ウマさんの気ままな行動日記(その2)

趣味の釣り・日帰り温泉・街道歩き・ウォーキング情報等を発信していきたいと思っています。コメント歓迎します。

日本100名城巡り No.61 高取城

2013年07月25日 | ウマさんの「日本100名城」巡り
2013年7月25日(木)


高取城は、江戸時代は高取藩の藩庁であった。
日本国内では最大規模の山城で、備中松山城(岡山県)・岩村城(岐阜県)とともに日本三大山城の一つに数えられる。
元和元年(1615)の一国一城令の際も重要な山城として破却を免れ、現在に至るまで石垣や石塁が残されている。
国の史跡に指定されている。

高取城の特徴としては、以下が上げられる(Wikipedia参照)

標高の高い山城であるが近世の施設がある。
戦国時代以前の山城は山上の要害に築かれているが、近世になるにつれ小高い丘や平地の中心部に居城が移されることが多い。
高取城のように山城のまま石垣、天守、櫓、門、殿舎まで築かれた例は少ない。
高取城は3代将軍家光より「一々言上に及ばず」という許可があり、江戸時代を通じて各建物の存続と完備ができたとしている。

縄張と虎口の構成
高取城の縄張りは山城であるにもかかわらず、広い敷地をもち、連郭式縄張りと云われている。
高取城は標高が高い場所に築城されているわりには、天守、櫓、門等の多くが建設される余裕があり、
平山城と同じような構えをもっている。

天守と小天守が建てられている
山城に天守がある例は日本国内ではいくつかあったが、小天守まである例はほとんどない。
そもそも山城は眺望が優れており、近世の山城には天守すらない例があるが、
高取城は「三重天守」以外にも一回り小さな「三重小天守」まである。

櫓の数棟が多く、独特の名称が多い
高取城は櫓の数が多い。
三重櫓は、天守、小天守を含めると6棟あって、二重櫓が7棟あり、白漆喰総塗籠で姫路城に似た外観であったと考えられている。
また、鐙櫓、具足櫓、十方矢倉、火之見櫓、客人櫓、小姓櫓など、独特の櫓名があるのも高取城の特徴である。


千早城を登城を終えて、次の目的地である高取城へ向かった。
高取城は備中松山城(岡山県)・岩村城(岐阜県)とともに日本三大山城の一つに数えられる。
登城するにはハイキングする装備と覚悟が必要だ。
かみさんは『この日の登城は止めよう、スタンプだけ押して帰ろう』と言いだした。
午前中に千早城に登城したことで、大分疲れているし、何よりも高取城では草が生い茂っていて、
マムシが出るのが怖い、と言いだす始末。(Webでマムシが出ることを知ったようだ)

何処まで車で行けるのか、登山道や城内の状況はどうなのかを確かめるべく、
先ずは100名城スタンプが置かれている、高取町観光案内所「夢創舘」へ行ってみることにした。


夢創舘」では何も買う訳でもないのに親切に道を教えてもらって恐縮した。


仕入れた情報によると、高取城の数百米手前の八幡神社辺りまで車で行けるとのこと。
高取城一帯はハイキングコースになっていて、ここ「夢創舘」から高取城まで約5Km、1時間40分はかかるらしい。
歩いて行くにはちょっと遠すぎる距離である。
また、登山道や城内は草が生えていて、もしかしたらマムシがいるかもしれない、とのことだった。


しかし、車で残り数百米まで行けるのであれば、ここで、スタンプだけ押して帰る訳にはいかない。
ここはマムシに注意して登城するしかあるまい。
かみさんを説得して・・・
高取城の古地図(これは有料10円)などを入手して、登城口まで車を走らせた。


ここが「夢創舘」で教えてもらった登城口と思われる。
車の切り返しができるほどの広さがあった。


14時08分、登城開始!


杉林の中にいきなり石垣が現れた。
これは古地図から推測するに壺坂口の侍屋敷があった曲輪跡ではないか。


しばらく山道が続く。


150mほど進むと、壺坂口門の標識が見えてきた。


壺坂口門跡


壺坂口門跡の石垣
草に覆われた様子が昔を偲ばせる。


山道に橋?が架けられて、上り易くなっている。


壺坂口中門跡


壺坂口中門を過ぎて大手門へ通じる十七間櫓跡の石垣
古地図によると、この左手一帯には侍屋敷(城代屋敷)があった。


大手門跡の枡形虎口


大手門跡の手前に写真が展示されていた。それによると、
高取城は明治頃までは写真のような威容を誇っていた。
元和元年(1615)の一国一城令の際も重要な山城として破却を免れ、現在に至るまで石垣や石塁が残されている。
取り壊し直前の大手門前からの写真から当時を偲ぶことができる。(右の写真)
左は奈良産業大学の「高取城CG再現プロジェクト」により天守閣を含む全容が明らかとなり、
その壮大な規模や姿から大天守や小天守、太鼓櫓などの基本的な様式の城郭の様子が伺える、と説明されていた。
こんな立派な城を取り壊すとは何とももったいないことをしたものだと、思う。
この後復元という話はないのだろうか?


大手門枡形虎口内の石垣


十三間多聞櫓跡
二の丸への櫓門があったところだ。


二の丸広場に出た。
二の丸方向からの太鼓御櫓台と新御櫓台


日本三大山城の説明板
日本国内では最大規模の山城で、備中松山城(岡山県)・岩村城(岐阜県)とともに日本三大山城の一つに数えられる。
高取城は標高583mの高取山にあるが一番高い山城ではない。
最も高い場所にあるのは岩村城(721m)である。
しかし、麓からの高低差は446mと一番高い。次は備中松山城の290mだから、その差は156mだ。
従って攻め上がる時の困難性を考慮すると、高取城が一番の山城だということになる、との理由である。


二の丸跡の説明板の左手を進むと十五間多聞櫓跡がある。


十五間多聞櫓跡を進むと右手に太鼓御櫓跡がある。


太鼓御櫓に向かって左手には新御櫓跡がある。
先ほどの太鼓御櫓の石垣とは明らかに違う、丸みをおびた石が使われている。


太鼓御櫓跡、新御櫓跡の反対側に本丸の石垣が聳え立っている。
石垣の正面には杉の古木が立ち塞がっているように見える。
石垣建設当時からこの杉の木はあったのだろうか?


本丸の石垣


本丸の石垣
直線的な石垣が美しい。曲線も良いが、直線もまた見応えがある。
打込み接ぎと思われる。


本丸石垣の下にある高取城址碑の前で記念撮影


二の丸跡の角に城が詠まれた碑があった。
巽高取 雪かとみれば 雪でござらぬ 土佐の城
土佐とは高取の旧名だそうだ。


本丸石垣の左手を通って本丸へ向かう。


本丸への最後の虎口を抜けると・・・


14時42分、本丸に到着した。
壺坂口から34分かかった計算になる。


本丸跡はかなり広々としていたが、草がぼうぼうと生えていて、
かみさんはスティックを使いながら恐る恐る歩く。
本丸手前のところで20Cmくらいのマムシを見つけたのはまだ知らせていない。


本丸天守台前に井戸があった。
水が溜まっていた。枯れたことがないのだろうか?


天守閣が建っていたところ(天守台)である。
石垣の上に建てられるので、下は穴蔵として使われていたと思われる。
このような天守台は時々見かける。


本丸石垣から二の丸を見降ろす。
苔むした反りのない直線の石垣が美しい。


本丸方向からの太鼓御櫓台と新御櫓台


本丸南東の角からの眺望
他の隅櫓跡からは木々が生い茂り、全く眺望が利かなかった。


本丸を後にする。


新御櫓台から降りることが出来るtと思ったが・・・


七つ井戸からの登り口は、草がぼうぼうと生い茂っていて、下るにはちょっと勇気がいる。
先ほど本丸へ上がる際に、20Cmほどのマムシの子供を見かけたので、ここは遠慮しておこう。
”毒ヘビなどの発生”の注意書きも見える。
かみさんは絶対にこんなところから降りたくないと言って聞かないだろう。


新御櫓台跡に引き返す際に見た石垣。
野面積みと思われる。


二の丸跡の東屋で一休みだ。


二の丸跡の東屋方向から見た太鼓御櫓台と新御櫓台
石垣の前に桜の木が生えているが、石垣が隠れて見えないのは残念である。
今のうちに切っておいた方が良いのではないか。
放っておくと巨木になって切るに切れなくなる。


七つ井戸からの下山を断念したため、登って来た道を下る。
20分ほどで登城口まで下り、高取城を後にした。


この日は、午前中は千早城、午後になって高取城と2つの山城を巡り、やや疲れた。
明日は今回の最後となる「松坂城」を訪問する予定である。
どんな城なのか、楽しみである。


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