ウマさんの気ままな行動日記(その2)

趣味の釣り・日帰り温泉・街道歩き・ウォーキング情報等を発信していきたいと思っています。コメント歓迎します。

三ノ輪から吉原・浅草周辺を散策

2010年08月24日 | ウマさんの「KDD友歩会」
2010年8月24日(火)

KDD遊歩会」の8月定例ウォーキングに参加した。
今回は、三ノ輪から吉原・浅草周辺を散策する歩程約6Km(予定)のウォーキングである。

この日の集合場所は、明治通りと日光街道の交差点に位置する日比谷線「三ノ輪駅
明治通りと日光街道の交差点のため交通量が多い。

       「三ノ輪駅」は現在改修中で、駅前は狭い。
       
              集合場所を向かい側の交差点にしていたのだが、
              ちょうど日陰になっており、大勢の人が集まってくるため・・・
              

急遽三ノ輪駅からほど近い、最初の訪問地「浄閑寺」に変更である。

       浄閑寺は、安政二年(1855年)の大地震の際、たくさんの新吉原の遊女が投込み同然に
       葬られたことから、「投込寺」と呼ばれるようになった、とある。
       埋葬された遊女は2万人を超え、その平均年齢は21.7歳だったというから哀れである。
       
                 東京はこの日も朝から35度近い猛暑にもかかわらず、30人が集まった。
                    

生まれては苦界、死しては浄閑寺」と花又花酔の川柳に詠まれた
新吉原総霊塔」にお参りをすることに。
本堂横の小さな門をくぐり・・・

       本堂裏手に回ると、「新吉原総霊塔」が建立されていた。
       
              線香をあげて、合掌!
              
                     新吉原総霊塔の前には文豪永井荷風の詩碑が建てられている。
                     永井荷風は、遊女の暗く悲しい生涯に思いを馳せて、しばしば
                     この寺を訪れていたそうだ。
                     

次に向かったのが、「目黄不動尊
目黄不動は、江戸五色不動の一つで、目白、目赤、目黒、目青、目黄の各不動尊のこと。
徳川三代将軍家光が、天海大僧正の具申により、江戸府内の名ある不動尊を指定した
と伝える、とある。
目白、目黒、目赤、目青の各不動尊は1箇所だが、目黄不動尊はここ永久寺の他に
江戸川区の(最勝寺)がある。

       頑丈な鉄製の門は硬く閉まっていたが、横に小さな入口があり、そこから中に入ることが出来る。
       周りをビルに囲まれた小さな不動尊が祀られていた。明治通りのすぐ脇だが、意外と静かである。
       不動尊の目が黄色かどうかははっきりとは確認できなかった。
       

目黄不動尊の後、明治通りを渡って10分ほど南に向かうと、「一葉記念館」がある。
かつて一葉が住んでいた龍泉寺町(現竜泉町)である。

       より一葉の理解を深めるために、同記念館の古参職員の方からその生い立ち
       から一世を風靡するまでを説明して貰った後、館内を見学した。
       なお、館内は撮影禁止となっている。
       
              一葉記念館前の公園には、「一葉女史たけくらべ記念碑」が建てられている。
              碑には一葉の旧友歌人、佐佐木信綱の歌と書が刻まれている。
              

一葉記念館から数分のところに「飛不動」がある。

       ”飛不動”の名前の由来は、
       創建後まもなく、この寺の住職が修行のため、ご本尊のお不動様を笈(おい)
       で背負い、はるばる奈良大峯山まで運んだときのことである。
       江戸の寺ではご本尊が留守の間、お不動様の分身を携えた人々が集まって、
       お不動様を観想してそれぞれ一心に祈っていた。
       すると、お不動様は一夜にして大峯山から江戸に飛び帰り、祈った人々の
       願いを叶えて下さったというのである。
       以来「空を飛び来て、衆生を守りたもう、お不動様」飛不動尊と呼ばれる
       ようになった、とのこと。
       
       「はやぶさ」が地球へ奇跡の帰還を果たしたが、その運用室には
       「飛不動」のお守り札が貼られてあるそうだ。
       あらゆる手は尽くしたので、最後に神頼みをしよう!ということで、
       職員が「飛不動」のお札を手に入れて貼ったとのこと。
       自分はあいにく見ていないが、この「飛不動」、はやぶさ帰還のときは
       TVで何度か紹介されたそうだ。       

この辺りは台東区の下町であろうか?
家がびっしりと建っているが、ほとんどの家には庭が見当たらない。
代わりに軒下に鉢植えを並べたり、

       道端の僅かな隙間を利用して緑を育てている家も多い。
       
              下町ならではのこういった風景を見るのは楽しい。
              涼しさを感じる。
              


宝永年間から享保年間にかけ、地蔵坊正元が発願し、江戸市中から広く寄進者を得て、
江戸の出入り口となる六つの街道沿いの寺院に銅造の地蔵菩薩坐像を造立した。
これが「江戸六地蔵」で、「東禅寺」は奥州街道に対応する。


春慶院には二代目高尾太夫(万治高尾)の墓がある。
高尾太夫は、吉原で最も有名な花魁で、吉原の代表的名妓で代々襲名された。
この名を名乗った遊女は十一人いたとも言われる。
仙台藩主伊達綱宗の意に従わなかったために、三叉の船中で惨殺されたというのは俗説のようだが、
この墓は仙台侯の内命によって建てられたと言われる。


山谷堀に向かう途中、このようなモダンなビルがあった。
実はこのビル、誠向山正法寺という、天正十年(1582年)創建の日蓮宗のお寺なのだ。
真ん前を歩いていると全く分からなかったので、道路の反対側から撮った。
webによると、ビルの中は本堂と大半が墓地になっているようだ。


山谷堀公園からスカイツリーが正面に見える。

       今は埋め立てられて公園になっているが、かつては吉原への通路の一つで、
       ”吉原通い”を別名”山谷通い”とも言った。
       

この後、墨田公園で昼食を摂り、浅草寺へ向かった。
墨田公園の一角、言問橋の袂に「東京大空襲の碑」が建てられている。

大空襲の際、戦火に追われて向島方面に逃げる人と浅草方面に逃げる人が
言問橋の上でぶつかり合い、逃げ場を失って隅田川に落ちて多くの命が
失われたのを想いだす
』と、当時を語る先輩の声が震えていた。


浅草寺二天門近くの免税店。
中国からの観光客と見られる人達が買い物をしていた。

       ようやく二天門に到着である。
       
              二天門をくぐると、浅草寺の広い境内に出た。
              左に宝蔵門、右に五重塔が見える。
              
                     本堂横の木陰でこの日は解散となった。
                     『暑い中、お疲れ様でしたっ!!』
                     

せっかくの機会なので、工事中のスカイツリーを見て帰ることにしよう。
この後、暑さで疲れもあったが、再び言問橋に向かった。


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