自分は今でも出来るならやり直したいことがある。
一つは小学校の時に学校で飼っていたウサギに餌をあげる当番なのに
大雨のせいにして学校に行かなかったこと。
残った野菜クズを持って行くだけだったのに
自分は面倒くさくて行かなかった。
もう一人の当番の人が行くだろうと高をくくって、行かなかった。
あの時なぜ自分は当番という責任があるのに行くことをためらったのだろう。
なぜ、行くことを怠けたのだろう。
ウサギは次の日空腹で死んでいた・・・
二つ目は中学3年時、僕らは受験勉強に追われていた。
けれど決して受からねばという強迫観念めいたものはなかった。
後ろの席のUとはいつも軽口を叩き合う気の置けない仲間だった。
ちょっとばんばひろふみに似た気さくな風貌が近づきやすい雰囲気に拍車をかけた。
僕らの間には、毎日の生活に、受験という灰色の概念を感じさせないものが
確かにあった。
けれどある日彼Uが英語の問題がわからないと訊いてきた。
いつもは丁寧に教えていたはずなのに
自分の勉強を犠牲にして教えていたはずなのに(全て自分の傲慢のなせるわざ)
あの時の僕は虫の居所が良くなかったのだろうか
魔が差したのだろうか
僕はこう言い放ったのだ。
「僕も今忙しいんだ。いつもいつもこんな簡単な問題聞かれても困る。」
彼は無言だった。
それ以来彼の態度は明瞭(あきらか)によそよそしくなった。
僕らは、当たり前のように受験という喧騒の中に身を委ねていったが
あの日以来僕らの関係は確実に変わっていった。
一つは小学校の時に学校で飼っていたウサギに餌をあげる当番なのに
大雨のせいにして学校に行かなかったこと。
残った野菜クズを持って行くだけだったのに
自分は面倒くさくて行かなかった。
もう一人の当番の人が行くだろうと高をくくって、行かなかった。
あの時なぜ自分は当番という責任があるのに行くことをためらったのだろう。
なぜ、行くことを怠けたのだろう。
ウサギは次の日空腹で死んでいた・・・
二つ目は中学3年時、僕らは受験勉強に追われていた。
けれど決して受からねばという強迫観念めいたものはなかった。
後ろの席のUとはいつも軽口を叩き合う気の置けない仲間だった。
ちょっとばんばひろふみに似た気さくな風貌が近づきやすい雰囲気に拍車をかけた。
僕らの間には、毎日の生活に、受験という灰色の概念を感じさせないものが
確かにあった。
けれどある日彼Uが英語の問題がわからないと訊いてきた。
いつもは丁寧に教えていたはずなのに
自分の勉強を犠牲にして教えていたはずなのに(全て自分の傲慢のなせるわざ)
あの時の僕は虫の居所が良くなかったのだろうか
魔が差したのだろうか
僕はこう言い放ったのだ。
「僕も今忙しいんだ。いつもいつもこんな簡単な問題聞かれても困る。」
彼は無言だった。
それ以来彼の態度は明瞭(あきらか)によそよそしくなった。
僕らは、当たり前のように受験という喧騒の中に身を委ねていったが
あの日以来僕らの関係は確実に変わっていった。
息子も感性様の思い出の様な体験をこれから積み重ねて大人になっていくのかな、と思いました。
でもそういう事を自分の中で後悔することに
よって人間らしい優しさが培われるものだと
思います
私もやっぱり同じような経験が
あるので 心がチクチクしました
不意に悲しみのスイッチが入ります。
あの時のウサギは野うさぎで
皆で野遊びにいったとき捕らえた動物でした。
それなのに先生をはじめ、誰もが
私のお粗末をあまり非難しませんでした。
それだけに悲しさが増していくのです。
一度きりの過ちで
いくら謝っても
いくらのた打ち回っても
払拭されない失敗はあるのでしょう。
小さな罪の意識を持ちつつも
明るく振舞う道化になったりするのです。
あまり気にも留めないのに
動物の死は貴い分辛いですね。
人との絆も、固結びがいとも簡単に解けるように
脆く呆気ない。
まりもさんがおっしゃるように
小さな失敗が優しさを培ってくれるのであれば
きっと神様の思し召しだったのでしょう。
淋しさや悲しみの中身は違っても、無条件に共鳴してもらえて、温かい気持ちでいっぱいになりました
僕の感性さんに、女性ファンが多いのがよく分かります
ところで‥野ウサギは、幼い頃の、とても美味しいご馳走でした
失礼しました。
どんなことでしょう。
悲しみの感情が押し寄せるとき
我慢せず泣いた方がいいと言いますよね。
ウサギは幼い頃私も食べました。
山鳥や雉も食べました。
僕の感性さん、優しいお言葉を、どうもありがとうございます
たぶん私は、新しい生活にも慣れ、人恋しくなってきたのだと思います
ご迷惑でなければ、時々、癒されにきてもいいですか?
僕の感性さんも、いろんなものを召し上がってみえますね
どうやって仕留めたのですか