仕事も一段落し、あちこちのブログを眺める。
(就業中に何やってんだか…ごめんね、社長。)
「
双極性障害の妻との日々」を久々に拝読した。
彼が双極性障害と診断されたときに、過去ログを1日中読ませていただいた
ブログである。
私はこんな風に彼を支えることはできない…って心底思ったものだ。
そのブログで最近のコメントに、
2007年4月12日の記事が取り上げられていた。
「躁!うつ病患者の妻の本音」という書籍の一説を抜粋されたものだが、
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良い「躁うう病患者」の妻とはどんな人間だろう。
夫の病気を治すことは私にはできない。
でも縁あって夫婦になったのだから見捨てるのだけはやめよう。
本当の私の心の内を覗いてみると、こんな病気になってすまない、
と誤ってほしい自分がいた。
支えてくれてありがとう、と感謝されたい自分がいた。
でも躁うつ病の夫には反省も感謝も無縁なのだ。
その言葉を望めば望むほどこれだけしてあげているのに、
耐えてあげているのに、と腹立ちが収まらなくなる。
この思いを捨てよう。反省も感謝も望まない。
穏やかにしてあげるだけの自分、見返りを求めない仏のような心を持つのだ。
そのほうがきっと私も楽になる。でも、簡単なことじゃない、というのが本音だ。
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リアルに近い形で私もこの記事を読んでいる。
まさにっ!と思った。
きっとこの病気を患う家族を抱える人間は、立場が妻であれ、夫であれ
親であれ、子供であれ似たような思いを抱く時期があるのではないか。
そして、家族の側が壊れていくことも事実あるわけだ。
しかし、時は流れ、今私は壊れかけではあるが、日々をなんとかやり過ごす。
ご飯を作って、娘の世話を焼き、時々爆発しながらも家事をしながら、
仕事をする。
そして、彼はそんな私に「ありがとう」って言ってくれる。
そして、「こんな俺でごめんね」って言う。
だけど…、あの時「まさにっ!」と思ったのに関わらず、あの時望んだ
反省と感謝の意を彼があらわしてくれるのに関わらず、今の私に満足感は
あまりない。
人間はどこまでも贅沢になれるのだ。
人間はどこまでも貪欲になれるのだ。
今の私は彼が「ありがとう」とか「ごめん」とかを、例えば必死になって
片付け&掃除したあと言ってくれても、
(口先だけで軽く言うなっ!)って思ってしまうのだ。
(だったら、ちょっとでもいいから手伝えよっ!)って思ってしまうのだ。
あんなに欲しかった言葉を手にしても、結局、不平不満が口をつく。
そして、今の私が欲しいものは目標だ。
希望と言い換えてもいい。
外に出れなくても、家でこんなことができたらいいなとか。
娘にこんなことがしてあげられたらいいなとか。
そんな目標を彼に持って欲しいと願っている。
そして、その目標に向かって、ゆっくりでもいいから努力して欲しいと
願っている。
そんな前向きなこと、うつ状態の彼に願うのは間違っているのかもしれない。
日々頑張っていると思っている自分に見返りを求めるのは間違っているかも
しれない。
でも、私はどこまでも贅沢で貪欲なのだ。
でも、それが諦めないってことなんじゃないだろうか。