母親というのは、子どもにとって時別な存在なのだろう。子どもは自分を生み、育て、守り、受け入れてくれる存在が母親だと思っている。私も、母親とは常に私を受け入れ、私をありのまま理解してくれるものだと思いこんでいた。それなのに、母親は常に私の気持ちを無視して自分の思い通りに育てようとし、母親の求める理想の子ども像にあてはめようとし、それに応えられなかったら私は「悪い子」として断罪される。母はよく私が思い通りにならないと「私はそんな子に育てた覚えはない」と言い、よそ様から私がほめられると「私の躾が良かったからだ」と言った。いつも母は自分のことだけだった。母はどうして私を受け入れてくれないの?どうしてそのままの私を理解してくれないの?どうして母は自分の都合のいいところしか私を見てくれないの?どうして私の境界線を越えて侵入しようとするの?
中学生のとき、私はそんな思いでいっぱいだった。また当時『母源病』という本を見つけた。母親の過干渉や、間違った教育熱が、子どもに喘息をおこさせたり精神不安定にさせるという本だった(今私は、この概念には少々問題があると考えている)。そこで母親の行動はやはり間違っている、と確信をも抱いた。とにかく私は母親の過干渉と監視に、自分が飲み込まれないように必死だった。家では極力口をきかなかった。とにかく母親に背を向け、自分を防御していた。そして怒りと悲しみで心をいっぱいにしていた。そんな私の姿に不安を感じた母は、ますます私に干渉しようとしていた。お互いに険悪な関係が続いていた。
家では口もきかなかった私だったが、外では活発だった。友人と遊んでいると、家での苦しみを忘れることができた。小学生の時は、公園や近くの広場や雑木林でよく遊んだ。その頃の環境も私を助けてくれたと思う。同じ学年の友達が近所にたくさんおり、外から「あそぼ~」と大声をあげると家から飛び出してきた。雑木林で虫をとったり、広場でケイドロや缶蹴りをしたり草野球をしたりと、とにかくよく遊んだ。また、中学生の頃は部活動を通しての友人、クラスでも仲良しができ、よく遊んだ。
このことから、私は友人とはかけがえのない宝だといつも感じていた。家族だけの関係だったら、私は崩壊していただろう。こうして友人がいたからこそ、支えられ生きていくことができたんだと、よく思っていた。
だから、夏休みなどの長期の休みは嫌いだった。家にいる時間が長くなるからだ。母親と長い時間一緒にいるのは耐えられなかった。
そして中学時代も後半になってから、私は母親の存在に耐えられなくなっていた。これは思春期の特徴として、もともと不安定になりやすい年齢だったこともあるだろう。反抗期ということもあっただろう。校内暴力や非行で荒れたあの時代に、中学生の子どもを抱えた母親は不安で仕方なかったこともあるだろう。
しかし、その頃の私にとって、母親は私に侵入し、私を混乱させ、私を断罪し、私が窒息しそうになるにもかかわらず、理想の型に無理矢理娘をおしこめようとする存在だった。母は私を守るどころか飲み込み、破壊しようとしているように感じた。私は本当に気がおかしくなりそうだった。
中学3年生になり、母親は進路のことで更にピリピリしてきた。内申書に響くようなことを書かれないように、また高校は世間で「いい」と言われているところに進学できるように、執拗に言うようになった。
私はぼんやりと考えた。このままこの家から高校に通うのか。そして何となく息苦しい人生を過ごしていくのか、と。家を出たかったが、まだ自活もできない私の年齢では無理だろう。しかし自分がこのまま正気を保っていられる自信もなかった。
そんなある日のこと、父親の親戚が家に来た。親たちが親戚と話している中で私の進路についての話題が出た。母親は「娘はどこがあっているのか悩んでいるんですよ」と言った。「うちの近くにある高校もなかなかいいですよ」と親戚。母親は「でもここからは遠くて通えませんね」と言うと「そこは寮もあるんですよ」と答えた。
襖ごしに話しを漏れ聞いていた私は「寮」という言葉に反応した。寮、いいかもしれない。この家から離れられる!
その夜、父親が「こんな高校もあるらしいよ」と説明してくれた。私は即座に「行ってみたい」と答えた。母親は黙っていたが複雑な表情だった。
その頃は、今のようにパソコンもなく、ネットで検索して探すなんて事はできない時代だ。地元の高校に行くしかないと思っていた私は、乏しい情報の中で得た一縷の望みにすがった。母親は最後まで渋ってはいたが、親戚が近くにおり、何かの時には面倒をみてくれる、という条件に受験を認めてくれた。父親が後押ししてくれたことも大きかった。
私はその高校を受験し、合格通知を得た。家から離れて生活することに不安はなかった。とにかく狂った母親のもとから離れられることが嬉しかった。
私は人生最初の脱出を果たしたのだった。
しかし同じ事繰り返す私って…(苦笑)
中学生のとき、私はそんな思いでいっぱいだった。また当時『母源病』という本を見つけた。母親の過干渉や、間違った教育熱が、子どもに喘息をおこさせたり精神不安定にさせるという本だった(今私は、この概念には少々問題があると考えている)。そこで母親の行動はやはり間違っている、と確信をも抱いた。とにかく私は母親の過干渉と監視に、自分が飲み込まれないように必死だった。家では極力口をきかなかった。とにかく母親に背を向け、自分を防御していた。そして怒りと悲しみで心をいっぱいにしていた。そんな私の姿に不安を感じた母は、ますます私に干渉しようとしていた。お互いに険悪な関係が続いていた。
家では口もきかなかった私だったが、外では活発だった。友人と遊んでいると、家での苦しみを忘れることができた。小学生の時は、公園や近くの広場や雑木林でよく遊んだ。その頃の環境も私を助けてくれたと思う。同じ学年の友達が近所にたくさんおり、外から「あそぼ~」と大声をあげると家から飛び出してきた。雑木林で虫をとったり、広場でケイドロや缶蹴りをしたり草野球をしたりと、とにかくよく遊んだ。また、中学生の頃は部活動を通しての友人、クラスでも仲良しができ、よく遊んだ。
このことから、私は友人とはかけがえのない宝だといつも感じていた。家族だけの関係だったら、私は崩壊していただろう。こうして友人がいたからこそ、支えられ生きていくことができたんだと、よく思っていた。
だから、夏休みなどの長期の休みは嫌いだった。家にいる時間が長くなるからだ。母親と長い時間一緒にいるのは耐えられなかった。
そして中学時代も後半になってから、私は母親の存在に耐えられなくなっていた。これは思春期の特徴として、もともと不安定になりやすい年齢だったこともあるだろう。反抗期ということもあっただろう。校内暴力や非行で荒れたあの時代に、中学生の子どもを抱えた母親は不安で仕方なかったこともあるだろう。
しかし、その頃の私にとって、母親は私に侵入し、私を混乱させ、私を断罪し、私が窒息しそうになるにもかかわらず、理想の型に無理矢理娘をおしこめようとする存在だった。母は私を守るどころか飲み込み、破壊しようとしているように感じた。私は本当に気がおかしくなりそうだった。
中学3年生になり、母親は進路のことで更にピリピリしてきた。内申書に響くようなことを書かれないように、また高校は世間で「いい」と言われているところに進学できるように、執拗に言うようになった。
私はぼんやりと考えた。このままこの家から高校に通うのか。そして何となく息苦しい人生を過ごしていくのか、と。家を出たかったが、まだ自活もできない私の年齢では無理だろう。しかし自分がこのまま正気を保っていられる自信もなかった。
そんなある日のこと、父親の親戚が家に来た。親たちが親戚と話している中で私の進路についての話題が出た。母親は「娘はどこがあっているのか悩んでいるんですよ」と言った。「うちの近くにある高校もなかなかいいですよ」と親戚。母親は「でもここからは遠くて通えませんね」と言うと「そこは寮もあるんですよ」と答えた。
襖ごしに話しを漏れ聞いていた私は「寮」という言葉に反応した。寮、いいかもしれない。この家から離れられる!
その夜、父親が「こんな高校もあるらしいよ」と説明してくれた。私は即座に「行ってみたい」と答えた。母親は黙っていたが複雑な表情だった。
その頃は、今のようにパソコンもなく、ネットで検索して探すなんて事はできない時代だ。地元の高校に行くしかないと思っていた私は、乏しい情報の中で得た一縷の望みにすがった。母親は最後まで渋ってはいたが、親戚が近くにおり、何かの時には面倒をみてくれる、という条件に受験を認めてくれた。父親が後押ししてくれたことも大きかった。
私はその高校を受験し、合格通知を得た。家から離れて生活することに不安はなかった。とにかく狂った母親のもとから離れられることが嬉しかった。
私は人生最初の脱出を果たしたのだった。
しかし同じ事繰り返す私って…(苦笑)
自分の生育環境や、血縁関係について考える事が多くなってきました。
身内って難しいですよね(--;
最初の脱出をされた時の、ウメさんの開放感がどれ程のものだったか、よく分かる気がします。
しかし、中学生だった頃のウメさんの行動力に拍手です!
そうなんですよね。
自分はどうしてこういう人生を
歩むことになったんだろうってよく思います。
するとどうしても家族の多大な影響が…。
ホントに身内って難しいです。
近すぎて傷つけ合っちゃうんですよね。
あの頃の脱出は親がかりなわけですが、
それでも離れられて私は心を病まずにすみました。
神さまっているんだな~なんて思いましたよ。
えへへ。宇砂子さん、いつもありがとう~
母のことを考えると胸がきゅっとなります。
多分、ウメさんのお母さんと私の母はにていると思います。
弟がいるところまで・・・
私も母から離れたかった・・・
小学校のころからそうおもっていた・・・
「支配」する人だったから。
あんなに強かった母だけれど今はよわくなったかな。それでも、子供を支配したがるところは変らない。
私の人格形成にあの母は強く影響しているんだろうなぁ・・・(遠い目)
家とは本来子供にとって安全でなければならない筈なのに容赦なく削られる心の痛さはどれ程であったろうと思うと胸が苦しくなるほどです
15歳でありながら自分を守るためにそこに留まることなく手放す事を選択できた。
本当に凄いと思いました
ウメさんにはその力があったからこそ
恐ろしいモラ夫さんからも脱出できたのだと
感じました
ウメさんのお話で私も勇気が出てきました
本当にありがとう
ウメさんは幸せになることに決定してます!
お母様自身何か心が満たされなかったんでしょうか?なぜそんなに子供を意のままにしたがるのか?
障害を持った娘の親としては、子供は生きてるだけでいいんです。20代後半ですが一緒に
お風呂に入って背中をながしてもらいます。そんな時幸せを感じてます。
お母様がそのままのウメさんを丸ごと受け入れてくれる日がきますように。
父はサイレントモラでしたが、
家から脱出することは叶いませんでした。
後に父が亡くなり、母もくも膜下出血で倒れて
回復してからは、すっかりモラの影も隠れて、
普通のお婆さんになってくれましたから、救われましたけど。
母親の回復振りを見ていると、
モラは脳障害も原因するのではないかなと考えています。
文旦さんもお姉さんなのですか~♪
似てますね。
そして母親もタイプが似ているのですね~。
私も小学生の頃から、なんだか母親といるのが
しんどかったです。
私の母も、年取ってから支配病(笑)は
落ち着いてきましたが、
弟には未だに「勉強しなさい」と言っているようです(爆!)。
弟には思い入れが強いですからね~。
私は今も、遠距離住まいが母と平和に過ごすための
必須条件と思っていますよ~。
なんだか迫り来る母親にただただ息苦しかったんです。
だからそこから逃れようともがいていたら
ひょんなことから逃げ道が与えられました。
今なら、母親なりに必死だったんだろうな~と
思うのですが、当時の私には耐えられませんでしたね。
しかし人生とは不思議なものですね。
自分の家庭から逃げ出すことが2度起こるとは(苦笑)。
今、人生の謎解きをしているところです。
いつも共感あふれるコメント、ありがとうございます!
ウメより
三度目の正直…
それで、今度こそ誰かと家族を作れるのか。。。
それとも三度同じ事を繰り返すか(爆!)。。。
う~~~~ん、神のみぞ知る、ですね。
なんてね…(^^;)
あかねさんの励ましてくださる気持ちが
伝わってきました。
ありがとうございます~。
ウメより