ウマさんの気ままな行動日記(その2)

趣味の釣り・日帰り温泉・街道歩き・ウォーキング情報等を発信していきたいと思っています。コメント歓迎します。

日本100名城巡り No.29 松本城

2012年04月28日 | ウマさんの「日本100名城」巡り
2012年4月28日(土)


今年初めての100名城巡りは、松本城である。
関東以北の100名城はほぼ巡り終えているため、100名城巡りは遠くまで出かけなければならなくなった。
ウォーキングに多くの時間を割いていることもあり、なかなか出かける時間が取れないでいたが、
久しぶりに時間が空いたので、かみさんと出かけた。

松本城に到着して先ず目に飛び込んできたのは、朱塗りの埋の橋(うずめのはし)と五重六階の天守閣である。
左側は、三層の乾(いぬい)小天守だ。
松本城は、姫路城、彦根城、犬山城とともに四つの国宝城郭のひとつで、別名深志城とも呼ばれている。


埋の橋は通り抜けることは出来ない。
かつてはこの橋を通って天守閣へ行った記憶があるが、今は通行止めになっている。


内堀に沿って歩くと、松本城が掘に映った姿が特に美しく見える。
左から三層の乾小天守、五層六階の大天守、二層の辰巳附櫓、一層の月見櫓がバランス良く並んでいる。


後方の北アルプスの白い雪と天守閣のコントラストは殊の外美しい。


本丸の黒門一の門(櫓門)に通じる黒門二の門


黒門二の門は、高麗門の造りとなっている。
平成二年(1990)に復元された、とのこと。


黒門一の門は本丸に入る正門で、櫓門と枡形からなり、本丸防衛の要となっている。
松本藩では本丸御殿が奥書院(黒書院)であり、その入口にあたるので黒門と称したという。
昭和三十五年(1960)に復元されている。


黒門には、松本藩初代城主石川氏の家紋が貼り附けられている。


黒門の入口真下に、280年間に及んだ松本藩歴代城主とその家紋の説明があった。


東側の本丸御殿跡から見た松本城天守閣
左から月見櫓、辰巳附櫓、大天守、渡櫓、乾小天守
松本城は上記5棟が昭和二十七年(1952)に国宝に指定されている。


天守閣をバックに鎧兜を纏った武者姿の若者と一緒に写真を撮っている観光客。


大天守と乾小天守を繋いでいる渡櫓が天守への入口(大手口)になっている。


天守閣は、五重に見えるが、内部は六階になっている。
写真は天守三階で、窓がないため、暗い。
この部分は外からは分からないため、最も安全な場所とされ、戦のときに武士が集まるところであった。


天守閣内部には、火縄銃が数多く展示されていた。
松本城は戦国末期、鉄砲戦を想定した漆黒の天守の典型として、現存する唯一の城だそうである。


火縄銃の弾丸


天守四階から五階に上がる階段は狭く、最も急な角度になっている。


最上階の六階は、重臣たちが戦いの作戦会議を開く場所と考えられている。
天守五階から六階に上る階段は、踊り場が設けられ、階段は緩やかだ。


天守閣の最上階(六階)


天守閣からの眺望(北側)
松本神社と旧開智小学校が見える。
手前の屋根は乾小天守。


天守閣からの眺望(北側)
重要文化財の旧開智小学校


天守閣からの眺望(西側)
内堀と埋の橋、後方に北アルプスが望める。


天守閣からの眺望(東側)
本丸御殿(総坪数905坪(約3,000㎡)、総畳数1,560畳)の広大さが分かる。
後方青いシートが見える辺りが二の丸御殿跡


天守閣からの眺望(南側)
女鳥羽川、大名町通り、中町通り方面。


天守閣の天井には、松本城を守る神様、二十六夜神が祀られている。


辰巳附櫓の窓は上方が狭く、下方が曲線状に広がった花頭窓が採用されている。
花頭窓は、禅宗建築とともに鎌倉時代に中国から伝わり、城郭建築にも広がった。


月見櫓内部
北・東・南の三方が吹き抜けになっており、解放的な造りになっている。


月見をするための月見櫓
松本城主松平直正(家康の孫)によって、三代将軍家光公を迎えるために増築されたもの。
朱塗りの回縁が印象的である。
辰巳附櫓・月見櫓は平和な時代になって造られたため、戦うための備えがないのが特徴とか。
ここから月を眺めてみたいものだ。


太鼓門櫓は、文禄四年頃(1595)築かれ、時の合図、登城の合図、火急の合図などの発信源として
重要な役割を果たしていた。


太鼓門(櫓門)は、平成十一年(1999)に復元されたものだが、
総間口約10m、桁行9間、梁間5間の堂々としたものである。


太鼓門櫓
特別公開(2012年4月21日(土)から5月6日(日)までの16日間)されていた。


太鼓門櫓から外堀を望む。


太鼓門櫓から二の丸御殿跡を見たところ。



太鼓門櫓内部
平成十一年(1999)に復元されたため、内部はまだ新しい。


太鼓門枡形と二の門(高麗門)


二の門から見た太鼓門一の門(櫓門)


門の石垣には、存在を誇示するために巨岩が使われることが多い。
この玄蕃石(げんばいし)は、高さ約4m、周囲約7m、重さは22.5トンもあるそうだ。


二の丸御殿跡から天守閣東面を望む。


松本城の北隣に鎮座する松本神社。


松本神社の本殿
若宮八幡宮、今宮八幡宮、片宮八幡宮、共武大神社、淑慎大神社の五社が合祀されていることから、
地元では”五社”と呼ばれている、そうだ。
昭和二十八年(1953)の若宮八幡宮との合祀を期に、名称が松本神社と改められた。


松本神社から北へ数百mほど行くと、現在の開智小学校がある。
なかなかモダンな造りである。


現在の開智小学校の裏隣りに松本城の天守閣から見えた旧開智小学校があった。
明治六年(1873)に開校した我が国最古の小学校のひとつ、とのこと。
擬洋風建築で、昭和三十六年(1961)に国の重要文化財に指定されている。


松本城南側出入口から千歳橋(せんさいばし)に至る通りは大名通りと呼ばれている。
明治維新以前は城主の家臣が居を構えていて、「大名丁」と呼ばれていたそうだ。


大名町大手門井戸
環境省の平成の水百選に認定されている「まつもと城下町湧水群」
湧水は他にも市内にいくつか見掛けた。


大名町で見かけた天守閣を模した造りの古本屋「青翰堂」(せいかんどう
かなり旧い造りと思われるが、両側をビルに挟まれて窮屈に感じられる。


川沿いに縄手通りの家並が続く。


「縄手」は城の南総堀と女鳥羽川に挟まれて「のように細長い土」というところから由来している。


縄手通り
四柱神社の参道として発達してきた。
今では、土産物屋などが軒を連ねている。


縄手通りにある、「カエル大明神」
かつて、女鳥羽川には河鹿蛙が美しい鳴き声を奏でていたそうだが、川が汚れ河鹿蛙は上流に追いやられてしまった。
昭和四十七年(1972)もう一度、水清く・活気ある通りにカエようと、カエル大明神を祀ったとのこと。


四柱(よはしら)神社
天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、天照大神を祭神とし、4柱の神を祀ることから四柱神社という。
鳥居が高かったのが印象に残る。


中町通り
江戸末期や明治に大火に見舞われ、主要な施設や町屋が多数失われた。
そこで、再三に渡る火災から守るため、”なまこ壁の土蔵”が造られ、今に引き継がれている。


中町通り
殆どの店は白壁と黒なまこの土蔵造りに統一されてはいるが・・・


中には歴史を感じさせる旧い造りの店もある。



この日は、朝から快晴で、4月末というのに気温は夏日となった。
松本城とその周辺を歩きまわったため、汗だくである。
一っ風呂浴びるため、松本城からほど近い、日本100名湯のひとつ、浅間温泉「坂本の湯」へ向かった。


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