2007年「諸君!」10月号の特集
「私の血となり、肉となった、この三冊」に
徳岡孝夫氏が取り上げたのは、まず方丈記で、
3冊目が誰も取り上げない一冊なので、かえって
印象に残っておりました。それは
幸田露伴著「太郎坊」(岩波文庫)で、徳岡氏は
こう指摘されておりました。
「30分もあれば読める短篇小説だが、読めば死ぬまで
忘れないだろう。あるじと細君とあるだけで、登場人物には
名すらない。ある夏の夕方、晩酌の間に起きる出来事で、
これも外国の小説にない終り方をする。・・・」(p246)
はい。読んでみました。
はじまりは『庭に下り立つ』場面でした。
「・・・真夏とはいひながらお日様の傾くにつれて
さすがに凌ぎよくなる。・・・
主人(あるじ)はかひがいしくはだし尻端折で庭に下り立つて、
蝉も雀も濡れよとばかりに打水をしている。・・・」
「主人は打水をおへてのち満足げに庭の面を見わたしたが、
やがて足を洗って下駄をはくかとおもふと・・・
手拭、石鹸、湯銭等を取り来らしめて湯へいってしまった。
返って来ればチャンと膳立てが出来ているといふのが、
毎日毎日版に摺ったように定まっている寸法と見える。」
湯から帰って来ると
「庭は一隅の梧桐(あおぎり)の繁みから次第に暮れて来て、
ひょろ松桧葉(ひば)などに滴る水珠は夕立の後かと見紛うばかりで、
その濡れ色に夕月の光の薄く映ずるのは何ともいえぬすがすがしさを
添へている。主人は庭を渡る微風(そよかぜ)に袂(たもと)を
吹かせながら、おのれの労働(ほねおり)がつくり出した快い結果を
極めて満足しながら味わている。・・・」
(注:旧漢字などは、ところどころ、ひらがなに直しました)
はい。これが物語の導入部となっておりました。
うん。このあとが肝心なのでしょうが、私には
この導入部がなぜだか印象に残っております。
ですから、もうちょっと引用してみます。
「ところへ細君は小形の出雲焼の燗徳利を持って来た。
・・・『さぞお疲労(つかれ)でしたらう。』と云った
その言葉は極めて簡単であったが、打水の涼しげな景色を見て
感謝の意を含めたような口調(くちぶり)であった。主人は
さもさも甘(うま)そうに一口啜って猪口(ちょこ)を下に置き、
『何、疲労(くたびれ)るといふまでのこともないのさ。
かえって程好い運動になって身体の薬になるやうな気持がする。
そして自分が水をやったので庭の草木の勢ひが善くなって生き生き
としてくる様子を見ると、また明日も水撒きをしてやろうとおもふのさ』
と云ひおわってまた猪口を取り上げ、しずかに飲みほして更に酌をさせた。
・・・・」
この猪口が、この物語の重要な鍵となっておりましたが、
どうもわたしは、この前半の庭の箇所の方が印象深いのでした。
さてっと、なぜ徳岡孝夫氏は、この『太郎坊』を選んだのだろう
と、そういう興味で読みました。けどわからない(笑)。
そして、庭といえば、まずこの文を思い出すのでした。