている。これは本当に感心させられた。
・・・私も、
京都には以前から頻繁に足を運んでいたにもかかわらず、
下京区に住むまでそれに気づかなかった。・・・」(p103)
ちょっと坐禅のことが気になってパラパラとひらいたら、
何のことはない、京都のページに目がいきました。