富田高至 編者
恩頼堂文庫旧蔵本 『仁勢物語』31 十六丁表 十六丁裏
和泉書院影印業刊 65(第四期) 1998年
『仁勢物語』31を読んで、謡曲『鵜飼』を思い浮かべた^^
左
31 十六丁表
◯をかし道のはたにて、ある子達の鶇(ツクミ)をすへて
通りけるに、何阿彌といひけん、「よしや、殺生よ、
南無釈迦彌陀」といふ、あこ
右
罪(ツミ)もなき 人は鵜をかひハり
おほくの肴 くふといふなり
といふをうらやむおほかり
31 十六丁表
◯おかし道の端にて、或る子達の鶇(ツグミ)を据えて
通りけるに、何阿彌と言いけん、「よしや、殺生よ、
南無釈迦彌陀」と言う、児(あこ)
罪(ツミ)も無き 人は鵜を飼い張り
多くの肴 食うと言う也
と言うを羨む、多かり
鶇(ツクミ つぐみ))
(エッサイ 本文では「鳥居」に「鳥」)
もっとも小型の鷹の一種。
雄(オス)を「つみ」、雌(メス)を「エッサイ」と云った。
季語:秋 小鷹採りに用いる。
南無釈迦彌陀 (天台宗 法話集http://www.tendai.or.jp/houwashuu/kiji.php?nid=11より)
仏様に手を合わせる時、その仏様が阿弥陀(あみだ)様だとしたら、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」とお唱(となえ)えします。では、南無(なむ)とはどういう意味なのでしょうか。
印度(インド)の国に行かれた方は、その国の人びとが合掌して、「ナマス・テー」と挨拶する光景を御覧になられたことがあるでしょう。
これは「あなたに敬礼します」という親愛と尊敬を込めたことばで、出会った時も別れる時も「ナマス・テー」です。このナマスが「南無(なむ)」なのです。ナマスの語源はナモーで、漢訳して南無と表記しました。音(おん)を写したのです。南無とは、帰命(きみょう)、敬礼(けいれい)の意味で、心の底から全身全霊で仏様を信じることなのです。ですから、「南無仏(なむぶつ)」と唱えたならば、「真心を込めて仏様を信じます」と表明したことになるのです。
さて、お寺参りをなさる機会がおありでしょうが、その時、まずはじめにお堂におまつりされている仏様のお名前をしっかり確かめてから、お唱えしましょう。
阿弥陀様なら、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」
お薬師様なら、「南無薬師瑠璃光如来(なむやくしるりこうにょらい)」
観音様なら、 「南無観世音菩薩(なむかんぜおんぼさつ)」
お釈迦様なら、「南無釈迦牟尼如来(なむしゃかむににょらい)」 などとなる訳です。
あこ
児 吾子 子供
『仁勢物語』和泉書院影印業刊
罪(ツミ)もなき 人は鵜をかひハり
おほくの肴 くふといふなり
『伊勢物語』岩波古典文学大系9 「竹取物語 伊勢物語 大和物語」より写す
罪もなき ひとをうけへば忘草
をのが上にぞ 生(お)うといふなる