霞ヶ浦のほとりで

徒然なるままに

西堀栄三郎先生(第1次越冬隊長)

2018-03-14 23:25:59 | 南極の思い出
「南極越冬記」(岩波新書)は第一次越冬隊の話で西堀栄三郎越冬隊長が書かれたものですが、とても面白く参考になる話が盛り沢山です。西堀先生は「雪山讃歌」の歌詞を作られたことでも有名です。
帰国報告で南極観測統合推進本部会議に後ろに並んで傍聴する機会があり、西堀先生が説明されている姿と声を間近にし感無量でした。物静かで上品なおじいさんという印象を受けたことを思い出します。

村山雅美先生(極点旅行隊長)

2018-03-13 22:09:01 | 南極の思い出
冬の訓練は乗鞍岳で行われましたが、そこで橇に乗って遊んでいるおじさんがいました。南極観測再開を実現させ、往復6,000kmの極点旅行を達成させた村山雅美先生です。赤銅色に雪焼けし颯爽とした見るからに山男という感じでした。
その夜、囲炉裏を囲んで隊員候補と談話しましたが、「あんな寒いところに何で行きたがるんだ…」と笑いながら話されたことを思い出します。記念のスナップ写真を撮るときに意識的に憧れの先生の隣に行きました。
偶然でしょうか、今日のYahooニュースの科学に極点旅行の思い出の記事が掲載されていました。
https://news.yahoo.co.jp/feature/911



ー南極展パンフレットよりー

永田武先生(第1次南極観測隊長)

2018-03-12 21:47:33 | 南極の思い出
第1次観測隊の永田武隊長をはじめ、第1次越冬隊の西堀栄三郎隊長や極点旅行を成し遂げた村山雅美隊長など、南極観測史上有名な人達はすでに亡くなられて20年以上が経ち、伝説の人になりつつありますが、生前のお姿をこの目で間近に見る機会があり貴重な思い出となっています。
永田先生は、当時国立極地研究所長でしたのでよく見掛けましたし、夏期訓練では直接講義も受けました。講義の内容は忘れましたが、この小柄な体で地球物理学の世界をリードし、南極観測参加の国際会議では敗戦国であり唯一有色人種の日本を代表して堂々と渡り合ったと思うと、直接声を聞くだけで感動したものです。確かに精悍な顔立ちでした。

南極海に向かって

2018-03-06 22:54:08 | 南極の思い出
船の復元力は60度傾いても大丈夫らしいのですが、南半球は陸地が少ないだけ海の荒れ方も激しく、もしかしたら60度以上に傾いてしまうのではと心配しました。でも最大で45度いかなかったようで、ひどい船酔いもせず5日ほどで暴風圏を突破しました。それでも船に弱い隊員はずっとベッドに横たわったままでした。
南緯55度を過ぎた頃から氷山が見えてきました。また海氷も密集してきましたが、ふじは軽々と押し分けて進みます。やがて定着氷に到着し、いよいよ砕氷が始まりました。最初はそのまま連続砕氷で進みましたが、氷がどんどん厚くなり進めなくなると、今度は一旦バックし助走して体当たりして進みます。これをチャージングとかラミング砕氷とか言うそうですが、これで数百メートルほど進みます。やがてそれでも進まなくなるとダイナマイトを使って氷を砕きながら前進しましたが、昭和基地に約55kmまで近づいた所で停船し、ここから物資は空輸されました。


砕氷艦ふじ

2018-03-05 22:29:09 | 南極の思い出
現在の砕氷艦は二代目「しらせ」で、隊員はオーストラリアから乗船するようですが、当時は「ふじ」で隊員も晴海埠頭からの乗船しますので、約1ヶ月の航海を体験出来ました。
バリ島の間近を通り過ぎ、ベタ凪ぎのインド洋に入り、赤道ではどこまでも高い積乱雲を仰ぎ、行く手に南十字星を見つめたりと興味は尽きません。そうこうしているうちにオーストラリア西海岸のパース市の隣のフリーマントルに入港しました。燃料や食糧品等の物資補給のため5日間停船しましたので、観光も出来ました。
フリーマントルを出港すると直ぐに「吠える40度、狂う50度、絶叫する60度」と恐れられている暴風圏に突入です。