ウマさんの気ままな行動日記(その2)

趣味の釣り・日帰り温泉・街道歩き・ウォーキング情報等を発信していきたいと思っています。コメント歓迎します。

旧東海道川崎宿を歩く

2011年07月11日 | ウマさんの「KDD友歩会」
2011年7月11日(月)

KDD遊歩会」の7月定例ウォーキングに参加した。
今回は、東海道五十三次のうち日本橋から二つ目の宿場、川崎宿を巡り歩くものである。


KDD遊歩会の例会は、5カ月ぶりの参加である。
3月と4月は、東日本大震災の影響で例会も中止となったが、5月6月は私事で都合が悪かったり、
他のウォーキング例会と重なったため参加を見合わせていたのだ。


この日の集合場所はJR川崎駅東口となっている。
東口のエスカレータを下ったところが集合場所である。


線路内に人が立ち入った影響で、京浜東北線などの電車に遅れが出たため、
集合時刻の9時30分を15分ほど過ぎて、ようやく全員が揃った。
結局この日は22名が集まった。


この日のコースの説明が終わり、9時50分、出発である。


川崎駅の地下街を通り、”市役所通り”に出た。
強い日差しが降り注ぐ。気温は既に30度を越えていると思われる。


舗道には、ものすごい数の自転車・バイクが整然と並べられていた。


よく見ると、どの自転車・バイクにも”領収書”が取り付けられている。
自転車80円、バイク100円となっている。
ここは、有料駐輪場になっているのだ。
これならば、取り締まりの手数料は賄えるのだろう。


川崎市役所を過ぎて第一京浜(国道15号)の角に、稲毛公園がある。


大正十四年(1925)から昭和五十九年(1984)まで多摩川に架かっていた旧六郷橋の親柱が公園の一角に移設されている。
右は”ろくごうばし”、左は”たまがわ”の文字が刻まれている。
当時は国道15号のランドマークとなっていた、そうだ。


正岡子規の句碑も見られる。
六郷の 橋まで来たり 春の風

稲毛公園の隣は、稲毛神社である。
神社の幟が風にたなびいて、いかにも神社という雰囲気が伝わってくる。


天地睨みの狛犬
狛犬は左右が阿吽の呼吸をもって、鋭い眼光で厄魔を祓うと伝えられている。
右が天を祓い、左が地を祓うと云う意味が込められている。
上半身についてお願いごとのある人は、右の狛犬を、


下半身についてお願いごとのある人は、左の狛犬を撫でてお参りするように、
と案内されている。
今まで狛犬を撫でてお参りする、ということはなかったと記憶している。


稲毛神社は、明治維新までは「河崎山王社」または「堀之内山王権現」と呼ばれていた。
鎮座地の「堀之内」は、この付近を開発して「川崎荘」とした在地武士の館跡と推定される地名で、
稲毛神社も同荘の鎮守として勧請されたものらしい。
幕末に鎮座地の地名をとって稲毛神社となった。


御神木の大銀杏
樹齢は約一千年といわれている。
江戸時代には、東海道を旅する者に「山王さまの大銀杏」として知られ、
安藤広重の「武相名所旅絵日記」などに当時の神々しい姿が描かれている、そうである。


戦前は神奈川県指定の天然記念物であったが、昭和二十年(1945)戦火を浴びて大きく損傷してしまった。
しかし、年とともによみがえり、その生命力の強さは御神霊のなせるわざ、
と人々はいよいよ篤い信仰を寄せている、そうである。
近年は平和のシンボルとして仰がれるようになっている、とのこと。


第一京浜(国道15号)を六郷川(多摩川下流部の旧名)へ進む。


六郷川(多摩川)に到着。
現在の新六郷橋は昭和五十九年に架け替えられている。


六郷川は、流域の人々に恵みの水を与える一方で、しばしば洪水の厄災をもたらしてきた。
この地に初めて橋を架けたのは徳川家康で、慶長五年(1600)に西国との往来のため「六郷大橋」を建造した。
洪水の度に修復や架け直しを繰り返したが、元禄元年(1688)七月の大洪水による橋の流失を機に幕府は架橋を断念、
明治期まで渡し船による渡河が続くことになった。

(対岸の大田区側の新六郷橋のたもとには、旧六郷橋の橋門と親柱が保存されている)

渡船は、当初江戸の町人が請け負ったが、宝永六年(1709)三月、川崎宿が請け負うことになり、
宿の財政を大きく支えることになった。


ここで引き返し、旧東海道を川崎宿へ向かった。
川崎宿は、ここ江戸口土居(六郷橋付近)から京口土居(馬嶋病院辺り)までの約2Kmに渡る。


文久三年(1863)の川崎宿には、旅籠が62軒の他、八百屋・下駄屋・駕籠屋・提灯屋・酒屋・畳屋・湯屋・鍛冶屋・
髪結床・油屋・道具屋・鋳掛屋・米屋など合計368軒が集まっていた、そうである。
「東海道中膝栗毛」の中で、弥次さん喜多さんが立ち寄って「奈良茶飯」を食べたことで知られる「万年」は、
六郷川で採れたしじみの味噌汁と奈良漬の「奈良茶飯」を提供し、食事処として大層繁盛したと言われている。
やがて宿泊もまかなうようになり、幕末には大名や駐日総領事のハリスも宿泊した。
今は、回りはずらりとマンションが立ち並んでいる。


田中本陣跡
田中本陣は、寛永五年(1628)に設けられ、宿内に三つあった中で、最古の本陣である。
宿内で最も東(江戸に近い)にあったことから、”下の本陣”と云われた。
今は碑が建てられているだけである。


宗三寺(そうさんじ)
中世前期、この付近は「川崎荘」と呼ばれる一つの地域単位を構成していた。
その時代荘内に勝福寺という寺院があったが、勝福寺はその後退転し、宗三寺はその後身と見られ、
戦国時代にこの地を知行した間宮氏がこの寺を中興した、とのこと。


びっしりと立ち並んだ墓の間を縫うように進むと、


墓地の一番奥まったところに、川崎宿貸座敷組合が建立した遊女の供養塔があった。
多くの遊女がこの宿で亡くなったのであろう。
また、大阪方の牢人で、元和元年(1615)川崎に土着した、波多野伝右衛門一族の墓がある、とのこと。


砂子の里資料館(いさごのさとしりょうかん)
東海道川崎宿をテーマにした資料館。
江戸時代末期から明治にかけて、浮世絵で描かれた風景画や世俗画が展示されていた。
約200年前の東海道川崎宿の模型も展示されている。
中は撮影禁止となっている。展示品に与える影響を考慮して、中は相当薄暗い。


砂子の里資料館の斜め向かい側の焼肉屋のベンチに腰を下ろし、資料館から出てくる会員を待っているところ。
焼肉屋に入るために並んでいるわけではない。
暑いために、少しでも日陰で腰を降ろしたい気持ちが伝わってくる。


旧東海道(いさご通り)は、市役所通りを渡って八丁畷方面へと続いている。


佐藤本陣跡
別名、惣左衛門本陣といわれ、門構え・玄関付で181坪の建物であった。
幕末には14代将軍家茂が京に上る際に宿泊している。


佐藤惣之助生誕の地の碑がある。
詩人佐藤惣之助はこの家で生まれ、大正から戦前にかけて活躍した。
「六甲おろし」「青い背広で」「人生劇場」など、今でも多くの人に親しまれている歌を作詞した。
青い背広で 心も軽く 
街へあの娘と 行こうじゃないか
紅い椿で ひとみも濡れる
若い僕らの 生命の春よ



教安寺(きょうあんじ)を訪れた。
お寺は寛永年間に起こった幾度かの富士山大噴火で被災している。
また、第二次世界大戦の中で、東京空襲などにより、鐘楼と山門以外は全て焼失してしまった。
過去帳も全て焼けてしまう、という苦難の歴史があるのだ。


戦災を逃れた鐘楼


無念仏を護るお地蔵様


本堂から見た境内


昭和35年に再建された本堂は、閉まっていたが・・・
住職が現れて、中を見せていただけることになった。


煌びやかな本堂内部
撮影は自由だと云う。


永井白鷗画伯が晩年に力を振り絞って描いた遺作ともいえる襖絵。
青い部分は、七宝焼きの材料で描かれている、そうだ。


永井画伯の描く襖絵は「浄土荘厳の世界」を具現化したもの。
襖は貝を薄く削った破片を貼りつけて描かれており、見る角度によって色が七色に変化する。
住職によれば、現在このような襖絵を実際に描ける人はいない、とのこと。
この寺の自慢の襖絵、だそうである。


川崎宿のはずれ、八丁畷駅近くに建てられている芭蕉の句碑の説明に見入る。


芭蕉の句碑(麦の別れ)
元禄七年(1694)五月十一日(現在の6月下旬)に、俳人芭蕉が江戸深川の庵を発って郷里伊賀国拓植庄へ帰る時、
江戸から送ってきた門人たちと川崎宿はずれの八丁畷の腰掛け茶屋で、だんごを食べながら休憩した。
そして最後の別れを惜しんで「翁の旅を見送りて」と題して各人が俳句を読みあった。
弟子たちの句に対し、芭蕉は、
麦の穂を たよりにつかむ 別れかな
と返歌し、弟子たちの親切に感謝し、麦の穂を波立てて渡る浦風の中を出立して行った。
芭蕉はこの年の十月、大阪で亡くなったのでこれが関東での最後の別れとなった。
(芭蕉の碑保存会 川崎史話 小塚光治著より抜粋)


この日のゴール、京急八丁畷駅が見えてきた。


京浜急行八丁畷駅の踏み切り。
ちょうど急行が通過するところだ。


踏切を渡って数十m行くと、”八丁畷の由来と人骨”の説明板があった。
江戸時代の東海道は、川崎宿を過ぎてから隣の市場村(横浜市鶴見区尻手・元宮・市場)へ至っている。
この区間は八丁(約870メートル)あり、畷(なわて)といって、道が田畑の中をまっすぐに伸びていたので、
この地を八丁畷と呼ぶようになった、そうだ。


この付近では、江戸時代から多くの人骨が発見され、戦後になってからも道路工事などでたびたび掘り出され、
その数は十数体にも及んでいる。
これらの人骨は、東京大学の専門家によって科学的に鑑定され、江戸時代頃の特徴を備えた人骨であることが判明。
江戸時代の記録によると、川崎宿では震災や大火・洪水・飢饉・疫病などの災害にたびたび襲われ、多くの人々が落命した。
恐らくそうした災害で亡くなった身元不明の人々を、川崎宿のはずれの松や欅の並木の下にまとめて埋葬したのではないか。
不幸にして落命した人々の霊を供養するため、昭和九年、川崎市と図ってここに慰霊塔を建てた、とのこと。
(川崎市教育委員会の説明書きによる)


京浜急行八丁畷駅
この日は、ここで解散となり、京浜急行で川崎宿を後にした。
『今日は大変暑い中、お疲れ様でしたっ!』



午前中のみの歩きで、歩行距離は大してなかったが、照りつける太陽の下、結構疲れた。
しかし、心配された”熱中症”もなく、全員無事歩き終わって一安心。


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