2011年9月15日(木)
「関東ふれあいの道」(茨城)を踏破したメンバーから、次の目標として”「旧水戸街道」を歩く”
が候補に上がり、今回の企画になった。
日本橋から水戸城中までの約120Kmを毎月1回歩こう、というものである。
第6回のこの日、佐貫駅から牛久宿(牛久駅)までの約13Kmを歩くことにした。
前回(8月18日)、取手宿から牛久宿を目指したが、全国的にこの夏一番の暑さに襲われ、途中の佐貫駅で断念してしまった。
従って今回は、その続きを歩くことにしたのである。
集合場所は、JR佐貫駅改札口で参加者は8名。
佐貫駅前
今日も良く晴れている。かなり暑くなりそうだ。
8時15分、元気よく出発だ。
佐貫駅から10分ほどの佐貫駅東入口交差点を左に曲がると若柴宿へ通じる旧水戸街道である。
稲穂に染まる道を若柴宿へ向かう。
大坂とあるが、大した坂には感じない。
ここから旧若柴宿となる。
宿の出入り口には必ず神社がある。
ここは八坂神社だ。
先ずはこの日の無事・安全を祈る。
旧水戸街道の旧若柴宿通り。
道の両側には、立派な家が立ち並ぶが、牛久宿と近かったため本陣は置かれていなかった。
旧水戸街道宿場の名残りだろう、立派で大きな家である。
まるで”本陣”を思わせるような門構えだ。
昔は旅籠? それとも商家?
今は何をして暮らしているのだろうか?
若柴宿の突き当りに新田義貞の孫貞氏の開基とされる「金龍寺」がある。
金龍寺は、応永十四年(1407)上州太田の金山に建立されたが、新田家の後裔由良国繋の時代、天正18年(1590)
秀吉の小田原城攻めの際、国繁の母(得月院日海妙印大柿)は敵北条軍を迎え撃ち抜群の軍功をたてた功績により、
由良国繁は牛久城主に転封されることとなり、この時金龍寺も牛久へ移された。
金龍寺は最初は得月院にあり、いったん牛久新地に移り、現在の若柴へ移ったのは寛文六年(1666)とのこと。
本堂の裏手に回ると左から孫の新田貞氏、新田義貞、その右に後裔由良国繋の墓が並んで静かに佇んでいた。
金龍寺の向かい側に「田舎庵」という評判の蕎麦屋があるのだが・・・
あいにく”しばらく休業”とのことであった。
旧若柴宿通りを金龍寺から星宮神社方向を観たところ。
星宮神社
平貞盛「駒止の石」
平将門の乱の時代、平貞盛の乗った馬がこの石の前で突然動かなくなった。
不審に思った貞盛が周囲を見渡すと、星大明神の祠があった。
そこで、この祠を懇ろに参詣すると馬は再び動き出した。
以後この石は「平貞盛の駒止の石」と呼ばれている、そうだ。
説明碑が「駒止の石」に隠れて非常に読み難い。もう少し離して建てても良かったのではないか?
竜ヶ崎市と牛久市の境辺り。
道が左右に分かれているが、左の細い道が旧水戸街道だ。
成井の一里塚
江戸日本橋から15番目、水戸街道の起点となる千住からは13番目の一里塚である。
狭い道路だが、車がひっきりなしに通る。
『車には気を付けて下さいっ!』
遠山の谷津田風景
この辺りは、茨城ヘルスロードに指定されており、何度か歩いた場所だ。
牛久向台小学校では、運動会の練習に励む子供たちの姿が。
常磐線の遠山踏み切りをちょうど電車が通過するところだった。
踏切を渡り、牛久宿とは逆の方向へ進む。
少し回り道をして、牛久城址・小川芋銭記念館「雲魚亭」・得月院を観て行くことにした。
国道6号線は車の流れも多い。
根古屋川(ねごやがわ)に架かる橋を渡る。
ちょうど良い具合に木陰があった。
ここで、一息いれよう。
田んぼの向こうに見えるのは牛久沼である。
牛久城址への入口は孟宗竹が生い茂っている。
堀切跡も竹林になっている。
竹林の先に一段小高い所があり、ここが本丸跡と思われる。
本丸跡は竹林に囲まれてかなり広い空間となっているが、草が生え放題だ。
二の丸付近の杉の木が二俣に分かれているところに咲いていた彼岸花
そういえば間もなくお彼岸である。
牛久城址の説明板をカメラに収める。
小川芋銭記念館「雲魚亭」を目指す。
案内標識に従って進み、何とか小川芋銭記念館「雲魚亭」に到着した。
お~っと、あいにく内部見学は、土・日・祝のみとなっているではないか。
雲魚亭の外側の見学は出来るようだ。
ガラス窓から覗き込むが、中は良く見えない。
「かっぱ松」
その昔、村の若者が沼に住むカッパに水の中に引き込まれ、死んでしまうことがたびたびあった。
そこで、村で一番屈強な若者がカッパ退治をすることになった。
ある日その若者は、とうとう沼の畔で昼寝をしているいたずらカッパを見つけた。
若者はカッパを陸へ引きずり上げ、松の木にくくりつけ殺そうとしたのである。
ところが、カッパがあまりに泣いて詫びるので、気の優しい若者は二度と悪事をしないことを約束させ、カッパを放してやった。
しれ以来、沼で溺れる人はなくなった。
カッパをくくりつけた松は「カッパ松」と呼ばれるようになった、そうである。
小川芋銭碑(河童の碑)
芋銭晩年の作である”河童図”と”誰識古人画龍心”の文字が刻まれている。
得月院の山門
山門をくぐって直ぐ左に閻魔堂がある。
中には地獄界の王閻魔様と死者の衣を奪う妹の奪衣婆(だつえば)が鎮座している。
小川芋銭の墓
推定樹齢500年、幹周り500Cm、樹高20mの榧(かや)の木
市の天然記念物に指定されている。
得月院本堂
11時を少し回り、お昼には少し早いが、ここで弁当にした。
この後ゴールの牛久駅まで弁当に適した場所は思い当たらない。
牛久城大手門跡碑
牛久城は、十六世紀はじめのころ、在地領主の岡見氏によって築かれたと云われる。
天正十八年(1590)岡見氏滅亡の後、上野金山城主であった由良国繁が入城した。
元和七年(1621)由良氏が除封になり、廃城になった。
大手門跡碑
黒塀をめぐらした旧家、飯島家の門脇にある明治天皇牛久行在所(めいじてんのううしくあんざいしょ)跡碑。
明治十七年(1884)11月27日から12月10日の14日間、女化原に於て近衛砲兵大隊による大規模な大砲射的演習が行われた。
明治天皇の女化行幸は、この演習 の視察のために牛久で宿泊したものである。
正源寺(しょうげんじ)の仁王像と山門
楼上は戦前まで鐘楼門で、山門と鐘楼が一つ家だったとのこと。
石の仁王像が門の外で迎えてくれる。
正源寺は池波正太郎作品『鬼平犯科帳・雲竜剣』にも登場する、そうだ。
推定樹齢400年の日本特産の落葉高木トチノキの大木
パリのマロニエの木は、この木の仲間だそうだ。
トチノキの実があちこちに落ちていた。
古代の人々は重要な食糧の一つとしていたようだが、自分は未だ味わったことはない。
いくつかを拾い集めて『孫の土産に』とリュックに収めた。
旧水戸街道と国道6号との合流点は渋滞の名所である。
この日は、まあまあの渋滞で、比較的空いていた。
国道6号を進むと間もなくこの日のゴール牛久駅だ。
12時30分、牛久駅に到着。
この日はここで、解散とした。
『今日も暑い中、お疲れ様でしたっ!!』
この日も30度を超す夏日となったが、先月ほどの暑さではなかった。
おかげで、牛久駅まで歩くことが出来た。
ここまで旧水戸街道の約半分を歩いて来たことになる。
残り半分も楽しんで歩きたいものである。
”ウマさんの「旧水戸街道を歩く」の目次”に戻る。
「関東ふれあいの道」(茨城)を踏破したメンバーから、次の目標として”「旧水戸街道」を歩く”
が候補に上がり、今回の企画になった。
日本橋から水戸城中までの約120Kmを毎月1回歩こう、というものである。
第6回のこの日、佐貫駅から牛久宿(牛久駅)までの約13Kmを歩くことにした。
前回(8月18日)、取手宿から牛久宿を目指したが、全国的にこの夏一番の暑さに襲われ、途中の佐貫駅で断念してしまった。
従って今回は、その続きを歩くことにしたのである。
集合場所は、JR佐貫駅改札口で参加者は8名。
佐貫駅前
今日も良く晴れている。かなり暑くなりそうだ。
8時15分、元気よく出発だ。
佐貫駅から10分ほどの佐貫駅東入口交差点を左に曲がると若柴宿へ通じる旧水戸街道である。
稲穂に染まる道を若柴宿へ向かう。
大坂とあるが、大した坂には感じない。
ここから旧若柴宿となる。
宿の出入り口には必ず神社がある。
ここは八坂神社だ。
先ずはこの日の無事・安全を祈る。
旧水戸街道の旧若柴宿通り。
道の両側には、立派な家が立ち並ぶが、牛久宿と近かったため本陣は置かれていなかった。
旧水戸街道宿場の名残りだろう、立派で大きな家である。
まるで”本陣”を思わせるような門構えだ。
昔は旅籠? それとも商家?
今は何をして暮らしているのだろうか?
若柴宿の突き当りに新田義貞の孫貞氏の開基とされる「金龍寺」がある。
金龍寺は、応永十四年(1407)上州太田の金山に建立されたが、新田家の後裔由良国繋の時代、天正18年(1590)
秀吉の小田原城攻めの際、国繁の母(得月院日海妙印大柿)は敵北条軍を迎え撃ち抜群の軍功をたてた功績により、
由良国繁は牛久城主に転封されることとなり、この時金龍寺も牛久へ移された。
金龍寺は最初は得月院にあり、いったん牛久新地に移り、現在の若柴へ移ったのは寛文六年(1666)とのこと。
本堂の裏手に回ると左から孫の新田貞氏、新田義貞、その右に後裔由良国繋の墓が並んで静かに佇んでいた。
金龍寺の向かい側に「田舎庵」という評判の蕎麦屋があるのだが・・・
あいにく”しばらく休業”とのことであった。
旧若柴宿通りを金龍寺から星宮神社方向を観たところ。
星宮神社
平貞盛「駒止の石」
平将門の乱の時代、平貞盛の乗った馬がこの石の前で突然動かなくなった。
不審に思った貞盛が周囲を見渡すと、星大明神の祠があった。
そこで、この祠を懇ろに参詣すると馬は再び動き出した。
以後この石は「平貞盛の駒止の石」と呼ばれている、そうだ。
説明碑が「駒止の石」に隠れて非常に読み難い。もう少し離して建てても良かったのではないか?
竜ヶ崎市と牛久市の境辺り。
道が左右に分かれているが、左の細い道が旧水戸街道だ。
成井の一里塚
江戸日本橋から15番目、水戸街道の起点となる千住からは13番目の一里塚である。
狭い道路だが、車がひっきりなしに通る。
『車には気を付けて下さいっ!』
遠山の谷津田風景
この辺りは、茨城ヘルスロードに指定されており、何度か歩いた場所だ。
牛久向台小学校では、運動会の練習に励む子供たちの姿が。
常磐線の遠山踏み切りをちょうど電車が通過するところだった。
踏切を渡り、牛久宿とは逆の方向へ進む。
少し回り道をして、牛久城址・小川芋銭記念館「雲魚亭」・得月院を観て行くことにした。
国道6号線は車の流れも多い。
根古屋川(ねごやがわ)に架かる橋を渡る。
ちょうど良い具合に木陰があった。
ここで、一息いれよう。
田んぼの向こうに見えるのは牛久沼である。
牛久城址への入口は孟宗竹が生い茂っている。
堀切跡も竹林になっている。
竹林の先に一段小高い所があり、ここが本丸跡と思われる。
本丸跡は竹林に囲まれてかなり広い空間となっているが、草が生え放題だ。
二の丸付近の杉の木が二俣に分かれているところに咲いていた彼岸花
そういえば間もなくお彼岸である。
牛久城址の説明板をカメラに収める。
小川芋銭記念館「雲魚亭」を目指す。
案内標識に従って進み、何とか小川芋銭記念館「雲魚亭」に到着した。
お~っと、あいにく内部見学は、土・日・祝のみとなっているではないか。
雲魚亭の外側の見学は出来るようだ。
ガラス窓から覗き込むが、中は良く見えない。
「かっぱ松」
その昔、村の若者が沼に住むカッパに水の中に引き込まれ、死んでしまうことがたびたびあった。
そこで、村で一番屈強な若者がカッパ退治をすることになった。
ある日その若者は、とうとう沼の畔で昼寝をしているいたずらカッパを見つけた。
若者はカッパを陸へ引きずり上げ、松の木にくくりつけ殺そうとしたのである。
ところが、カッパがあまりに泣いて詫びるので、気の優しい若者は二度と悪事をしないことを約束させ、カッパを放してやった。
しれ以来、沼で溺れる人はなくなった。
カッパをくくりつけた松は「カッパ松」と呼ばれるようになった、そうである。
小川芋銭碑(河童の碑)
芋銭晩年の作である”河童図”と”誰識古人画龍心”の文字が刻まれている。
得月院の山門
山門をくぐって直ぐ左に閻魔堂がある。
中には地獄界の王閻魔様と死者の衣を奪う妹の奪衣婆(だつえば)が鎮座している。
小川芋銭の墓
推定樹齢500年、幹周り500Cm、樹高20mの榧(かや)の木
市の天然記念物に指定されている。
得月院本堂
11時を少し回り、お昼には少し早いが、ここで弁当にした。
この後ゴールの牛久駅まで弁当に適した場所は思い当たらない。
牛久城大手門跡碑
牛久城は、十六世紀はじめのころ、在地領主の岡見氏によって築かれたと云われる。
天正十八年(1590)岡見氏滅亡の後、上野金山城主であった由良国繁が入城した。
元和七年(1621)由良氏が除封になり、廃城になった。
大手門跡碑
黒塀をめぐらした旧家、飯島家の門脇にある明治天皇牛久行在所(めいじてんのううしくあんざいしょ)跡碑。
明治十七年(1884)11月27日から12月10日の14日間、女化原に於て近衛砲兵大隊による大規模な大砲射的演習が行われた。
明治天皇の女化行幸は、この演習 の視察のために牛久で宿泊したものである。
正源寺(しょうげんじ)の仁王像と山門
楼上は戦前まで鐘楼門で、山門と鐘楼が一つ家だったとのこと。
石の仁王像が門の外で迎えてくれる。
正源寺は池波正太郎作品『鬼平犯科帳・雲竜剣』にも登場する、そうだ。
推定樹齢400年の日本特産の落葉高木トチノキの大木
パリのマロニエの木は、この木の仲間だそうだ。
トチノキの実があちこちに落ちていた。
古代の人々は重要な食糧の一つとしていたようだが、自分は未だ味わったことはない。
いくつかを拾い集めて『孫の土産に』とリュックに収めた。
旧水戸街道と国道6号との合流点は渋滞の名所である。
この日は、まあまあの渋滞で、比較的空いていた。
国道6号を進むと間もなくこの日のゴール牛久駅だ。
12時30分、牛久駅に到着。
この日はここで、解散とした。
『今日も暑い中、お疲れ様でしたっ!!』
この日も30度を超す夏日となったが、先月ほどの暑さではなかった。
おかげで、牛久駅まで歩くことが出来た。
ここまで旧水戸街道の約半分を歩いて来たことになる。
残り半分も楽しんで歩きたいものである。
”ウマさんの「旧水戸街道を歩く」の目次”に戻る。