私の場合、モラハラを行使する相手は、いずれも親密な関係にある人だった。夫とは恋愛結婚だったし、上司とも最初は非常に親しい関係にあった。
モラハラの恐ろしいところは、信頼し無防備でいられる相手だと思っていたら、いきなり豹変し足下をすくわれることだ。しかしそれまでいい関係にあったので、まさか相手がわざと自分に嫌がらせをしているとは思えないのだ。「きっと嫌なことがあったのだろう」「たまたま不機嫌だったのだろう」「体調が悪かったのかもしれない」私は不意打ちに遭う度にそう思った。
なぜなら、私自身好きな人に敵意をぶつけるなんてことはあり得ないと思いこんでいたからだ。人は一度相手を信頼したり好きになったりしたら、その気持ちは変わらない、むしろ変えてはいけない、それを貫くのが筋、と思っていた。そして行き違いがあっても、言葉を尽くして相手に伝えようとすれば、きっと理解してもらえる。そして私も辛抱強く相手を理解しようと努力すれば、きっと相手も伝わり分かり合えるはず。
それが人に対する誠実さだと信じていたところがある。私自身、実際に膠着状態にあった関係が、双方の努力だったり、あることがきっかけになったりして改善された例をいくつも見たり聞いたりしていたし、そう思っている人も多いだろうと思う。
生きていると予想もしない出来事が突然起こる。もし、このぎくしゃくした関係のまま、明日夫が交通事故で死んだら…私はとても後悔するだろう。なぜもっと言葉を尽くさなかったのか、相手の不機嫌を理解できなかったのか、と。だから今日できるだけのことはしよう。今日理解し合えなくても、明日は和解できるかもしれない。そう思い、私はできるだけのことをしようとした。
しかし、夫を理解しようと努力すればするほど、夫のモラハラはひどくなり、私も疲れ果て、挙げ句の果てには「夫が交通事故で大怪我して入院してくれればいいのに…さもなくば死んでくれればいいのに」と思うようになったのは皮肉なものである。
とにかく親密な関係で理解し合えないことはない、自分が理解する努力をすれば相手も変わる、と思いこんでいた。
相手を理解しようとする努力はとても大事だろうし、必要なことだとも思う。お互いが努力してこそ、いい人間関係を築くことができると実感もしている。その場で理解し合えなくても、時間をかけて話しをすることで、お互いの理解が深まる場合もある。それも私自身体験していることだ。
ただ、私自身がモラハラの被害に遭って分かったことは、理解することと受け入れることは違う、ということだ。私はずっと、相手を理解し受け入れることが大切なのだと思いこんでいた。
夫がなぜか不機嫌になったり、暴言を投げつけたりする。なぜだろう。どうしてそのような態度になるのだろう。そういえば夫は子どもの頃、父親から暴力を受けていたと聞いた。その頃のトラウマが夫の言動に影響しているのかもしれない。それは非常に辛いことだ。だから多少の暴言があっても、我慢して受け止めてみよう。そしていつも変わらぬ態度で夫に接してみよう。そして夫の子ども時代の話しに耳を傾け、何気なく暴力的環境が成長過程に与える影響などについても話してみよう。そうすれば夫も心の安定を取り戻すかもしれない。私にも至らないところがたくさんある。私も夫の不機嫌の元を作らないように努力しよう。
このような努力をしていたら、もしかして変わる相手もいるかもしれない。しかしモラは変わらなかった。時々変わったと見せかけ、私がほっとするとまた攻撃、という感じでますますエスカレートするだけだった。
ここで私が間違っていたことは、夫を理解することで夫を変えようとしていたことだ。『他人と過去は変えられない』と言うように、他人を変えることはできないということを、私は嫌というほど知ることになった。
相手を理解しようと努力する。そして、その副産物として相手が変わってくれたらそれはラッキーなのだ。しかし変わらなければ「変わらない」ことを理解しなければならない。そしてその結果、自分自身が何を思い、何を感じているかを理解しなければならないと思う。そうしなければ相手をコントロールすることばかりに囚われ、我を見失って、自分の人生を生きることができなくなってしまう。
夫は「議論に勝つためには、相手の言うことを理解しようとしないことだ。相手の話を聞かずに、ひたすら自分の理論をぶつけることだ。」と言ったことがある。まさにモラ的思考で、彼はこれを地でいっていた。だが、こういう論法で世を渡っている人々もたくさんいるだろう。もし相手がそのような態度だったら、理解し合うなんてことはありえない。『バカの壁』がベストセラーになり私も便乗して読んでみたが、冒頭で「話しても分からない」ことがいかに多いか述べられており、夫や上司との関係を思い浮かべながら、なるほどとやけに納得したものだ。
ある人間に対して努力しても理解できない、あるいは非常に苦しい状態が続いているのであれば、時間をおいたり、その場から離れたり、あるいはあきらめたり、「理解できない」ことを理解すればいいのだと、そう思えたときから、私はだいぶ楽になった。
思い起こせば、私は一番近い身内である親とも理解し合えないとあきらめたんだったな~…。それなのに、心の底ではあきらめきれなくて、夫にその思いをぶつけていたのかもしれない、っていうか
そうだったんだろうな~…
モラハラの恐ろしいところは、信頼し無防備でいられる相手だと思っていたら、いきなり豹変し足下をすくわれることだ。しかしそれまでいい関係にあったので、まさか相手がわざと自分に嫌がらせをしているとは思えないのだ。「きっと嫌なことがあったのだろう」「たまたま不機嫌だったのだろう」「体調が悪かったのかもしれない」私は不意打ちに遭う度にそう思った。
なぜなら、私自身好きな人に敵意をぶつけるなんてことはあり得ないと思いこんでいたからだ。人は一度相手を信頼したり好きになったりしたら、その気持ちは変わらない、むしろ変えてはいけない、それを貫くのが筋、と思っていた。そして行き違いがあっても、言葉を尽くして相手に伝えようとすれば、きっと理解してもらえる。そして私も辛抱強く相手を理解しようと努力すれば、きっと相手も伝わり分かり合えるはず。
それが人に対する誠実さだと信じていたところがある。私自身、実際に膠着状態にあった関係が、双方の努力だったり、あることがきっかけになったりして改善された例をいくつも見たり聞いたりしていたし、そう思っている人も多いだろうと思う。
生きていると予想もしない出来事が突然起こる。もし、このぎくしゃくした関係のまま、明日夫が交通事故で死んだら…私はとても後悔するだろう。なぜもっと言葉を尽くさなかったのか、相手の不機嫌を理解できなかったのか、と。だから今日できるだけのことはしよう。今日理解し合えなくても、明日は和解できるかもしれない。そう思い、私はできるだけのことをしようとした。
しかし、夫を理解しようと努力すればするほど、夫のモラハラはひどくなり、私も疲れ果て、挙げ句の果てには「夫が交通事故で大怪我して入院してくれればいいのに…さもなくば死んでくれればいいのに」と思うようになったのは皮肉なものである。
とにかく親密な関係で理解し合えないことはない、自分が理解する努力をすれば相手も変わる、と思いこんでいた。
相手を理解しようとする努力はとても大事だろうし、必要なことだとも思う。お互いが努力してこそ、いい人間関係を築くことができると実感もしている。その場で理解し合えなくても、時間をかけて話しをすることで、お互いの理解が深まる場合もある。それも私自身体験していることだ。
ただ、私自身がモラハラの被害に遭って分かったことは、理解することと受け入れることは違う、ということだ。私はずっと、相手を理解し受け入れることが大切なのだと思いこんでいた。
夫がなぜか不機嫌になったり、暴言を投げつけたりする。なぜだろう。どうしてそのような態度になるのだろう。そういえば夫は子どもの頃、父親から暴力を受けていたと聞いた。その頃のトラウマが夫の言動に影響しているのかもしれない。それは非常に辛いことだ。だから多少の暴言があっても、我慢して受け止めてみよう。そしていつも変わらぬ態度で夫に接してみよう。そして夫の子ども時代の話しに耳を傾け、何気なく暴力的環境が成長過程に与える影響などについても話してみよう。そうすれば夫も心の安定を取り戻すかもしれない。私にも至らないところがたくさんある。私も夫の不機嫌の元を作らないように努力しよう。
このような努力をしていたら、もしかして変わる相手もいるかもしれない。しかしモラは変わらなかった。時々変わったと見せかけ、私がほっとするとまた攻撃、という感じでますますエスカレートするだけだった。
ここで私が間違っていたことは、夫を理解することで夫を変えようとしていたことだ。『他人と過去は変えられない』と言うように、他人を変えることはできないということを、私は嫌というほど知ることになった。
相手を理解しようと努力する。そして、その副産物として相手が変わってくれたらそれはラッキーなのだ。しかし変わらなければ「変わらない」ことを理解しなければならない。そしてその結果、自分自身が何を思い、何を感じているかを理解しなければならないと思う。そうしなければ相手をコントロールすることばかりに囚われ、我を見失って、自分の人生を生きることができなくなってしまう。
夫は「議論に勝つためには、相手の言うことを理解しようとしないことだ。相手の話を聞かずに、ひたすら自分の理論をぶつけることだ。」と言ったことがある。まさにモラ的思考で、彼はこれを地でいっていた。だが、こういう論法で世を渡っている人々もたくさんいるだろう。もし相手がそのような態度だったら、理解し合うなんてことはありえない。『バカの壁』がベストセラーになり私も便乗して読んでみたが、冒頭で「話しても分からない」ことがいかに多いか述べられており、夫や上司との関係を思い浮かべながら、なるほどとやけに納得したものだ。
ある人間に対して努力しても理解できない、あるいは非常に苦しい状態が続いているのであれば、時間をおいたり、その場から離れたり、あるいはあきらめたり、「理解できない」ことを理解すればいいのだと、そう思えたときから、私はだいぶ楽になった。
思い起こせば、私は一番近い身内である親とも理解し合えないとあきらめたんだったな~…。それなのに、心の底ではあきらめきれなくて、夫にその思いをぶつけていたのかもしれない、っていうか
そうだったんだろうな~…
モラハラの被害者って、似たようなタイプが多いのでしょうか。
わたしもウメさんと同じことを考えて、相手を理解しようと努力していました。
こちらが努力すればするほど、モラハラがエスカレートしていった、というのも同じです。
とことん追いつめられて、愛情も思いやりもいっさいなくなり、
相手を理解しようという努力を放棄したとたん、
怒鳴られなくなったのですから、皮肉な話です。
べつにモラ夫が真人間になったわけではなく、
こちらがガチガチに心に鎧を着せて、
相手につけ込むすきを与えないからでしかありませんが。
でも、たえず心に鎧を着せているのは、けっこうストレスなので、
いつか絶対に脱出してやろう、という気持ちは変わっていません。
今年もあと少しですね。
ウメさん、どうぞよいお年をお迎えください。
少なくとも、私が経験したモラハラ、私がモラハラを受けていた時の心情に、もっとも近いと感じています。
相手の善意をとことん利用し、自分の利益のために相手の人格を崩壊させるまで追い詰め、全く罪悪感を感じないモラ。。。
エゲつない事を山のようにしておきながら、なおも相手の評判まで貶め自分の保身をはかるモラ。。。
私が最後にとった対抗策は「誰からどんなに悪く思われても、いい!ごく少数の友人が私が本当はどういう人間かわかってくれていれば、いい!モラから離れるためなら、世界中の人から悪く思われてもいい!」と強く決意することでした。
それしか術がなかったとも言えますが、結局はモラと縁を切ることが自分にとって最大の利益となりました。
今は、ごはんも美味しいし、夜もよく寝られます。それだけでも、とっても幸せです。
今回のウメさんの記事、まったく同感です。頷きながら拝読させていただきました。鋭い洞察力、頭が下がります。
よいお年をお迎え下さい。
モラって、かまえばかまうほどつけあがるということを
後々になって理解することができました(苦笑)。
モラは自分が空虚だから、相手の関心を食べて生きているのでしょう。
その餌を、私達は身を削って与えていたのかもしれません。
私も一度猛反撃したら、しばらくの間はおとなしくなりました。
でもだからといって、しょっちゅう反撃していたら
きっとモラも暴力を振るうようになると思います。
マーチさん、早く鎧なしで安心して生活できる日が来ますように
心からお祈りしております。
年末は何かとお忙しいのではと思いますが
お体にはくれぐれもお大事になさってください。
今年もいろいろとお話下さってありがとうございました。
どうぞ、よいお年をお迎え下さいませ。
ウメより
私のブログに共感してくださりありがとうございます。
でもMさんの心情が私の経験したものと同じであれば
どんなに苦しくお辛かったかと、お察しします。
Mさんのおっしゃる通り、モラは自分が悪いとは
全く思っていないのですよね。
自分の思い通りにならない相手が悪いと思っているのです。
私も結局、モラから離れるために職場をやめ、
家から飛び出したわけですが
それが自分を生き返らせる何よりの薬でした。
Mさん、ごはんが美味しく、夜安心して眠れる環境があること、
その幸せをわたしも今、しみじみと噛みしめています。
来年もいい年にしましょうね~!
ウメより
親しかった人からのモラハラは、心底から傷つきますね。
あの恐ろしさ…もう二度と経験したくないです。
私の心情を綴ったブログに共感してくださったかのんさんも
どんなに苦しまれたことかと、お察しします。
かのんさん、どうぞその思いを存分にブログに綴ってくださいね。
続きを待っています。
かのんさんも、どうぞ良いお年をお迎え下さい。
たちの悪い風邪が流行っていますが、
お体にはくれぐれもお気を付け下さいませ。
ウメより
な~んか、どこまで行っても、決して娘を褒めない(弟はまったく逆)の母に翻弄されて同じような状況のなかで、賞賛を得ようと頑張ってしまったという、モラハラ結婚生活との相関性がわかってきました☆
自分の能力はあーだこーだと主張するくせに、私に対しては、相手の人柄がいいから、感謝の言葉や品物を送ってくれるのだから、肝に命じなさいとか、
いつも、娘の能力を評価したり、褒めたりする言い方をしない。
こんなんじゃ、子供ならおかしくなっちゃいます。しかも、外見は理解がありそうで、客観的には優しいと言われるキャラクター。なんか、モラと同じです。今回離婚してみて、母と夫が単に嗜好がにているだけでなく、こうも似てるのか。。
と、改めて気づくことが多しです。
そういう方、ほかにもたくさんいらっしゃるんでは?と思います。明るいいい人キャラで、なんもわかってないなんて、ほんとやっかいです☆
でも、子供(小さい子)には、感覚的になんか違うってわかるのですよね。
私は、子供に好かれてます☆
ある意味、羅針盤。よかったぁ~。
私も母親を嫌いながら、どこか認められようと必死になっていた頃があったように思います。
親だからわかってくれるはず、と長い間勘違いしていました。
でも今はだいぶ遠い距離に母親も住んでいるので、滅多に会うこともなく、精神的にだいぶ助かっています。
ま、親も大変な時代を生き、心理学的見地も全くなく、とにかくマスコミが流す「中流」のイメージを守らなければと、躍起になっていたのでしょう。
仕方ないですね。
せめて、こちらが巻き込まれないように、距離を取りながら、「お互いの人生を自分で生きよう」メッセージを流し続けています(笑)
ウメより