ウマさんの気ままな行動日記(その2)

趣味の釣り・日帰り温泉・街道歩き・ウォーキング情報等を発信していきたいと思っています。コメント歓迎します。

日本100名城巡り No.63 鳥取城

2011年05月20日 | ウマさんの「日本100名城」巡り
2011年5月20日(金)


鳥取城は、鳥取市北東の久松山(標高263m)山頂の山上の丸を中心とした山城部の中世城郭と、
山麓の天球丸・二の丸・三の丸・右膳の丸などの平山城部からなる近世城郭という
性格の異なる二種類の城郭で構成された梯郭式の城郭である。

近世城郭は、池田光政により三十二万石の城として整備され、寛永九年(1632)池田光仲が藩主となり、
鳥取藩として確立した。

中央付近に見えるのが、二の丸三階櫓跡の石垣
背後の久松山(標高263m)の山頂に山上の丸がある。
御三階櫓跡・仁風閣の一部が見える。


中の御門より久松山・三の丸跡(右手は鳥取西高校)方向を見たところ。
中の御門は、慶長の大改築以後、大手門とされている。


中の御門より北側の北御門方向の堀を見たところ。


北御門辺りから南側の堀を見たところ。
北御門は、慶長大改築前は大手門だったが、改築後に搦手門とされた。


鳥取城入口の北御門でパンフレットがあればと探してした時、地元ボランティアの方が見学案内を申し出てくれた。
城内不案内の自分達にとっては非常にありがたいことだったので、遠慮なくお願いした。


ここからはボランティアの方にくっ付いて案内してもらった。
城跡の唯一の建造物として、復元された城門


城門(高麗門)を内側から見たところ。


二の丸跡
ニの丸には、江戸時代の前期には藩主が住み、家老などが政治を司る、藩主の御殿があった。


二の丸の奥まったところに石垣を築くために石を切り出した石切り場の跡がある。
ニの丸の敷地を造る時、久松山の尾根を切り崩しながら、得られた石材で石垣が築かれた。
石垣を築く時、最も経費のかかる工程は、石の運搬であるため、城の近くで石垣に適した石が採れることは重要である。
鳥取城の石垣は大部分が久松山で産出する石が使われている。


二の丸御三階櫓跡
御三階櫓は2015年までに復元することが既に計画されている、そうだ。


二の丸御三階櫓跡から仁風閣を望む。


二の丸御三階櫓跡から鳥取市街を望む。


二の丸走り櫓跡
御三階櫓とは土塀で連結されていた。


山麓の山下の丸一帯に築かれた石垣群(その1)
二の丸の御三階櫓台を見上げる。


山麓の山下の丸一帯に築かれた石垣群(その2)
裏門跡に至る石段より二の丸を見上げる。


山麓の山下の丸一帯に築かれた石垣群(その3)
裏門跡を見上げたところ。


山麓の山下の丸一帯に築かれた石垣群(その4)
御三階櫓の石垣に残る「お左近」(おさご)の手水鉢(ちょうずばち)
近世城郭としての鳥取城の基礎は、池田長吉の時代に築かれたものである。
この時の工事にあたって、長吉の子池田長幸夫人の侍女お左近(おさご)の活躍はめざましいものだったようで、
このお左近の手水鉢を石垣に築きこんだところ、難工事であった御三階櫓も無事完成した、という伝説があるそうだ。


山麓の山下の丸一帯に築かれた石垣群(その5)


山麓の山下の丸一帯に築かれた石垣群(その6)
太鼓門跡付近から菱櫓跡、天球丸跡などを望む。


菱櫓跡から一段高いところにある天球丸を望む。


天球丸跡
二の丸より一段上の平山城部の最高所に構える。
関ヶ原の戦いの功で入城した池田長吉の姉、若桜鬼ヶ城主の山崎家盛の夫人だった天球院が、
離婚した後に居住していた。


天球丸跡から鳥取市街を見下ろす。
二の丸の御三階櫓跡からの眺めを凌ぐ。
中央に見えているのは、菱櫓跡


天球丸の入口近くに井戸跡が残っている。
中はよく見えない。



仁風閣
明治四十年(1907)時の皇太子殿下(後の大正天皇)の山陰地方行啓の御行に合わせて造られた。
設計は、当時宮廷建築の第一人者と云われた片山東熊とのこと。


旧藩主池田家の別邸として建てられたフレンチ・ルネッサンス様式の建物である。
中国地方屈指の明治建築として名高く、昭和四十八年(1973)国の重要文化財に指定されている。
殆どの材料が海外からの輸入品で作られているが、わずか8か月で完成させたそうである。


螺旋階段
生木を曲げて造られている、というからすごい。


螺旋階段を上から見たところ。


仁風閣の二階へ上がると、仁風閣の命名者の東郷平八郎直筆の額が正面に掲げられている。


御座所


謁見所


御食堂
明治四十年五月に「仁風閣」を皇太子殿下の御宿舎として使用された時、御食堂にあてられた。
フェンス内の寝椅子などはその時のものだそうだ。


仁風閣二階の御寝室から見た久松山
二の丸三階櫓の石垣が見える。


2階ベランダから見た仁風閣の庭園
池泉回遊式日本庭園で、宝隆院庭園と云い、若くして未亡人となった十一代藩主(池田慶栄)夫人宝隆院を
慰めるために、十二代藩主池田慶徳が造ったものである。


一応ここまでで、ボランティアの方の案内は終わりとなった。
丁重にお礼を述べて、お分かれした。『本当にどうもお疲れさまでしたっ。ありがとうございましたっ』

予定の時間を少々オーバーしてしまったが、山上の丸へ行かないで帰る訳にはいかない。
かみさんは、『車で待ってるから』というので、一人で山の上丸に向かった。


二の丸跡の奥まったところに小さな稲荷神社があり、その奥が登山口になっている。


しばらく登ると登山口があり、名札が架けられてあり、杖なども置かれている。
個人名が書かれた名札というところを見ると、愛好会のようなものがあるのだろうか?


急峻な坂道「中坂道」の石段が続く。


くま注意”の看板がある。
まさか! 本当に熊が出るとしたら物騒なことである。


五合目に小さな祠が建てられていた。


一合目から九合目までずっと急な石段と木の根っこの階段が続く。


今まで登った山城の中でも1,2を争うほどのきつい登りである。
汗が吹き出し、息が上がる。


九合目まで来ると目の前に山上の丸の高石垣がそびえていた。
本丸はもう直ぐだ。


最初に本丸の東側にある二の丸跡へ行ってみた。
休憩用の旧い建物が建っているだけであった。


二の丸の先のさらに一段下がったところに三の丸跡があった。


三の丸跡から引き返し、本丸跡へ向かう。


本丸跡に残る、車井戸
天守の近くにあり、慶長の大改築の際に3年かけて掘られたそうである。


天守台は、階段の上の一段高いところにある。


天守台からの眺望
素晴らしい眺めである。日本海が見える。


鳥取砂丘も見える。


鳥取市街の展望は絶景である。


動画で見るとこのような感じ。



本丸の一段下にある着見櫓跡(つきみやぐら)からの展望も素晴らしいものであった。
三の丸跡(鳥取西高校)や堀、鳥取県庁などが見える。
息を切らして登ってきただけのことはあったというものである。


鳥取城を見終わったところで、今回の城廻りは終わった。
今回の旅行では、九州・四国・山陽・山陰の合せて19城を廻ったが、どの城も晴らしい、の一言に尽きる。
まだ残り40城あるが、どんな姿を見せてくれるのか、今から大いに楽しみである。

鳥取市内で遅い昼食を採り、家路についた。
それぞれの城を想い浮かべながら、鳥取道・中国道・名神道・東名道をひた走った。


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1 コメント

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Unknown (井上孝美)
2015-08-06 14:27:16
初めまして
横浜の井上孝美ともうします。

お願いがあって、メールをしております。

当方はチョウを研究しております。

わが国でもっとも希少な種類のひとつに、ヒサマツミドリシジミがあります。193.3年に鳥取県久松山で発見され、それに因んで音読みしてヒサマツと命名されました。
今回井上は、初めてその生態の解明ができ、日本鱗翅学会に10月に発表いたすことになりました。
この際に、ウマさんの写真を使用させていただきたく、メールをしております。何とぞご許可を得たくよろしくお願いいたします。
またクレジットいたしたく、ご本名を頂戴できればと思います。
突然の申し出でですが、よろしくご検討のほどお願いいたします。

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井上 孝美
〒224-0001
横浜市都筑区中川1-2-A1203
t-inoue@piano.ocn.ne.jp
045-911-1374
080-1196-1485
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