ウマさんの気ままな行動日記(その2)

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日本100名城巡り No.12 会津若松城

2011年06月05日 | ウマさんの「日本100名城」巡り
2011年6月5日(日)


会津若松城は、“戊辰の役”での白虎隊の悲劇などで余りにも有名な城である。
地元では一般的に鶴ヶ城といい、地元以外では会津若松城と呼ばれることが多い。

会津鶴ヶ城は至徳元年(1384)葦名直盛が造った「東黒川館」が始まりと云われている。
後に会津領主となった葦名盛氏が東黒川館を改築し、現在の城郭の原型を築いた。
当時の名前は「黒川城」と呼ばれた。

天正十七年(1589)には芦名氏を滅ぼした伊達政宗が入城したが、
翌年、豊臣秀吉による天下統一後の“奥州仕置”により、伊達氏は会津を去った。
代わって、秀吉の命により、蒲生氏郷が伊勢松坂より会津に入国。
文禄二年(1593)には蒲生氏郷により本格的な7層の天守閣が完成させるとともに、
黒川を若松に改め、町割りを作り、また城の名前も「鶴ケ城」と命名している。

慶長三年(1598))越後春日山城より上杉景勝が会津入りし、出羽・佐渡を加えて
120万石を領することになる。
“関が原の役”後の翌慶長六年(1601)上杉景勝は米沢に転じさせられ、蒲生秀行が再び会津に入る。
慶長十六年(1611)に会津地方を大地震が襲い、石垣や天守閣は大きく傾いてしまった。
その後蒲生氏は、秀行(30歳)忠郷(25歳)と若死にし、蒲生家は途絶えてしまった。

代わって寛永四年(1627)に、伊予松山城から加藤嘉明が鶴ケ城へ入城する。
寛永十六年(1639)嘉明の跡を継いだ嗣子の加藤明成は、天守閣を五層にし、西出丸と北出丸を増築している。
鶴ヶ城が現在の姿になったのである。
寛永二十年(1643)加藤明成は会津40万石を幕府に奉還。

その直後、寛永二十年(1643)、三代将軍家光の弟・保科正之が最上から23万石で転封。
元禄九年(1696)将軍の命により松平姓と葵の紋を用いるようになった。

文久二年(1862)松平容保が京都守護職を命じられ、京都に住むことになる。
慶応四年(1868)伏見・鳥羽の合戦があり、松平容保は会津へ帰った。
この年、奥州越列藩同盟が成るが、戊辰戦争で鶴ケ城は開城して明治を迎えることになったのである。


鶴ケ城歴代城主の家紋


西出丸の櫓台石垣と水堀


西出丸駐車場に車を停めて・・・


西出丸から登城することにした。


西出丸登城口
西出丸から梅坂を進む。


西出丸から本丸帯郭への弓門(西中門)跡


本丸帯廓の石垣から見た内堀


本丸公園は桜が植えられている。


鐘撞堂への急な石段を上る。


弓門跡石垣上にある鐘撞堂
時守を置いて昼夜時刻を城下に報じていた堂。
戊辰の役(1868)では、ここに西軍の砲火が集中し、時守が相次いで斃れたにもかかわらず、
開城の最後まで正確に時を報じ、大いに味方の士気を鼓舞した、とのこと。


北出丸の石垣
北出丸は、寛永十六年(1639)加藤明成のときに馬出を出丸に整えたもので、
城の大手口を守る重要な場所となった。


北出丸から見た内堀
北出丸と本丸を繋ぐ椿坂が見える。


北出丸正面から見た太鼓門跡
北出丸から本丸へと通じる城への玄関口である。
この坂を制するものが城を制すると言われるほど重要な坂であった。


太鼓門跡から北出丸方面を見たところ。


太鼓門跡虎口石垣の大きな石


太鼓門跡
北出丸から椿坂を登り切ったところにある太鼓門(大手門)には、多聞櫓と呼ばれた櫓が建てられていた。
胴の径1.8mの大太鼓を備え、藩主の登城や非常事態、その他の合図に使用されていたところから
太鼓門と呼ばれていた。


太鼓門跡を進むと天守閣が現れる。
5層5階建ての堂々とした造りである。


天守閣石垣
天守閣の天守台が野面積みの石垣は珍しい。


武者走り
鶴が城の大手門の渡櫓などへ簡単に昇り・降りができるように造られている。
V字型に造られており、”武者走り”とも呼ばれ鶴が城の石垣の特色の一つでもある。


武者走り石段
地表面での占有面積も少なく、石積みについての当時の知恵がうかがえる。。


稲荷神社
この稲荷神社は約600年前にお城ができた頃から守護神として祀られていた。
当時はこれより東手の三之丸にあったものを現在地に移されたと云われている。


築城の縄張りに苦心した芦名直盛が、勧請先の田中稲荷神社に祈ったところ、霊夢があり、
目覚めてみると降り積もった雪に狐の足跡があり、それをしるべとして築城の縄張りを決め、
名城を築くことができた、との伝説があるそうだ。


埋門
天守閣の北東にあって、本丸奥御殿の北側から本丸帯郭に通じる枡形の城門である。
城内の他の門や建築物に比較して低い構えで”埋門”(うずみもん)の形態をとっていた。
築城当時は表門であったが、寛永十六年(1639)の加藤明成による改築後は裏門となっている。


鶴ヶ城のマスコットキャラの”お城ボくん”がお出迎えだ。


天守閣正面から見たところ
昭和四十年(1965)、92年ぶりに再建された。
5層5階、天守台石垣高さ11m、天守高さ25mである。


天守閣入口


会津若松城の天守台は約400年前の、蒲生氏郷が天守閣を建てたときに築かれたものである。


ただし、内側の石積みは慶長十六年(1611)の大地震の時の被害により、
加藤時代に行われた改修の時に積み直されたものだそうだ。


天守台の内部は年間を通して外部より気温が低いため、昔は塩や保存食の貯蔵庫として利用されていた。
若松城の天守台内部には「塩蔵」が設けられていた。
海を持たない会津にとって塩は貴重品であり、越後(新潟)方面から舟で輸送された塩は、
籠城時の備えとして蓄えられていた。
戦争に備え、塩の備蓄状況を見回りする蔵役人と、積み上げられた塩叺の情景が再現されている。


天守閣内部は武具や肖像画などが多数展示されているが、撮影禁止となっている。
しかし、全て複製の展示なので、撮影禁止は止めても良いのでは、と思う。

天守閣最上階


天守閣からの眺望(その1)
本丸埋門辺りを見たところ。


天守閣からの眺望(その2)
本丸広場の先に茶室麟閣が見える。


天守閣からの眺望(その3)
赤瓦で葺かれた南走長屋と鉄門、および干飯櫓


天守閣からの眺望(その4)
太鼓門跡と武者走りの石段が見える。


天守閣から動画で見た様子。
白虎隊の少年達が自決した飯盛山が見える。


復元された南走長屋内に入ると、そこは土産物店になっていた。


黒瓦(左)と赤瓦(右)
蒲生氏郷によってこの地に初めて天守閣が築かれた当時は、屋根瓦は黒い「いぶし瓦」だった。
しかし、積雪が多く気温が低い東北地方では、瓦内に浸みこんだ水分が凍結し、ひび割れが多発したため、
その対策が求められていた。
赤い瓦は、保科時代から天守閣に使われた。
鉄釉を塗られた瓦は焼き上がりは赤茶色っぽくなったため、”赤瓦”と云われるようになった。


南走長屋の渡り廊下


鉄砲狭間から、このように鉄砲を撃っていた。


干飯櫓内部
米俵などが積まれていた。


石落しの様子


本丸の表門である鉄門と天守閣


南走長屋干飯櫓
干飯櫓は、城内にあった11棟の二重櫓の中で最大の櫓であり、食糧倉庫であった。
南走長屋は、鉄門と干飯櫓を結ぶ走長屋で、武器庫であった。


鉄門(内側)
扉や柱が鉄板で包まれているところから鉄門の名が付けられている。


鉄門(外側)
帯郭から本丸内の奥御殿に通じる表門で、堅固な多聞櫓城門である。


鉄門の外側から見た天守閣


上杉謙信公仮廟所跡
天正六年(1578)に亡くなった上杉謙信は、居城の越後春日山城に葬られた。
その後、跡を継いだ上杉景勝が会津へ移封するのにともない、謙信の墓所も会津へ移された。
慶長六年(1601)上杉景勝の米沢転封により、謙信の遺骸も米沢城の本丸に移された。


本丸公園から天守閣・南走長屋・鉄門を動画で見たところ。


土井晩翠の「荒城の月」の歌碑
この詩碑には、晩翠氏直筆による「荒城の月」1番~4番までの歌詞が記されている。


本丸東南角石垣上にある月見櫓跡櫓台
武器庫としての二重櫓であったが、櫓にかかる月影が素晴らしいため、この名が付いたと言う。


茶壺櫓跡櫓台
本丸東側石垣上にあり、かっては、茶器類・武器類を収めた二重の櫓が建てられていた。


茶壺櫓台上から見た廊下橋を見たところ。
朱色の廊下橋が印象的である。
石垣は、高さ20m余で、城内では最も高く・美しい扇勾配をなし、”忍者落し”とも云われている。


茶室麟閣
千利休の子・少庵が建てたもので、戊辰戦争後の明治五年(1872)城下に移築され保存されていたが、
平成2年に元の場所である鶴ヶ城内へ移築復元されている。
入口は右側で左側は出口になっている。


寄付
外露地に構えられる建物で、茶会に先立って客が連客と待ち合せたり、
身支度を整えて、席入りの準備をするための施設。


茶室麟閣
この茶室は、茶人千利休が秀吉の逆鱗にふれ切腹を命じられ、その怒りが利休の子・少庵に及び、
千家茶道が途絶えるのを危ぶんだ時の城主蒲生氏郷が、少庵を会津に匿い、千家再興の道を秀吉に願い出た。
その結果、秀吉の怒りが解け、千家再興が許されたのである。
その恩義に報い、少庵が氏郷のために建てたものだという。


千家再興が許された後、千少庵の孫により、武者小路千家・表千家・裏千家の三千家が興され、
現在の隆盛を見るにいたった。
写真は茶室にじり口


離れの茶室で抹茶(冷)を一服
『結構なお味でしたっ』


茶亭の裏塀


本丸公園から見た天守閣


廊下橋枡形虎口
二の丸から本丸帯郭東側への五軒丁堀に掛る橋で、往時は、敵が攻め寄せた時には切り落とし、
また、見透かされないように屋根の有る構造であった、そうである。


五軒丁堀
本丸東側の石垣は20mの高さで城内一。
石垣は布積(ぬのづみ)で構築され、緩やかな美しい曲線を描いています。


枡形虎口正面から見た廊下橋


枡形虎口


鶴ケ城歴代城主の家紋



本丸にあった櫓の一つである「御三階」は明治三年(1870)阿弥陀寺(会津若松市七日町)に移築され、
現存している、そうである。
会津若松市は、ちょくちょく訪れるので、次の機会には阿弥陀寺を訪問してみたい。


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