父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました。干し柿、餅も美味しゆうございました。敏雄兄、姉上様、おすし美味しゆうございました。克美兄、姉上様、ブドウ酒とリンゴ美味しゆうございました。
巌兄、姉上様、しめそし、南ばん漬け美味しゆうございました。喜久蔵兄、姉上様、ブドウ液、養命酒美味しゆうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄、姉上様、往復車に便乗させて戴き有難ううございました。モンゴいか美味しゆうございました。正男兄、姉上様、お気を煩わして大変申しわけありませんでした。
幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敦久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正祠君、立派な人になって下さい。
父上様、母上様。幸吉はもうすつかり疲れ切つてしまつて走れません。何卒お許し下さい。気が休まることもなく御苦労、御心配をお掛け致し申しわけありません。幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。
1964年に開催された東京オリンピックで見事銅メダルを獲得した円谷幸吉氏の遺書なのです。
彼は1968年1月9日に頚動脈を切って自殺しました。
東京オリンピックのあと円谷は「メキシコオリンピックでの金メダル」を宣言しました。しかし、その後の円谷には様々な不運に見舞われ続けました。自衛隊体育学校の校長が円谷の理解者だった吉井武繁から吉池重朝に替わり、それまでの特別待遇を見直す方針変更を打ち出してきました。その上円谷の婚約をオリンピック優先だと破談に追い込みもしたのです。
さらに円谷はオーバーワークを重ね続け、腰痛が再発し、椎間板ヘルニアを発症してしまうのです。1967年手術を受け回復しましたが、すでにかつてのような走りを出来なくなってしまうのです。
円谷と接した人は口を揃えて、真面目で責任感が強く礼儀正しい好青年だったと評します。
当時の関係者は「ノイローゼによる発作的な自殺」「選手生命が終わったにもかかわらず指導者に転向できなかった円谷自の力不足が原因」など様々な憶測が語られましたが、三島由紀夫は、これらの無責任な発言に対して、「傷つきやすい、雄々しい、美しい自尊心による自殺・・・・この崇高な死をノイローゼなどという言葉で片付けたり、敗北と規定したりする、生きている人間の思い上がりの醜さは許しがたい」と強い調子で非難しました。
川端康成は「円谷幸吉選手の遺書」を発表し、「繰り返して《おいしゅうござしました》という、ありきたりの言葉が、じつに純な命を生きている。そして、遺書全文の韻律をなしている。美しくて、まことで、かなしいひびきだ」と語り、「千万言も尽くせぬ哀切」と評しました。
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