飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

アトヒ?ーは治る・・・磯辺善成医博出演動画!

2013-06-23 20:44:12 | バジャン

一切の界面活性剤と縁を切る生活をすれば、
80%強のアトピーは完治する
-磯辺善成医博-

 

 拙稿『アトピーは治るよ! 石けん(界面活性剤)を使わなければ・・・』に既報したが、その言葉の発信人、磯辺善成医博が動画で登場!

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 是非、ご視聴ありたい!

 深くは解説しないが、『驚くべきレポート』にも詳しい。

アトヒ?ーは治る・5


魂の法則 その21 イエスの地上での使命

2013-06-23 08:38:00 | 魂の法則

クリスチャンでもなく、カトリックでもないが、
聖人で誰が好きか?と聞かれると、イエスと応える!
且つ、四国八十八カ所巡礼をひょんな事からしている・・・。
さて、本場のキリスト教界から、
イエスの真相が明かされた意義は大きい!!

 

 全くの真相であると、確信する。キリスト教は、イエス以後に創られたものだ。

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 それも、権力者の都合の良い方向に、乗っ取られ、聖書までも改竄された。その歴史的事実を暴露する内容である。そう思っていた者からすると、まさに溜飲の下がる真相の暴露である。

 ドグマに犯されたクリスチャン、あるいはカトリックを含むキリスト教信者にとっては、許し難い内容かも知れない。しかし、それはドグマ(教義)が問題なのであって、信仰とは関係ない。

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 信仰とは、徹頭徹尾、自由意志でなければならないからだ。

 単に、目覚めればよいだけである。

 それに引き替え、宗教利権に縋っている輩には、都合の悪いものであろう。自らの権威を失うからだ。宗教権威など、私にとっては糞食らえであるが、実際のところ、それが世の中を覆い尽くしている。

 その中に隠れて、不義を犯しまくっているのが、現在のバチカンだ。それも、もうそろそろ終わりだろう。しかし、それに洗脳されて、唯々諾々に従っている迷える羊は多い。

 その意味で、この「魂の法則」の書は、拡散されるべきであろう。

 そういう思いで、これまで転載に集中してきた。もう、あと一回で連載も終了する。結構、きつい作業でもあった。それ以上に、この書を世に著し、そして、日本語に訳出された方は、それ以上の大業であったであろうと、ひたすらに敬服する。

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 とりわけ、この書が、キリスト教のメッカ、スペインで著された事に深く感銘を受けた。スペインと言えば、西洋文明のメッカである。一時は無敵艦隊を誇り、世界を席巻した植民地帝国であるし、彼のキリスト教を世界に広めたことでも知られている。

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 又、マラーノを排出し、スファラディーユダヤ人を世界に配置した。

 そのスペインで、真実のキリスト教について、明かされた意義は深い。それに加えて、魂の法則が明確化された。輪廻転生の真実が明かされた。これは一つの奇跡である。

 まさしく、神の配剤と言っても良い出来事であろう。

 日本人として生まれ、比較的宗教的自由な環境で育った私としては、ドグマ(教義)に関係なく、真実を追究してきた結果、全く、同意できる結論を代弁してくれたような思いでいる。

 しかし、逆に、キリスト教徒にこの内容はストレートに話す勇気はなかったであろう。理解されるのは難しいと、当然考える。それが、内から著されてと言う訳であるから。驚きだ。

 世界は、確実に目覚めに向かっている・・・。

 

 尚、全文を読むには、日本語サイト:http://tamashiinohousoku.blogspot.com.esで、ダウンロードできる。

 

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題名: 「魂の法則」
スペイン語原題: “LAS LEYES ESPIRITUALES”
著者: Vicent Guillem Primo ヴィセント ギリェム・プリモ
邦訳: 小坂 真理
知的財産権登録番号 V-2095-08 (Valencia, España)
Copyright © 2008 Vicent Guillem Primo
Japanese Translation Copyright © 2013 Mari Kosaka
ホームページ: http://lasleyesespirituales.blogspot.com.es/
日本語サイト:http://tamashiinohousoku.blogspot.com.es
メールアドレス:tamashiinohousoku@gmail.com

 

Photohttp://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.es_ES

 

「魂の法則」 by Vicent Guillem is licensed under aCreative Commons Reconocimiento-NoComercial-SinObraDerivada 3.0 Unported License. Creado a partir de la obra enhttp://lasleyesespirituales.blogspot.com.es/.
本書に修正を加えず営利目的にしない条件で、現在利用可能な全ての媒体によって、本書全体またはその一部の複製を許可するものとする。

 

【本文転載その21開始】

イエスの地上での使命

*イエスが言ったとされる言葉と関連させて物事を説明されることがあることに気づきましたが、どうしてそうするのですか。

 その場を借りて、ついでに君のもう一つの質問にも答えようとしているのだ。ナザレのイエスの真相について知りたいと思っていたのは、君ではなかったかね?

*そんなことも知っているのですか。

 もちろんだ。

*この話が出たので、ナザレのイエスについて、聞きたいことを言います。彼が本当のところ誰だったのか、地上での使命があったのだとしたら、それが何だったのか知りたいのです。

 良かろう。生まれてから二千年も経つのに、彼のメッセージはまだ正しく理解されてはいないのだ。

*どういう意味ですか。

 彼の死後、あたかも彼のものであるかのように、無数の付け足しが盛り込まれていって、携えられた教えの本来の意味が徐々に歪めてられてしまったのだ。

 イエスの使命を理解するには、彼が言ったように、「麦粒」と「麦殻」、つまり真実と偽りとを区別する必要があるのだ。

*それで、彼の任務は何だったのですか。何をしに来たのですか。

 霊的進化の道を教えに来た。「魂の法則」を教えに来たのだ。

 中でも「愛の法則」の伝道に力を注ぎ、「汝の隣人を自分のごとく愛しなさい、汝の敵を愛しなさい」という無条件の愛のメッセージをもたらした。

*ナザレのイエスは、神自身の生まれ変わりだったのですか、それとも神の子だったのですか。

 ナザレのイエスは、非常に進化した魂が転生したものだった。

*では、神の生まれ変わりではなかったのですね。

 そう、神の生まれ変わりではなかった。だが彼は、自分が神であるなどとは、一度も言ったことがなかった。そう断定したのは、イエスの後にやって来た、別の者たちだ。

*少なくとも、神の子ではあったのですね。

 そう、君たちと同じように真の神の子だ。違いと言えば、彼はそれを自覚していたが、その他の人達には自覚がない、ということだけだ。

*それなら、イエスはそれほど超自然的でも神聖な存在でもなく、僕たちのようにただの人間だったのですか。

 君たちのように正真正銘の人間だったが、もっと高度に進化していた。進化することで段々と神に近づけると理解するなら、イエスは君たちよりも神に近かったと言えよう。

*でしたら、僕たちも進化すれば、イエスが転生した時の進化レベルに到達できるのでしょうか。

 そうだ。しかも、同じレベルに限らず、もっとずっと高いレベルに達することも可能だ。霊的進化の工程は、止まるところがないのだ。

 だが、それがただ一度の肉体生では無理なのは明らかだ。イエスと同じ域に至るには、君たちも多数の転生をして、無数の体験をする必要があろう。それに、君たちがそこに達する頃には、イエスも他の全ての魂と同じように進化を続けているので、更に高いレベルに進んでいるであろう。

*イエスも進化するために、輪廻のサイクルを経験しなければならなかった、とほのめかしているのですか。それは、かつては僕たちのように全くの未熟者だった、という意味ですか。

 そう示唆しているのではなく、断定しているのだ。イエスも君たちと同じように、物的界での経験を通して改善せねばならなかった。そして、自分の意志力と個人的な努力によって、地上で果たした任務を遂行する上で求められた進化のレベルに至ったのだ。

 君たちはイエスが行ったことに強い衝撃を受けたが、それをほとんど理解することができなかった。

*イエスは、進化を続けるために、肉体に宿って十字架上で死ぬ必要があったのでしょうか。

 いや、すでに何のカルマも負債も背負っていなかったので、その必要はなかった。あれほど酷な最期を迎える必要もなく、自己進化を継続で
きたであろう。だが、それがどんな影響をもたらすかを知っていたので、好んでそうしたのだ。

 イエスが偉大なのは、カトリック教会があれほど強調してきたように、十字架にかかって死んだことではない。もしもそれがイエスの功績なのだとしたら、その時代にはそれが罪人の処刑法だったので、同じ形で死んだ何十万人の人々にも、功績を認めなければならないだろう。

 イエスの最大の功績は、携えてきた愛のメッセージを布教した果敢さと勇気にあるのだ。そうすることで、多大な苦悩や死さえも被ることを知っていたにも関わらず、誰の脅しにも屈せず、自分の考えを変えることがなかった。

*では、何のためにそうしたのですか。

 後進の同胞への愛のためだ。イエスのように無条件の愛を知った魂は、償いの必要性のためではなく、遂行せねばならぬ任務のために行動するのだ。通常それは、どのように愛をもって生きるかの手本を示すことと関係している。

 魂は、ある段階からは、愛だけを動機として行動する。多くの魂が、発展の遅れた世界への転生を希望し、後輩を支援して愛に生きることで、もっと速く幸福に到達できるようにする。

 この場合に遭遇するネガティブな状況は、贖罪のためではなく、霊的に劣った世界自体に元来備わっているものだ。だが彼らは、苦痛も死も怖れていないので、そのような苦悩を味わうことや殺されることすらいとわない。高次に進化しているので、死が存在しないことを知っており、肉体の命は魂の命のほんの一瞬に過ぎない、と分かっているのだ。

*では、劣った世界に転生する高次の魂が、学ぶためにではなく、教えるためにだけやって来るのだとしたら、その人生では余り進化できないのでしょうね。

 いや、そうではなく、人生のいかなる試練からも学び取ることができるので、教えるためだけではなく学ぶためにもやって来るのだ。そして、自己の愛と理解の度量を常に試されることになるので、自分と同等レベルの世界にいるよりも、速く進化できるようになるのだ。

 更に、愛に満ちた環境では露呈せず、極限状況でなければ表面化しないような、奥深く隠れた自分の欠点を浮き立たせてくれる。こうして、欠点を改善する機会が得られるので、我欲を除去する面で前進できるのだ。

*イエスの話に戻りますが、彼はどこからも援助を受けずに、独りで仕事をしたのですか。

 人が愛に突き動かされて尽くす時には、更に進化した霊的存在からの影響を受けるにふさわしくなる。イエスの場合は、その中でもロゴス・キリストに影響された。

*ロゴス・キリストとは誰ですか。

 君たちの惑星の進化の最高責任者となる霊的な存在だ。

*でしたら、聖なる三位一体の三人とは、神とキリストとイエスなのですか。

 それは分からない。そう言い出した人達でさえ、それが何を意味しているのか知りはしないと思うからだ。

 断言できるのは、神が唯一であることと、キリストとイエスが、神とは異なる別々の存在であることだ。それゆえ、彼らは神でも神の顕現でもないが、御心と調和しているので、神の代理人とか神の使者、などと捉えることは可能だろう。つまり、彼らは「愛の法則」を遵守する者で、進化の計画に自主的に参加しているのだ。

*キリストはイエスを通してどのように行動したのですか。

 イエスはある時点から人生の最後の数年間は、ロゴス・キリストにインスピレーションを与えられ、励まされて、行動した。実際、イエスが任務を完了できるためには、その必要があったのだ。

*でしたら、話していたのはイエスですか、それともキリストですか。

 二人で行動していたと言っておこう。キリストから閃きを与えられて、イエスが話していたのだ。だが、イエスは決して自分の意識や個別性を失わなかったし、自由意志を失いもしなかった。

*イエスは、地上に再び生まれ変わるでしょうか。

 キリストは必要とあらば、人間の進化段階にいる魂を転生させて、いつでもそれに顕現するだろう。イエスの前にもそうしたことはあるし、地球の霊的進化が求めるなら、今後も再び、そうするであろう。転生するのがイエスであるか、別の似たような進化程度の者であるかは重要ではない。

 予め言っておけるのは、新たな救世主・預言者・アバターなどとして生まれ変わる際には、キリスト教徒が待ち望むように、茨の冠に十字架を背負ったナザレ人としてではないし、釘で血にまみれた手もしてはいないということだ。外見的には、普通の人であろうが、通常の域を超える、愛と霊的叡智の能力を備えていることだろう。だがそれは、隣人愛のメッセージと霊性進化と同調できる者にしか感知されないのだ。

 またイエスが現代に転生した場合に、最初に彼を攻撃して布教させまいとあらゆる手段を講じるのは、イエスを旗印にしている教会そのもののお偉いさん方だろう。なぜなら、彼の教えが地球の人類の心に浸透してしまえば、彼らが宗教的貴族でいられる日々も数えるほどとなり、凡人に帰してしまうからだ。

*イエスについて最初に話された時に、彼の本来のメッセージには多くの付け加えがされて、伝えたかったことを歪めてしまった、と言われましたね。当初の教えと、後世の追加事項とを、どう見分けるのですか。

 ごく単純に、「魂の法則」に反する信念はどれもイエスの教えではない、ということになる。イエスはこれらの法則を熟知しており、聞く耳を持つ者に伝達しようとしたのだ。

*イエスの真の教えの中で、最も大切なものを幾つか挙げていただけますか。

 もちろんだ。

 1.全ての人間は、人種を問わず、性別や宗教を問わず、同じ本質である。すなわち、皆、進化途上の魂であり、それゆえ、兄弟である。

 この根本的な教えは、以下の金言に収められている。

 「神の御言を聞いて行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのである」(ルカ 8,21)

 「誰でも天におられるわたしの父の御心を行なう者が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」(マタイ 12,50)

 このことから、魂の進化の工程から除外される者など一人もいないことが分かる。どんなに酷い罪業を犯したにせよ、決して見捨てられはせず、永遠に有罪とされることもない。改悛して、真の幸福に到達する機会はいつでもあるのだ。そしてこれは、福音書でも次のように表明されている。

 「もしある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷った羊を捜しに行かないだろうか。そしてもし見つけられたなら、その人は、迷わずにいた九十九匹のことよ
りも、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(マタイ 18,12-14)

 2.魂の生命は永遠であり、死は存在しない。

 「 体を殺しても、魂を殺し得ぬ者どもを、恐れるな」(マタイ 10,28)

 「天に昇った者はいないが、天から降りてきた者はいる」(ヨハネ 3,13)

 二番目の節の意味については、前にすでに話している。これは、出産を経て物理的に生まれ変わる全ての人は、霊界(天)からやって来て、肉体の死後はそこに戻るという意味だ。

 3.地上の人間の務めは、無条件に愛すことを学び、我欲から解放されることだ。魂がどれだけ成長したかは、愛の力量だけで量られる。愛が我々を進化させる、つまり、神へと近づけるのである。

 「あなたがたも聞いている通り、『隣人を愛し、敵を憎め』と言われている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。天の父は、悪人の上にも善人の上にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからだ。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」 (マタイ 5, 43 ? 48)

 「わたしの戒めは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ 15,12)

 4.霊的進化は、自分自身の努力にかかっている。人間の死後の運命は、生存中の「愛の法則」に基づいた行為、あるいは反した行為によってのみ、決定される。

 「しかし、真理を行なう者は、光の方に来る」(ヨハネ 3, 21)

 「まことに言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、みな天においてもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう」(マタイ 18, 18)

 5.各人は、それぞれ神との独自の繋がりがあるので、仲介者に依存して霊界と交信すべきではない。

 「そこで、あなたがたに言うが、祈って求めるものは何でも、すでに叶えられたと信じなさい。そうすれば、その通りになるであろう。また祈るとき、誰かに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦して下さるだろう」(マルコ 11, 24-25)

 「そしてこれが、神に対する私たちの確信だ。すなわち、何事でも神の御心にかなう願いをするのなら、神はそれを聞きいれて下さるということだ」(ヨハネによる第一の手紙5章14節)

 「そこで、あなたがたに言う。求めよ、さらば与えられん。捜せよ、さらば見い出さん。門を叩け、さらば開かれん。すべて求める者は得、捜す者は見い出し、門を叩く者には開かれるであろう。...このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い物を与えることを知っているのだ。とすれば、あなたがたの天の父はなおのこと、どうして求める者に聖霊を下さらないことがあろうか」(ルカ 11, 9-13)

 6.魂の成長は、ただ一度の肉体生では終わらず、高度な霊性を獲得するには、多数の転生が必要となる。

 イエスは彼に答えて言った、「よくよくあなたに言っておく。人は誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」 ニコデモは言った、「年をとっているのに、人はどうして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできましょうか」 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。人は、水と聖霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生れる者は肉であり、聖霊から生まれる者は霊である。あなたがたは新しく生まれなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。(...)天に上った者はいないが、天から下った者はいる」(ヨハネ 3, 3-13)

 7.「霊的裁きの法則」または原因-結果の法則。自分がまいたものを収穫する。

 「人を裁くな。自分が裁かれないためである。あなたがたが裁く通りに、あなたがたも裁かれ、あなたがたが量る通りに、あなたがたも量られるからだ」(マタイ 7,1-2)

 「だから、何事でも人々からして欲しいと望むことは、人々にもその通りにせよ」(マタイ 7,12)

 8.この他にも人が住んでいる世界はあり、ここと同じ目的がある。すなわち、霊性進化の学校として役立つことだ。

 「わたしの父の家には、住まいがたくさんある。もしなかったならば、そうあなたがたに言っておいたであろう」(ヨハネ 14, 2)

*イエスの発言に言及する時に、どうして福音書を引用するのですか。

 福音書に収集されたものに限定されずに、イエスの教えを説明する方が、私にとっては簡単だ。だがそうしても、イエスが語ったものだと君たちが認めないであろうから、文献に記載されている彼の言葉を使用することに留めるのだ。そうすれば、私が勝手に創作しているのではないことが、君たちにも分かるだろう。

*霊的な観点からは真実ではなく、イエスの死後に付け加えられたキリスト教の信念を、幾つか挙げていただけますか。

 沢山あるが、霊的進歩に一番悪い影響を及ぼす、最も重要なものを挙げてみよう。

1)宗教儀式の執り行いに道義的・精神的な何らかの価値があり、死後に天国での特権的地位の確保に役立つという信心。

2)聖書や他の聖典が神の御言葉であるという信念。

3)教会や聖職者が、地上における神の仲介者だと信じること。

4)悪業を清算するには、告白が必要であり、司祭から免罪されれば解消されると信じること。

5)最期に後悔すれば罪があがなわれる、という信念。

6)イエスは十字架上で死ぬことで、人類の罪をあがなったと信じること。

7)原罪への信念。

8)性が何か罪深いものだと信じること。

9)ただ一度の人生で、魂の行く末が永遠に決められる(救われる者には永遠の天国と栄光が約束され、罪人には永遠の地獄と罰が待ち受ける)と信じること。

10)キリスト教徒と信者だけが救われるという信念。

11)肉体の蘇りを信じること。

*元々のイエスの教えにはこれらの信念がなかった理由を、一点一点、説明下さいますか。

 よし、そうしてみるとしよう。これらの信念に、どうして「魂の法則」と矛盾する点があるのか、一つずつ順番に説明してみよう。

*最初のものから始めましょう。霊的視点からは、儀式や聖礼には何の有効性もないと言われましたね。

 その通りだ。

*それは、どうしてですか。

 霊道に、近道などないのだ。我々を霊的に進化させる、すなわち「救済する」唯一のものは、自己改善であり、我欲を手放し愛の能力を成長させることだ。それ以外にはない。

*でも多くの人が、それを最も重要な事柄の一つだと信じていますよ。

 自分自身を騙しているか、そのように騙されたいのだ。

*では、救済には儀式が不可欠である、という信念は、何に由来するのですか。

 様々な教会の指導者たちが、人々の霊性を監督し、私益に利用しようとしてきたからだ。「我々の言うことを聞けば、善人にならずとも、天国で優遇してやる」、と要請するようなものなのだ。

*でも教会は、善い人にならなくてもいい、などとは言ってませんよ。その上で、戒律も守るようにと、要求しているだけではないですか。

 言葉ではそう言っていないのだろうが、既成事実がそう言っているのだ。

 儀式や聖礼や式典 ―派手であれば派手であるほど良い― に従うようにあれほど強調するにも関わらず、隣人の支援に力を入れていないのなら、そう言っているのと同然なのだ。

*それなら、宗教に儀式があるのは、良くないことでしょうか。

 人々の霊性進化を操作したり逸脱させるために、儀式を利用するのは、良くないことだ。必要ないのに、どうして儀式を行い続けねばならないのだ?

*霊的なメッセージを喚起させる手段として、設けられたのではないでしょうか。

 だが歴史を見ても、儀式や象徴は、メッセージを喚起するために役に立つ代わりに、代弁していた筈のメッセージ自体に置き換わってしまうことが多い。そして、それらの儀式や象徴を楯に取り、従うべき信仰にはことごとく反するという、更に大きな過ちを犯してしまうのだ。

 その一例が、十字軍と宗教裁判だ。胸元に目立つ大きな十字の印を付けた服を着た人達による、大量虐殺や殺人だ。彼らは毎日、聖体を受けていたのだが、手には聖書を握ったまま、死の宣告を行ったのだ。隣人に対する愛の教えは、一体どこに見い出せるのだろうか?

*でも、聖餐式のように、イエス自身によって伝達された儀式もありませんか。

 いいや、そうではない。イエスが、自分が処刑されるまでに時間が残されていないと悟り、別れの晩餐に弟子たちを集めたことは本当だ。だが彼は、聖餐の儀式だけでなく、その他のいかなる儀式・式典・聖礼も確立しようなどと考えてはいなかった。

 更に言えば、たとえ象徴的であろうと、キリストの肉体や血を口にするのは、カニバリズムを連想させ、イエスはそれと何の関係もない。

*では、聖餐式の儀式は何に由来するのですか。

 それ以前からの宗教儀式が、キリスト教に組み込まれたのだ。実際のところ、そういう式典は全て、イエスの使徒を指すキリスト教徒と名称や彼らを象徴する十字の印と共に、後世に導入されたものなのだ。

*でしたら、十字の印もイエスに由来しないのですか。

 十字架というものは、イエスの時代には、今の電気椅子と同じように、人を処刑するために用いられていたのだよ。正常な判断力があれば、自分の信仰の象徴に十字を使おう、と思いつく者など誰一人としていなかったろう。イエスが現代に生まれ電気椅子で処刑されていたとしたら、ペンダントとして電気椅子をぶら下げようとする者がいないのと同じことだ。

*このようなお話はかなりショッキングで、キリスト教徒やカトリック信者には、なかなか受け容れられないのではないかと思います。

 そうかもしれないが、それが真実だ。またこの場では、霊的な真相に目を開くように、努めているのだ。

 イエスの地上での任務が、霊性進化の道を示すことであったと思い出してごらん。あの時代の宗教組織は、多くの迷信と偽りで人々を怖れさせ、自らの富と権力への願望を満たすために神の名を利用して、長きにわたって、人々の霊的な成長を阻止してきたのだ。複雑な儀式制度で気を逸らし、自分たちの思いのままにお金を巻き上げることに利用し、人々を犠牲にして、派手な暮らしをしていたのだ。そして、イエスがその事実を明白にしたので、彼を殺したのだ。

 当時のユダヤ教会は、イエスの人物像を利用して教えを操り、人類の霊的な成長を阻んで生き永らえてきた今日の教会の姿と、非常によく似ていたのだ。もういい加減に、きちんと正されるべきだろう。

*儀式に反対なさるあなたの論拠はどれも大変結構なのですが、キリスト教徒からすると、聖書に記載されていないことは...

 それなら、マルコの福音書の第12章(29-34節)を調べてごらん。そこには、ほぼ同じ教えが収められている。

 彼らが論じ合っているのを聞き、一人の律法学者がやって来て、イエスが巧みに答えられたのを認めて、彼に質問した、「すべての戒めの中で、どれが第一のものですか」 イエスは答えられた、「第一の戒めはこれである、『イスラエルよ、聞け。われらの主なる神は、ただ唯一の主である。心をつくし、魂をつくし、意志をつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ』この二つより大事な戒めは、他にない」 そこで、律法学者はイエスに言った、「先生、仰せの通りです、『神はひとりであって、その他に神はない』また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」 イエスは、彼が適切な答をしたのを見て言われた、「あなたは神の国から遠くない」

*第二点目では、聖書や他の聖典が神の御言葉である、と信じることは間違いだと言われましたね。

 そうだ。

*では、聖書が神の言葉でないのであれば、何だとお思いになっているのですか。

 旧約聖書は何冊かの本がまとまったもので、イスラエルの歴史の一部が収められているが、指導者たちの征服欲を正当化し、それが「神の意志」であったと見せかけるために都合がいい修正がされている。

 また、平均よりも霊的に進化した存在、つまり預言者たちのかなり正しい教えも記載されているが、それはすでに、宗教的な信仰が狂信的に操作されていることを警告しており、真の霊性とはいかなるものかを垣間見ることができる。

 一方、新約聖書は、イエスの生涯で最も特出した事実、特に最後の数年間の公での説教、に関する口頭伝承を収録しようと試みたものだ。イエスが伝えようとした教えを部分的に収めた「福音書」と、以後の使徒たちの生活「言行録」と、人類の未来に関する著者の一連のビジョンを集めた「黙示録」とから成る。

*「文書」に関して余り良い心象がないようですが、論拠を裏付けするために、折に触れ、新約聖書の文言を引用されていますね。

 全てが偽りだとは言っていない。各々の事柄はそれぞれ正しく評価されるべきだ。

 山上での説教のようなイエスの公での宣教を著わした章句や喩え話の多くは、イエスが言ったことをかなり忠実に再現している。それで、私は引用しているのだ。

 イエスが演説に比喩を用いたのは、偶然ではなかったのだよ。そうすることで、教会に不都合であった多くの部分が改変されてしまうことから救ったのだ。人には比喩の意味が良く理解できなかったので、教会の検閲に引っかからずに済んだのだ。

*例を挙げて下さいますか。

 例えば、輪廻転生の概念は、新約聖書の二つの章に巧みに収録されている。初めのヨハネの三章は、もう見た通り、イエスとニコドモの会話の中でだ。

 イエスは彼に答えて言った、「よくよくあなたに言っておく。人は誰でも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」 ニコデモは言った、「年をとっているのに、人はどうして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできましょうか」 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。人は、水と聖霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生れる者は肉であり、聖霊から生まれる者は霊である。あなたがたは新しく生まれなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。(...)天に上った者はいないが、天から下った者はいる」(ヨハネ 3, 3-13)

 二つ目は、マタイの17章、10-13節だ。

 そこで、弟子たちは、イエスに尋ねて言った、「いったい律法学者たちが、エリヤが先に来るはずだと言っているのは、どうしてですか」 イエスは答えて言われた、「確かに、エリヤが先に来て、万事を元どおり直すのだ。しかし、あなたがたに言っておく。エリヤはすでに来たのだ。ところが人々は彼を認めず、彼に好き勝手なことをしたのだ。人の子もまた、彼らから同じように苦しみを受けることになろう」 そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。

*それなら、聖書自体を読んだり、聖典とされるもの全般を読むことに関しては、どんな姿勢でいるべきですか。

 いいかね、全ての宗教には、神、または神の使者の手によるとされる聖典があるのだ。そうしなければ、自分たちの神聖を正当化できないからだ。

 だが、霊的に進化している者や高次の霊に感化されて書かれた可能性があるものが存在していることは確かだが、現実的には、君たちと同じような人間によって書かれたものなのだ。

 いずれせよ、著者の名前には惑わされず、常に内容を吟味してみることが、騙されないための一番良い方法だ。メッセージの質を見れば、作者の霊的レベルが分かるであろう。

 また、一人の著者のものだとされていても、同じ書物が何人もの手によることもあるのだ。千年余年にもわたって原本が偽造・改変されてきて、聖なる仲介者だと勝手に名乗り挙げる者の利益となってきたのだ。それゆえ、ある段落は霊的に進化した者によって書かれたが、その次のものは詐欺師の手によるということもあり、偉大な真実のすぐ脇に大嘘が書かれている可能性もある。そして真実は、徹底的に中味を分析して、「麦殻」を捨て「麦粒」だけを集めることによってのみ、知る得ることができるのだ。

*地球には多くの宗教がありますが、その多くが一神教で、かなり厳しい戒律を設けています。権威者によるとそれは神の意志だそうですが、それをどう思われますか。

 魂の「自由意志の法則」を尊重せず、権力者の見解による教義を押しつけて成り立つ学説や宗教は全て本物とは言えないし、神や高次の霊性からの恩寵だと見なすこともできない。従っ


魂の法則・・・その⑳ 「愛の法則」から見た病気

2013-06-22 08:34:00 | 魂の法則

本章は、実用偏だ!
病気には理由がある?!
愛の法則から観た、病気の理由・・・。
生命エネルギーの偏在と応用?!
レイキの創始は、日本人、臼井 甕男(うすい みかお)氏だ!!

 

 魂の存在が、全てである。

 お復習いしておこう。魂の本体は、霊体、メンタル体、アストラル体と著者は書いている。そして、肉体を支配している存在だ。肉体は、その乗り物(舟)に過ぎない。

 生命エネルギーは、魂の本体(霊体)から流れいずる。又、生命エネルギーは宇宙に偏在する。レイキ(霊気)は、その生命エネルギーを集中して注ぐことであろう。気功やプラーナなども同様のものだ。

 

転載開始】ウィキペディアより

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臼井 甕男(うすい みかお、1865年8月15日 - 1926年3月9日)は、現在レイキとして世界中に広まっている手当て療法を中心とした民間療法の一種「臼井靈氣療法」(臼井霊気療法)の創始者である。

 

生誕地は、岐阜県山県郡谷合村(現在の岐阜県山県市)である。

職業は、公務員会社員実業家新聞記者、政治家秘書などさまざまに経験する。

その体験から「人生の目的とは何か」という大命題の探求から、の道に入り、真の悟りともいえる安心立命(あんじんりゅうめい)の境地を目指し修行するも、どうしても悟りを得られず、悩みぬいた末にの師に相談したところ、

「それなら一度死んでごらん」

と答えられ、「自分の人生も、もはやこれまで」という覚悟を決め、1922年春(3月または4月と、文献によって記載が異なる)に京都の鞍馬山にこもって断食を始める。修行のための断食と言うよりは、死を覚悟してのものだったらしい。

断食に入り3週間目の真夜中ごろ、脳の中心部あたりに落雷をうけたような激烈な衝撃を感じ、そのまま意識不明の状態に陥る。 数時間後、ふと気がつくと夜が明け始めた頃で、心身爽快な気分に満ちて目覚め、その衝撃のときに感じたエネルギーが心身を貫き、体内との共鳴、一体感を達 成し、求めていた悟りの境地を完成したことを知る。

悟りが得られたことに喜び勇んで山を降りる途中、石につまづき足の指の爪がはがれ、思わず手を当てたところ痛みが去り、血が止まり即座に治癒してし まったという。そして、山のふもとまで降りてくると、小さな食堂があり、主人が止めるのも聞かず腹いっぱい食べた。主人の孫娘が顔が腫れるほどのひどい虫 歯で、頬に手を当てるとたちどころに痛みが引いた。さらに、家族にも試したところ即効的な効果があり、「広く世の中の人にこの力の恩恵を与えたい」との思 いから、工夫研究の結果、この能力を他人に伝授し、心身改善に活用する方法を見出す。これが臼井霊気療法という手当て療法の始まりとされる。

1922年4月に指導法などを定めた上で臼井霊気療法学会を設立する。【転載終了】


 病気の原因は様々である。今、ほとんどは唯物科学であるから、その原因を問うにも限界がある。心身症など、黎明は見えるが、心理学に基づくもので、究極は脳科学の物質論に終始する。

 精神病などは、最も悲惨な取り扱いの極みだ。そして、次々に拡大生産されている。強力な向精神薬の犠牲者達が増加している。


  日本語は便利である。『病気』とは、気が病む(止む)と書いてある。元気は元の気が充満している状態を表しているのであろう。であるから、何かしら生命エネルギーに関して、なじみがある。

 手当とか、気力とか、合気道とか、日常的に使われていることからも分かることだ。しかし、論理的に知ることはさらに有意義だ。

 何故、気が病む(止む)のか?

 そして、そのメカニズムについての解説は、斬新だ。改めて、愛の法則に基づき見直すことで、再生の道を見いだす方も多いだろう。その意味で、実用的な章である。

 又、著者は、「愛の法則」から見た病気についての指導も、講演等で展開されている模様である

 

 尚、全文を読むには、日本語サイト:http://tamashiinohousoku.blogspot.com.esで、ダウンロードできる。

 

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題名: 「魂の法則」
スペイン語原題: “LAS LEYES ESPIRITUALES”
著者: Vicent Guillem Primo ヴィセント ギリェム・プリモ
邦訳: 小坂 真理
知的財産権登録番号 V-2095-08 (Valencia, España)
Copyright © 2008 Vicent Guillem Primo
Japanese Translation Copyright © 2013 Mari Kosaka
ホームページ: http://lasleyesespirituales.blogspot.com.es/
日本語サイト:http://tamashiinohousoku.blogspot.com.es
メールアドレス:tamashiinohousoku@gmail.com

 

Photohttp://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.es_ES

 

「魂の法則」 by Vicent Guillem is licensed under aCreative Commons Reconocimiento-NoComercial-SinObraDerivada 3.0 Unported License. Creado a partir de la obra enhttp://lasleyesespirituales.blogspot.com.es/.
本書に修正を加えず営利目的にしない条件で、現在利用可能な全ての媒体によって、本書全体またはその一部の複製を許可するものとする。

 

【本文転載その⑳開始】

 

「愛の法則」から見た病気

*肉体的な病は、特定の感情やそれを抑圧することと関係がある、と何度も言われましたが、それを掘り下げてみたいのですが。

 そう、感情を黙殺してしまったがために魂が病気になった人は多く、魂が病気になると、肉体も魂と緊密に結びついているので、病気になってしまうのだ。

*肉体的な病気が、感情面に起因しているのですか。

 その通りだ。君たちの世界では感情を抑圧することが、精神的にも肉体的にも病気の最大の原因となっている。

*精神病に関してならそれに同意できるのですが、癌はどうでしょうか。癌は遺伝子の異常で起こる、と科学的に証明されませんでしたか。

 遺伝子の異常は癌の全てのケースに認められるが、多くの場合、それが最初の要因ではない。

*では、最初の要因は何ですか。

 話した通り、原因は精神的なもので、霊的内面を抑圧したことと関連がある。

 人は感情に従って生きて行動しなければ、内部に深い不快感が生じて苦しむのだ。それが、怖れ・憤り・憎しみ・悲しみといった精神的に有害な「エゴ的感情」を生み出し、それらが病気の原因となるのだ。

 直面できないような困難な状況に出会うと、それが外因となって、不快感が増長される場合がある。そうなった状態を感情的トラウマと呼ぶとしょう。

*感情的な不快感はどのように肉体に影響し、最後に病気となってしまうのですか。

 精神的に調子が悪い時には、霊体とメンタル体との間でショートが起きていて、それがエネルギー体もしくはアストラル体に伝達されて、その構造を乱してしまい、波動を下げてしまう。

 この「エネルギー低下」は、送電系の一部が停電したように、アストラル体の特定の箇所に影響してしまい、そこと繋がっている身体の部分にきちんと活力を与えられなくなってしまう。こうして生命エネルギーが不足して活力をなくした領域が、身体の他の部分と連動しなくなり、その結果、活力を失った細胞組織は、他と調和して機能できなくなってしまう。

 エネルギーの供給が途絶えると、通常の細胞機能はその影響を被り、遺伝子異常が起こり始め、細胞が破壊されて進行性の病となったり、細胞が制御不能なほど増殖し始めて癌を発生させる。

*この話は、アストラル体について話していた時に推薦下さった、物理学者バーバラ・アン・ブレナンの著書、「光の手」と「癒しの光」の中で、病気ついて書いてあったことを思い出させます。

 彼女によると、精神的・感情的な問題は、暗いまたはくすんだ色合いの部位としてアストラル体に現われ出て、その原因は、当事者が抱いていた否定的な考えに根づいているとのことです。これが消えずにアストラル体に留まってしまうと、当人の肉体にも遅かれ早かれそれが顕現して、病気を引き起こすのだそうです。それでは、これは正しいのですか。

 まさにその通りだ。

*新ドイツ医学を宣言したドイツの医師、ライク・ゲールト・ハマー(Ryke Geerd Hamer)の推論も思い出されます。

 ハマー医師によれば、癌やそれと同等な病気は全て、独りで経験しなければならなかった極度の感情的トラウマから発症するそうです。そして、トラウマの種類によって、癌が発症する器官が異なるそうです。それに、感情の葛藤があると先ず脳に影響して、そこで一種のショートを起こし、それから、その脳の部位に対応していた肉体領域が病気になるとのことです。また、原因となった感情的トラウマを解消すれば病気が治癒する、と主張しているのですが、この医師の言っていることは正しいのでしょうか。

 100%ではないが、彼が言っていることはかなり正しい。全ての病気が感情的葛藤から生まれる訳ではないのだが、大半はそうなのだ。

*では、感情の葛藤を解消すれば病気を治せる、ということについてはどうですか。

 それは正論だが、葛藤を解決できるためには、本人にかなり深い変化が起こらねばならない。「エゴ的感情」にしがみついたままで、感情を抑圧し続ければ、一つの病気が治っても、また別の病気になる。それは、特定の葛藤を解消できたとしても、同じような「エゴ的感情」を引き起こす別の葛藤が再び現れてしまうからなのだ。こうして病気の根本的な原因に行き当たる訳だ。

 本当に病気を発病させる原因とは、我欲とその顕現形態なのだ。そして、治癒効果があり健康にするのは、愛とそれを表現することなのだ。これは、確実に断言できることだ。

*しかし僕たちには、大なり小なり、そういうことが起こるのではないでしょうか。つまり、ほとんどの人に、憤りや悲しみや攻撃欲を目覚めさせて不機嫌にさせるような物事が、人生では色々と起こるのではないでしょうか。

 僕は、感情の抑圧についての説明がかなり自分に当てはまると思いましたが、癌に罹っていないのはなぜでしょう。

 確かに、君たちは時々病気になるのだが、癌のように本当に重い病に罹るには、感情的な不快感に「囚われて」いなければならない。囚われるというのは、不快感が恒常的な固定観念に変わり、「エゴ的感情」に支配されるがままとなり、相当長い期間そのままの状態でいるという意味だ。長いこと、眠りの妨げとなる場合もある。

 また、そういう感情を発散させたり表現する、全ての手段を抑制した場合である。

*では、癌になり易い性格というのがあるのですか。

 そうだ。「エゴ的感情」(憤り・憎しみ・悲しみ・怖れ)に流される人と、感情の授受や表現が抑圧されていると感じている人だ。

*それなら、病気は、物事に正しく対処しなかった罰だという結論になりませんか。

 罰ではなく、内的な感情的苦痛の結果である。

 病気を生み出すのは当人であり、癒せるのも当人である。そのために、魂の本当の姿を抑圧せずに表明して、我欲から愛へと自分自身を変化させるのだ。

*でも、もう苦しんでいるのに、そのような重い病になることには、どういう意味があるのですか。苦しむだけで充分ではないですか。

 肉体の不快感は、内面の不快感の反映だということに気づきなさい。
この場合、肉体的な病気は、当人に内面の病を気づかせ、変化を促すためのアラーム音のように作用する。

*でも当人が、肉体的な病気が内面の病と関係していると連想できなければ、どう自己変革できるというのですか。

 肉体的な病気は、内なる魂を出現させまいとする頭脳の防壁を弱めるので、自己の感情のみならず、他者の感情や苦悩についての感知力が高まるのだ。そして、これが、人に変化を促すのだ。

*自分が変われば、病気は治るのでしょうか。

 大半は治るが、全てのケースがそうではない。肉体レベルで修復不能な病害もあるのだ。

*治らない人達は、死んでしまうこともあるのですか。

 そういうことになる。

*自分を変えても治らずに、どうせ死んでしまうのなら、病気にどういう意味があるのですか。

 霊的視点では、肉体の命は本当の命のほんの一瞬に過ぎず、肉体の死は終わりでも悪いことでもなく、より制限のない別次元への移行期だということを思い出すのだ。

 病気は、人がより高次の理解・愛・叡智へと進歩するために役立つ手段なのだ。すでに述べたように、肉体の病は、内面の感受性の表現を妨げる頭脳の障壁を弱めるので、実のところ、進化に寄与するのだ。

 人が、愛における進化で成し遂げた変化は、失われることがない。どこに行こうと、自分と一緒に持って行ける。これは、人生で得られるものの中では、最も貴重なものだ。生涯を通しての目標に掲げることができ、もしそれを達成できたとしたら、魂は自分の仕事に満足して、穏やかに霊界に戻ることができるのだ。実際、自分の魂に成し得た変化だけが、死ぬ時に持って行ける唯一のものだ。なぜなら、物的な成果は全て、物質界に残るのだ。

 イエスの次の言葉はそれに言及しているのだ。

「自分の宝を地上に積むのはやめなさい。そこでは、虫とさびでキズ物になり、また盗人が忍び込んで盗み出したりする。自分の宝は、天に蓄えなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が忍び込んで盗むこともない。自分の宝のあるところに、自分の心もあるからだ」(マタイ6・19~21)

*でも、死んでしまったら、学んだことをどう実践できるのですか。

 魂は体に宿っていようと離れていようと、生き続けるのだと気づくのだ。どちらの場合でも、学んだことは魂の一部となり、継続して進化していく役に立つ。

 *でも、家族や愛する人達はどうなるのですか。過酷な病気になって、必死に頑張って自分も変えたのに、その上、愛する人も失ってしまうのは、ショックが大き過ぎやしませんか。

 病気であろうと自然死であろうと、愛する者たちとの別離は一時的なものだ。向こう側では、我々は皆、愛する者と再会できる。

 物質界に生まれ出る時には、その転生で一緒に生まれ出ない愛する者たちと、同じように別れてやって来るのだと気づくのだ。しかし、彼らにとっては、それはトラウマとはならない。一時的な別離だと分かっているし、生まれ変わる魂は霊的に進歩するためにそうするのだと理解しているからだ。そのため彼らには、君たちのような喪失感はない。

 君たちが、生命は決して尽きることがなく、肉体の死は終わりではなく霊的次元への移行段階に過ぎないと会得できれば、愛する者が死ぬことで生じる問題・トラウマ・落胆の多くのものが、消え去ることだろう。

*自分の葛藤を解消できずに、病気のせいで死んでしまう人達はどうなのですか。

 試練を乗り越えて自分に打ち勝つために必要だった変革を実現できなかったので、霊的に停滞してしまったのだ。彼らは霊的に超越する戦いで「匙を投げた」のである。つまり、霊的に進歩できそうになかったので、彼ら自身が霊界へ戻れるようにしたのだ。次回の転生では、同じ試練を携えて来て、それを乗り越えようとするであろう。

*病気の原因の話に戻りますが、表面上は、何の感情的な葛藤もなく比較的幸せなのに、癌のような病気を患う人がいませんか。

 それに、感情的トラウマを体験するほど充分な自覚がないのに、先天的な病気を持って生まれる子どもについてはどうなのですか。

 いい質問だ。生まれたばかりの子についてだが、魂は胎芽に結びついた時点から、周囲で起こる全ての事や母親の気持ちを感知できるのだから、妊娠期に感情的トラウマを経験し易く、それが肉体的な病気の発症原因となり得るのだ。

 しかし、どんな感情的トラウマとも関係のない病があるのは確かだ。従って、感情的トラウマが全てのケースの要因とは言えない。

 遺伝的要因を持つ先天性の病と呼ばれるものがそれに当たるが、他の病気の原因は、感情要因と遺伝的な性質が組み合わさったものである。

*先天性の病気の場合、何がその原因ですか。

 前世での行いに原因がある。病気は、我欲に駆られて犯した、「愛の法則」に反する行為で貯った負債を清算するための試練なのだ。

*言われることが分かりません。病気が過去の行いとどう関係するのですか。病気をどのように前世から他生へと繰り越すのですか。もう少し教えていただけますか。

 人は「愛の法則」に違反すると、「霊的な作用と反作用の法則」により、その行為が心理的毒素となって魂に浸透し、振動レベルを下げ、その様相を乱すのだ。

 波動低下に呼応した乱れは、しまいには、メンタル体や将来の肉体の型となるアストラル体などの、より濃密な体を変化させてしまうのだ。転生時に、まだアストラル体が乱れたままだと、肉体の遺伝子コードに変異を起こしかねず、先天的な病気を引き起こす。

 だから、たとえ前世のものであろうと、病気の要因が我欲であるというのは、やはり正しいようだ。

*でも、継承すると分かっている遺伝的変異、つまり、両親の遺伝子を受け継ぐための変異もありますよ。だから、転生者のアストラル体が原因のようには思えませんが。これに関してはどうでしょう。

 両親からの遺伝で受け継いで、特定の病気になり易くなるというのは、極めて確かなことだ。だが、転生する魂は、その状況を知っていて同意したのだ。肉体または精神の障害が、前世の行為の結果であり、通過すべき試練だと知っているのだ。また、過去に、そのような状況を経験することを同意した両親にとっても、試練となるのだ。

*本人や愛する人がこのような状況を経験している人に、こんな話をしても、受け容れはしないと思いますよ。「こんな目にあうなんて、僕らは一体何をしたんだ」と考えるに違いないでしょう。

 そういう風に考えるのが普通だ。なぜなら、総括的に理解するには、誕生以前に前世が存在していたことや、魂がその時に以後の転生で直面する状況を創り出したことを、認める必要があるからだ。

 生命はその人生の後も存続するので、病気も結局は一時的な状況に過ぎない。その一時の経験からは、愛の学びを積むことができ、病気はそのためのものなのだ。

*先天的なもの・事故のような状況的なものを問わず、普通の生活を営む上で妨げとなる、精神または肉体の障害を持った子どもや家族のいる人には、どう声をかけられますか。

 普通の子に接するように振る舞いなさい。実際、普通の子どもなのだ。外見で判断してはならない。肉体の奥底に、皆と同じような魂を見い出すだろう。その子、その愛する者の中に、不完全な肉体を見るのではなく、完全な魂を見るのだ。そしてその魂の通りに、完全な存在として扱ってあげなさい。不良品の衣装の下には、健全な肉体の人と同等かそれ以上に力強く生き、感じ、気づくことのできる人がいるのだ。

 音楽を理解している者ならば、音楽は楽器が奏でるのではなく、それを弾いている音楽家の心で生まれるのだ、と言うであろう。ヴァイオリンが未調律であったり壊れていても、弾き手自身が演奏できない訳ではないし、一時的に思い通りに弾けないだけで、手元の楽器がどのように調律されているかに関わらず、自分の音楽の才能を伸ばすことができるのだ。

 それと同じように、楽器となる肉体が一時的に調子外れだからといって、愛という心の曲を聴き取り、それを表現する可能性を魂から奪ってはならない。普通の子どもに接するように、その子に話しかけたり、気持ちや愛情を表して伝えたりすることが、不毛な努力だと思ってはならない。

 人は、肉体の感覚によって感知できなければ、魂の感性を介して感受するのだ。特に愛の行為に対しては、もっとずっと感受性が強い。健常人の反応をしなくても、感じていない訳ではなく、その子の身体が、魂が望むがままに物質界で表現することを、妨げているだけなのだ。その子のために心からしてあげることで、無駄になるのは何もない。霊界では、愛のためや愛を抱いて行うことで、失われるものはないのだ。

 すでに言ったが、繰り返しておこう。 肉体的または精神的な障害は一時的な状況で、それはひと度肉体が消滅するや、終わるのだ。だが、その体験を通して、その人本人や周囲の人々に目覚め、強化された感情は、魂の糧となって永続する。そして、それが真に大切なことなのだ。

*でもそれによって、何を学べるのですか。

 自他の苦悩に敏感になれる。おそらく前世では、今苦しんでいる人達が、他者に同様な苦しみを与えていたのだが、自分がどれほど傷つけていたのかを自覚しようとしなかったのだ。

 愛への第一歩は、他者も自分と同じ感情を持ち、自分が苦しむのと同じことで苦しむのだと認識することだ。

*先天性の病気に霊的な意味があるとしたら、それは何でしょうか。

 このケースでの病気は、魂が高次の霊的進化を遂げる妨げとなる心理的毒素を、肉体に転写するプロセスなのだ。肉体は病気になることで、その毒性を緩和し、吸い取りスポンジのように吸収し、毒素の除去に貢献する。つまり、魂は毒素を肉体に渡し、肉体は汚れをふき取る雑巾のような働きをする。この「汚れ」が肉体レベルでの病気の要因であるが、病気は、排水システムのように、より精妙な霊体を清めるために役立つのだ。

 また、人生の最後で、この排水システムを利用して毒素を一気に洗い流そうと、病気になることを選択する魂もいる。つまり、生涯で重い病を患わなくても、肉体との分離の時が近づくと肉体は不要になるので、霊的な体に蓄積されていた心理毒素の一部をそれに転写するために利用して、浄化しようとする。

 このようなケースは頻繁に見られ、この場合には死を妨げようとどんなに頑張ってみても、全く効をなさない。なぜならそれは、現在進行中の感情的な葛藤とは無関係で、霊的な浄化だからだ。

*魂が「愛の法則」に違反すると、次の転生で病気にならされるのですか。

 いや、そうではなく、心理的毒素を除去する方法は幾つかある。

 悪かったと反省することを愛の行為で償っていけば、病気を体験することなく、魂の毒素を取り除ける。だから先ほど、病気の原因がエゴであれば、愛が諸悪の解毒剤と処方箋になる、と述べたのだ。

 従って、必ずしも病気になって毒を消散させる必要はないのだが、それが一番手っ取り早い方法なので、多くの魂がそう選択するのだ。

 明らかなのは、毒素の負荷を取り除くために何かをしない限り、それは残存してしまい、より高次の愛と幸福へと魂が進むことを阻止してしまうということだ。

*感情要因と遺伝的な性質が組み合わさった病気もあると言われましたね。

 その通り。
*もう少し説明いただけますか。

 特定の試練に立ち向かうために生まれて来た魂は、物質主義に流されて転生の目的から外れてしまわないために、病気を記憶の喚起剤として利用するのだ。つまり病気は、ドライバーに車線を逸脱したことを警告する路肩のランブルストリップスであるかのごとく、魂が事前計画から逸れてしまった場合にだけ起動する。

 同じ状況でも重病にならない人がいる一方で、遺伝的な性質で特定の病気になり易い人は、アラームが鳴り易いのだ。言い換えれば、それほど強くない感情の刺激でも、病気を誘発させるには充分なのだ。

*病気の原因が、今生の感情トラウマの場合には葛藤を解消することで治癒できたり、浄化の工程であれば先天的な病で治らないことがあるのなら、現在用いられている薬学療法は、例えば癌などの場合で、何かの役に立つのでしょうか。

 現在の治療法、つまり、化学療法と放射線療法は、細胞の増殖という症状をなくそうとするが、病気の原因には作用しないので、病気を回避することはできない。

 また、遺伝子を損傷してしまうので、細胞を酷く傷つけ、多くの場合にそれが永続して再生不能となる。君たちは、癌が遺伝的変異に起因すると思っているのに、どうして変異を誘発させる薬をその治療に用いるのか、理解に苦しむよ。

*薬は悪いのですか。

 全部がそうではないが、攻撃性が過ぎるものは、効用よりも弊害をもたらすので良くない。

 特定の場合には、抗炎症剤やコルチコイドや、ある種の免疫調整剤などは有益である。薬学を正しく適用すれば、人生に病が訪れる際に、健康を回復するために役立ち、治癒を可能にする。また、治るの見込みのない病でも、症状を和らげ、生活の質を向上させる助けとなる。

*では、薬学治療をして、癌が治る人がいるのはなぜですか。

 治ったとしたら、原因となった感情面の問題を解消できたからか、実は良性だったからで、症状を排除したためではない。

 感情的または霊的な毒素が残留すると、最初に冒された組織を切除していれば近部になるかもしれないが、癌は別のところに再発してしまう。

*癌を治すために有効な、肉体上の助言がありますか。

 質素な菜食主義とビタミンを多く摂ること。異常細胞の除去に身体が専念できるように、休息を多く取り、平穏でいること。体器官を傷めずに回復できる、身体にやさしい治療法を使用すること。

*お話のように、「エゴ的感情」が残留することによってアストラル体が力を失い、それが長期的には肉体的な病気を誘発するのだとしたら、健康を回復するために、アストラル体をエネルギー的に綺麗にすることは可能でしょうか。

 可能だ。特定の運動(ヨガ)をしたり、人がパイプとなってエネルギーを供給(レイキ)したり、生体エネルギー発生装置などによって、悪い流れを取り去り活力を与えることができる。

 エネルギー治療は、アストラル体レベルに作用し、疲弊したエネルギーを洗い流し、そこに新しい活力を供給し、気の流れを修復する。生体エネルギーを用いた治療は、病気の回復を促したり、症状を緩和させることに貢献する。

 だが、エゴ的な感情を放棄できなければ、アストラル体の乱れが再発し、その結果、肉体の病も再び出現することとなる。それゆえ、霊体・メンタル体・エネルギー体・肉体を総合して、治療に取り組むべきである。

*レイキとは何なのでしょうか。

 レイキとは、宇宙の生命エネルギーを利用する自然療法の一つで、肉体的・精神的な病気の治癒に役立つ。レイキは、宇宙的生命エネルギーを意味し、それを発見した日本の先駆者に命名された。

 現在ではその名前で有名になってはいるが、健康改善を目的としたエネルギーの授受は、何千年も以前から、磁気やプラーナなどの様々な名称の下に行われてきた。それは、「奇跡の癒し」と呼ばれたイエスの手かざしのことなのだ。

*レイキは何を基本としているのですか。

 レイキのセッションは、不快感や病を緩和したり除去するために、送り手またはパイプとなる人が、自分の手を通して、生命エネルギーを受け手に伝達するのが基本だ。受け手となるのは、自分自身でも他者(人・動物・植物)でも良い。

 レイキは、アストラル体でのレベルに作用し、エゴ的な感情に起因するエネルギーブロックの除去に役立つ。

 だが、外傷または中毒など、完全に肉体的な原因による不調の場合には、損傷を受けた部位の気の流れを再動させ、痛みを緩和し、体組織の再生を促進させる。

 アストラル体の構成についてや、気の流れやチャクラの知識、及び感情的問題と影響を被る肉体箇所との関係を理解するのは、正しい位置に手を置く助けとなり、損傷を受けた部分の気の流れを再生できる。

*でも、癒しのエネルギーは、どこから出るのですか。送り手からですか、宇宙からですか。

 生命エネルギーは、宇宙のどこにも存在し、レイキの担い手は、それを必要としている人に集中してエネルギーを向けようとする。時々、送り手となる人が周囲からエネルギーを結集できなかった場合に、自分自身の生命エネルギーを譲り渡してしまうことがある。

 また、霊的な存在にエネルギーの伝達を手助けしてもらっている人も多く、その人の能力が非常に高められる時もある。この場合は、意識の高い仕事は精霊たちが行っており、レイキの送り手は、癒しの魂たちが、肉体とエネルギー次元に接近できるための道具のように機能する。

*人が自分自身のエネルギーを与えてしまうについては、どんな理由があるのでしょうか。

 過度に力を投入する、集中力の不足、リラックスできていない、私心なく助けようとしていない、精神的・肉体的な悪習、などが原因だ。

 レイキのセッション中に以上のようなことがあれば、送り手は疲れきり、エネルギーが不足し、受け手の不快な症状まで自分で感じてしまったりする。

*レイキができるようになるためには、何が必要ですか。

 レイキが効力を発揮するために最も重要となるのは、送り手が、仲間を助けようとする意志を持つことと、愛を実践して自分のアストラル体の波動を高めることだ。

 積極的にエネルギーを受け取ろうとする受け手の姿勢も大切だ。その人がどれだけ素直に信頼できるかによるからだ。受け手が、レイキに効き目がある筈がないと思ったり、送り手を信用していなかったり、愛に賛同し我欲を捨てる自己変革をする意志がなく、エネルギーを拒否すれば、その人のチャクラは閉じたままで、送り手にどんなに力があろうと、気は流れない。

 ラジオで起こることに似ているのだ。放送番組を聴くためには、強力な信号を放つ優秀な発信機が必要だが、受信機をつけて正しい周波数に調整するのも、同じように大事なのだ。

 その後は、スポーツと同じで、継続して練習することで、回を追うごとにエネルギーの伝達能力が高まり、もっと大きな波動になるのだ。非打算的に助けようとする意志があれば、いつも最善の結果を得ることができる。

 更に、肉体を浄化させれば、エネルギーが身体を通過する際に、波動が低下してしまうこともない。そのためには、菜食と、身体の器官にとって有害となる、アルコールやタバコ、その他全ての薬物の消費を控えることが必要だ。

*エネルギーを伝達できるようになるためには、レイキの師匠がその人のチャクラを事前に開ける必要があるというのは、本当ですか。

 その必要はない。伝達能力は、魂の進化の力量と、他者を助けようとする意志と、練習とによる。私利私欲をなくして行うほど、霊界からの援助は大きくなる。

 先生の役目は、生徒の潜在能力を開花させることだが、独学も可能だ。スポーツのように、練習すれば能力は増す。そして、他者を助けようという意志があれば、霊界から必要な援助を授けられる。エネルギー伝達の真の達人がいるのは、霊界なのだ。

*レイキの段を取るための有料の講習がある、と話しているのを耳にしましたが。その件に関して、どうお思いですか。

 お金と引き換えに、天国に行けると文書で約束した免罪符と同じような商売だ。最初にそれを再発見した者(臼井)が無償で行ったのに、その継承者たちがどうしてお金を取るのだろうか?

 繰り返すが、レイキを始めるために、イニシエーションをする必要などない。どれほど有名であろうと、見返りとしてお金を要求するような人から受けるイニシエーションであれば、なお更だ。なぜなら、それでお金を儲けようとしているのなら、自称するほどレベルが高くはないからだ。

 真の師匠は、万人のエネルギーでお金を取ろうとしない。伝達者に過ぎず、謙虚であるので、師匠と名乗ろうともしない。

 ここに、イエスの手本がある。エネルギーで多くの人を癒し、弟子たちにも伝授したのだが、誰からもお金を受け取らなかった。

*講習だけでなく、レイキのセッションでお金を取る人もいますよ! これについてはどう思われますか。

 宇宙エネルギーは、伝達する人の所有物ではなく、お金を払わずに使用できるものなので、同じく無料で与えねばならない。

 レイキでお金を取る人達は、自分自身のエネルギーや自分が努力して周囲からかき集めたエネルギーを扱うのだろう。

 だが、高波動の霊的存在たちからの手助けは期待できない。彼らと同調するためには、心を浄化し、他者を助けたいという無私の思いが必要となるのだが、お金を取る者には無私の志はなく、金銭的な利益を得ることに関心があるからだ。

*でも多くの人が、レイキで儲けようとしているのではなく、それで時間が取られるとサラリーマンにはなれないし、何かで暮らしを立てる必要があるから、と言っていますよ。

 それなら、エネルギーの伝達では生計を立てようとしないことだ。経済的にやっていけるように、他の活動で報酬を得られる仕事を持ち、自由な時間にレイキをすれば良い。これは、意志力の問題だ。

 しかし実際には、レイキでお金を取る者の多くが、生活を維持するだけでなく、それによって儲けようとするのだ。レイキの料金は、オーラを綺麗にするというよりも、それにひっかかった愚か者の財布の中身を綺麗にしてしまうほど高いことがあるからだ。

 イエス自身も、「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に返しなさい」と言っている。

 物質的に自立する必要があるのなら、物的な仕事でそうするように努めなさい。霊的な仕事を介してはならない。霊性にお金を関与させるのは、止めなさい。霊性が穢れてしまうのだ。

 君たちを助けている霊的なガイドたちは、君たちからお金を取るのだろうか? 彼らがそうしないのならば、彼らを見習い、君たちもそうしてはならないのだ。しかも、自分に能力があるのだからお金を取る資格があると思っていると、本当にそうなって、自分自身のエネルギーしか使えなくなるのだ。

 「神と富とに兼ね仕えることはできない」ということを肝に銘じて欲しい。現在の言葉に置き換えれば、愛と我欲とに兼ね仕えることはできないという意味だ。それらは、相容れられない対立する概念なのだ。

*エネルギーを貰う代わりに、お金であろうと他のものであろうと何かを引き換えにあげる必要があるので、これは交換をしているに過ぎない、と言う人達もいますが。

 それならその人達は、無条件の愛という、何の見返りもなく与える行為を知らず、また理解したくもないのだ。見せかけの霊性で外側を装おうとしていても、見習うべき手本とはならない。

 それを忘れないようにしなければ、霊性復興運動も、ついにはキリスト教と同じことになってしまう。つまり、皆の大師匠だと勝手に名のり出る者が現れて、自分の富と権力への渇望を満たすために、聖なる教えを管理し操作し始めてしまうだろう。

*でも、有料レイキに効果はあるのですか、ないのですか。

 効果はあるかもしれないが、無料で行うレイキよりは、常にずっと貧しい結果しか得られない。効果は、助けたいという意思の力次第なのだ。
大半の場合は、他者を助けたいという思いと、何かと引き換えに行おうという我欲とが混在している。善意によって得られる効用も、私欲で失われてしまう。

 一つはっきりさせるが、我欲があると、与える以前に貰おうとしてしまうので、癒しにはならないのだ。我欲に委ねる人は、本当は他者を助けようとは思っていないので、助けてあげることができないのだ。

 お金を取っているならば、それが他者を助けるためなのか、自分が有名になるために他者を利用したいのか、あるいは自己の物質的な欲求や期待に沿うためなのかを、分析してみるがよい。

 イエスがあれほど優秀なエネルギーの担い手であり、奇跡と思われたほどの素晴らしい、強力で迅速な結果が得られたのは、一体どうしてだと思っているのかね? それは彼が、無条件の愛を感得するに至った魂だったからで、その愛がエネルギー次元で顕現する時に、高振動のエネルギーとなり、それに肉体的・霊的な障害を癒す力があったからだ。

 多くの者が、イエスがしたことをできるようになりたい、と思っているが、彼らには本質的なものが欠けているのだ。それは、無条件に愛すということで、 我欲を ―虚栄・自尊・尊大を― 放棄しなければならないのだ。

 イエスがしたことをできるようになりたいのか? それなら、他者に何かをしてあげる度に、集金してまわるのは止めなさい。イエスが癒しに対してお金を取っていたとしたら、高次の存在ではあり得なかったし、高次の精霊たちからも支援されなかったので、癒しそのものが不可能だったろう。

*病気とその意味について、最後に言っておきたいことはありますか。

 病気は、運命のいたずらでも神の罰でもなく、霊的成長の糧となるものだ。

 今生で患う病気は、今回の転生で立ち向かわねばならない試練を知らなかったり受け容れようとしなかったのが原因か、または心に従って行動や生活せずに霊的な内面を抑圧したのが原因だ。

 この場合、肉体的な病は、内部の病気の警報として作動し、自分を変えるように誘導する。

 先天性またはカルマによる病気のケースでは、原因は前世での行為の中に見い出せる。それは、溜まった負債を清算するための試練であり、魂が霊的により高い段階へと昇るために障害となる心理的毒素を肉体に受け渡すプロセスなのだ。
【本文転載その終了→その21に続く】

 




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魂の法則 その⑲ 人間関係と「愛の法則」

2013-06-21 08:17:00 | 魂の法則

連載も終盤局面に入る!
愛の法則は、人間関係にも貫かれている?!
双子の魂の存在は、何と心強い福音ではないか?
しかし、相見える事は少ないとは??
未だ、進化の余地を多く残している・・・!!

 

 赤い糸に繋がれたカップルも、しばしば、どちらかがその糸を絡める訳である。

 で、どこに繋がっているか、皆目、見当が付かなくさせる。我欲がそうさせるのである。実際、そうしたことが多いのが現状であろう。

 勿体ない話であるが、自業自得であるから文句は言えない。

 この物質世界は、まさに迷いの世界であると言える。様々な誘惑や、利害得失や、目に見えるもの、触るもの、そして、五感によって感性(感情)を狂わすからである。娑婆たる所以である。

 

 

378

 


 長い時を経て、その虚しさを感じ、やがて、真正の魂の友を発見する歓びは、いかばかりであろうか? それは必ず訪れると確信する。それは大きな福音である。

 又、様々な魂の群れも、所詮は一つの大きな同胞であることに変わりはないが、その道程は遠い。その過程にうり二つの双子の魂が存在するというのは、夢多き話ではないか。

 同時に、その魂同士が、大きく迂回することもあり得るのである。心すべきである。裸で生まれ、裸で肉体を去る。何も持って行くものは物質ではない。我欲で積もった執着か、さもなければ、磨かれ輝く純粋な心の魂か二つにすぎない。

 冷静に考えれば、後者だろう。

 前者は、今は良いかも知れないが、長い目で見れば、無意味なものだ。

 50年、100年のスパンでものを観るのは、虚しいことだ。「魂の法則」を知れば、誰ものがそう思えるに違いない。魂は不死である。

 

136

 



 様々な人間関係を、「魂の法則」から、説いてある。分かり易いし、納得できるであろう。中には青天霹靂の見解もあろうが、そう思うのは、これまでのドグマ(教義)に洗脳されているからだ。

 

 魂の自由法則、愛の法則で、点検すればこうなるとの見解は斬新であろう。

 

 尚、全文を読むには、日本語サイト:http://tamashiinohousoku.blogspot.com.esで、ダウンロードできる。

 

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題名: 「魂の法則」
スペイン語原題: “LAS LEYES ESPIRITUALES”
著者: Vicent Guillem Primo ヴィセント ギリェム・プリモ
邦訳: 小坂 真理
知的財産権登録番号 V-2095-08 (Valencia, España)
Copyright © 2008 Vicent Guillem Primo
Japanese Translation Copyright © 2013 Mari Kosaka
ホームページ: http://lasleyesespirituales.blogspot.com.es/
日本語サイト:http://tamashiinohousoku.blogspot.com.es
メールアドレス:tamashiinohousoku@gmail.com

 

Photohttp://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.es_ES

 

「魂の法則」 by Vicent Guillem is licensed under aCreative Commons Reconocimiento-NoComercial-SinObraDerivada 3.0 Unported License. Creado a partir de la obra enhttp://lasleyesespirituales.blogspot.com.es/.
本書に修正を加えず営利目的にしない条件で、現在利用可能な全ての媒体によって、本書全体またはその一部の複製を許可するものとする。

 

【本文転載その⑲開始】

 

人間関係と「愛の法則」

*愛についての話で思い出したのですが、僕たちには全員双子の魂がいるのだと言われましたよね。

 その通りだ。

*双子の魂は存在するのですね。

 そういうことだ。

*想像の世界の中の幻想で、ロマンチックな夢とばかり思っていました。

 そうではなく、実在するのだ。ただ、君たちが想像する通りだとは限らない。

*それでは、双子の魂とはどういうものですか。

 お互いを補い合える、100%似通った魂のことだ。双子の魂は、愛で結びつくように創造され、完全に幸せになるためには、お互いを必要とし合うのだ。

*各人の双子の魂は一つだけですか、それとも複数存在するのですか。

 とても似通った魂は複数あり得るが、100%類似するたった一つのものだけが、双子の魂だ。

*双子の魂は、どういう目的で創造されるのですか。

 誰もが絶対に、孤独を感じることのないように。自己覚醒を促し、愛の道を歩むよう突き動かしてくれる自分と同じ存在がいるためだ。双子の魂は、君の理想のパートナーで、永遠の伴侶だ。

*それは、双子の魂は一緒になるために同時に生まれ変わる、という意味ですか。

 多くの場合にそうだが、いつもそうとは限らない。魂の発達に求められることによる。例えば、自己の意志力を発展させて相手に依存しないようになるために、独りで物事を経験しなければならない場合も時にはある。

*一緒に転生する場合には、カップルとして暮らすためにそうするのですか。

 それは理想的な状況で、多くの場合にそうなるように転生が準備されるのだが、必ずしもそうなるとは限らない。また一緒に転生しても、カップルとしてではなく、身近な家族や別の関係に生まれ変わることもある。

 魂の成長のために要請されることや、魂自身の選択にもよる。転生した後で、一緒にならない選択をする可能性もあるのだ。

*では、今生で関わる人達が選ばれるのは、転生前の決定なのですか、それとも生まれ変わってから決めるのでしょうか。

 家族構成や特定の友人や将来のパートナーなど、一番身近な人間関係は、転生以前に話し合われる。これに関しては、生まれ変わる魂たちの間で、それぞれの使命や試練においてお互いに助け合う約束がなされる。例えば、将来生まれ変わって来る子どもに対して親になる約束をすることなどだ。ただ、その約束がのちに果たされるかどうかは別物だ。

*転生以前の約束は、大抵守られるのですか。つまり、ある人とカップルになる約束をしたのに、のちに生まれ変わってから、違う人を相手に選んでしまったり、ある夫婦が二人の子どもを持つ約束をしていたのに、一人しか、あるいは一人も生まなかったということもあり得るのですか。

 君たちの世界ではごく頻繁に、転生以前の約束が破られている。

*約束が破られてしまう原因は何でしょう。

 通常は、本人自身の欠点である我欲に身を委ねてしまい、頭で決断を下すからだ。頭は、君たちの住む物質界のありさまに多大に影響されている。物質の獲得にのみ努力すること(消費主義)や、物質的な悦びを味わうこと(快楽主義)にだけ焦点を当てた生活へと誘導され、自分の志や霊的な約束を忘れてしまうのだ。

*魂は転生以前のことを全く覚えていないのに、転生してから、生まれる前の霊的な約束がどんなものだったのかを、どうやって知ることができるのですか。

 霊的な直感に従えばいいのだ。人は、心で感じた通りにする時には、どの道を選ぶべきか察している内面の声に従っているのだ。そして、当初の目的を果たしていくにつれて、もっと幸せになり、更に自信がついて落ち着いて、人生での次の目標が明らかになってくる。

 心の声に耳を貸さなければ、頭脳のみに導かれるが、頭脳は感情とは異なり、純粋に物質的な目的を追うように仕向けるので、人は虚無感を覚え、自分自身と折り合いがつかず、不満足で自信がなく、人生に意義を見い出せないのだ。

*具体的なケースで説明下さいますか。

 生まれる前にカップルになる合意があった二つの双子の魂が、今生で出会ったとしてみよう。双方の魂はお互いを認識し、両者に愛情が芽生えたとする。しかし、一方がひどく自我に洗脳されていて、今生での決定を下す際に、その我欲のままになったとしよう。

 我欲は頭の中で、物的に不利な状況を悪影響を与えるために利用し、あらゆる方法で感情を無視させようとする。「いい相手じゃない、お金がない、学歴がない、社会層が違う、肉体的魅力がない、家族は反対するだろうし面倒はご免だ、遠くに住んでいる、これこれしかじかの人ではない」などと。

 こうして、本物の感情を味わって、真の幸福の一端を共に経験できる霊的に似た人と暮らす機会が現れたというのに、その機会を見送って、気持ちに反した選択をして、双子の魂との転生以前の約束を破ってしまうのだ。

 我欲の言いなりになると、自分の気持ちには従わず、知的・物的な期待に沿って相手を選ぶことだろう。こうして、肉体的にもっと魅力的な人やもっとちやほやしてくれる人、もっと経済力がある人など、別の人を優先し、表面的にはもっと刺激的な生活や安楽な生活を送るだろうが、感情的には虚しいのだ。

*本当に約束を果たそうとする人達はどうなるのですか。例えば、前のケースで拒絶されてしまった人は、どうなるのですか。

 Bプラン、つまり代替計画は常に存在する。霊的なガイド役たちは各人の能力を把握し、その限界が分かっているのだ。霊的にはそれほど類似していなくても、我欲のためにではなく、感情のために努力する気のある別の人と人生をやり直すことが可能だ。

*それでは、例えば、未来の両親がもう転生していて、彼らが打ち合わせとは違う選択をしてしまって、それぞれが別の配偶者を見つけて最終的に一緒にならなかったとしたら、二人の子どもになろうと決めていた魂はどうなるのですか。生まれ変わるのを止めるのですか。

 眠っている間に、魂はほぼ毎晩霊界に戻っているので、転生していても、霊的世界から切り離されてはいない。他の魂が関わることは、その状態にいる時に決めることができる。

 例えば、最初に準備した計画とは異なるものの、将来子どもになる筈だった魂と、かつての約束を再考することもできる。両親になる予定だったどちらの親も引き受けない場合には、その魂が子どもとして生まれ変わることに同意してくれる、似た特徴を持ったカップルを代わりに探す。

 ガイド役たちは、生まれ変わった後で人間が考えを変えやすいことを知っているので、進化の代替プランを数多く用意してくれている。こうして、選ばれた環境が、転生前の計画からどんなにかけ離れてしまっていても、進化のための選択肢が残るように努めてくれているのだ。最初に描いた「ルート」から逸れてしまったら、自分が選んだ道から新たな「ルート」を再検索するのだが、目的地は同じである。

*約束を果たさなかったことは、魂に影響しますか。

 一見すれば、その人が幸福への最短距離から逸れてしまったかのごとく、否定的なことに思えるだろう。しかし、好きな時に考えを変える自由も、味わってみなければ自覚できない状況を経験することも、自由意志の一部なのだ。

 それに、ある方法で学ばないことは、別の方法で学べるのだ。同じ場所に行き着く道は色々あって、それぞれが異なる選択肢だが、体験することと学ぶことは同じなのだ。

*転生する魂は、自分の家族や近親者となる人達を前世から知っていたのですか。

 それは、色々だ。同じ家族に生まれた人の中に、前世での仲間がいるかもしれないし、別のケースでは、同じ家族に一緒に生まれ出るのは初めてかもしれない。

*家族構成、つまり、父親や、母親や、兄弟を決めるのは誰ですか。

 通常は、一緒に生まれるそれらの魂自身が、霊的ガイドの支援や助言を得て、相互に合意して決めている。

*家族関係は何によって決まるのですか。

 贖罪や使命など、転生する魂の進化に求められることによる。

*進化に求められることがどのように家族構成に影響するのかと、贖罪と使命との場合で、どう異なるのかを教えていただけますか。

 よかろう。兄弟・親・子を問わず家族の構成員が前世の天敵で、憎悪や報復欲や恨みに駆られて酷い危害を加えた合った過去を持つ場合がある。これらの魂は、血縁から生まれる愛情を奮い起こしてお互いの傷を癒すという目的で、一緒に生まれ変わる。つまりこの場合は、前世でお互いに傷つけ合い「愛の法則」に反したために、彼らの間に清算すべき負債があった訳なので、一種の贖罪となるのだ。

 使命の場合には、魂は帳尻を合わせるために集まるのではなく、愛し合っているからであり、より進んだ霊的な目的を果たすために助け合おうとして一緒に転生する。このような霊的な目的は、進化の遅れている人達を支援することに関係しているが、同時に、自分たちの霊性向上にも役立つのだ。

 この二つの極端なケースの間に、我欲と愛情、贖罪と使命とが混在する、色々な意味合いの中間的な状況が存在する。魂は、霊的進化の道程を進んで行くにつれて、支払うべき借りが少なくなり、無条件に与えられる愛が大きくなるのだ。

*でも、家族関係が贖罪の場合には、逆効果にならないでしょうか。つまり、憎しみ合っている人達が同じ屋根の下で共存を強いられたら、虐待・暴力・緊張・口論などが絶えないのではありりませんか。

 共存を強要された訳ではない。自分たちの悪感情を克服するために、彼ら自身が霊的ガイドの提案を受け入れたのだ。

 君が言う、虐待・暴力・緊張・口論は、これらの魂がまだ霊的な悪習にしがみついており、自己改善をしたくないから起こるのだ。

*どちらにせよ、憎み合っている人達を同じ家族に入れるのは、過激な療法に思えますよ。それでは、危険な囚人をまとめて同じ独房に入れるようなものではないですか。しまいにはやり合いませんか。こんな状況から愛が生まれるとは思えません。

 家族の全員がお互いに仲が悪いとは言っていない。例えば、父親と息子の間で衝突が起こるとか、兄弟間の仲が悪くても、他の家族とは問題がないケースだ。通常、このような家庭には、より進化した魂が転生し、愛情に満ちた行いとはどのようなものであるべきかの手本を示す。似たような欠点のある魂が一緒に転生するのは、まさに一方が他方の鏡となるためであり、自分と似た人との共存体験から学ぶためだ。

*この経験から学ぶべきことは何ですか。

 一番大切なことは、我々は皆兄弟だと知ること。これは、まさに文字通りだ。前世で最も憎むべき人が、次の転生では君の兄弟となり得るのだ。
 
 一つはっきりさせよう。 一部の人だけを愛して、その他を憎んでいては、進化はできない。憎悪を愛に変えない限り、前進できないのだ。

 だから、憎しみによってしてしまったことを償う必要があるのだが、一番苦手で最も借りのある人に償いをするのが理想的なのではなかろうか。

 また、我欲が顕現したものが欠点だが、我々と同じ欠点を持つ他者のエゴを認識したり、それを身を持って体験してみることも有益である。

 我々は、隣人の目の中のおが屑が見えるのに、自分の目の中の丸太に気づかない傾向にある。要は、我々は、特に嫌いな人の欠点には、非常に注意を払うのだが、それと似ていることが多い自分自身のものは見ようとしないのだ。

 他者の我がままのために実際に苦しんでみれば、欠点がどう影響するのかを体験できるので、欠点を自覚でき、それをなくすべきだと考えるだろう。

*人間関係のテーマに戻りますが、どういう理由で二人の人がカップルになるのでしょう。

 愛によって、霊的な進化の必要性によって、あるいは執着によって。

 最初の二つの理由は、霊的な判断に従ったもので、転生以前に取り決められる。

 最後のものは、転生してしまってから本人が選択するもので、霊的というより「現世的な」理由によって決められる場合が多く、転生以前に交わした魂の約束が何度も変更される。

*これらの結びつきの種類による違いを説明いただけますか。

 最初のものは、愛情の結びつきと魂の類似性によるものだ。

 霊的な進化のための結びつきは、互いの学習上の必要性によるもので、通常、課題が残っている魂の間や、特定の欠点・美徳に共に取り組むことで霊的に向上し得る魂の間で見られる。

 三つ目の執着による場合は、肉体または性的な魅力、知的・物的な目標が似ていること、物質的な必要性、愛情の欲求や、一緒になる二人の便宜・義務などによって結びつく。

*子ども達の転生が、霊界で決められることは理解できるのですが、二人がカップルになるというような決定は、生まれ変わった後に、いつも物質界でなされるのではないでしょうか。

 確かに最終決定は転生してからなされるが、見ず知らずの二人が、何十億という人の中で出会うというのは、どれほどの確率だろうか?

 偶然であろうか? その環境が整うには、つまり、特定の人達が出会って知り合う機会ができるには、無数の状況が重なる必要があり、実はこれが霊界で調整されているのだ。


 それに、自分の人生において、ある人が重要な人になると予感できるのは、前世の記憶からの感覚によるのだ。

*お話から推察すると、各転生で違うパートナーになるかもしれないのですね。

 もちろんそうだ。君たちの進化レベルの世界ではそれが普通であるし、おまけに多くの場合、霊性進化のために変える必要があったり、前世の行為の結果として変わることがある。

*どういう意味ですか。

 霊的に完全に似通った双子の魂の場合でも、愛情よりも欠点が勝ってしまって、それを認識も修正もしたくなければ、一時的であるにせよ、別れてしまうこともある。人は、失ってから初めて大切なものに気づくことがあるからね。そうして、次生では余り似てはいないが、悪習を修正するために役立つ人を相手に選ぶことになる。

 君たちの世界では、大半の人が内面をほとんど気にかけていないので、愛によって結びつくカップルは非常に少ない。大多数は、物的または情緒的な必要性や便宜、性的な魅力などによって一緒になり、魂の要請に従って結びつく者はごく一部だ。

 我欲の大部分を取り除き、魂が気持ちと一致している進化した世界では、大半の結びつきが愛に基づくものだ。それは、類似する魂同士が相手を見間違えることがないためであり、物的な欲望がどれほど満たされようと、相互の愛情ほど幸せを感じさせてくれるものはない、と知っているからだ。その世界では、私欲によって相手を選ぶ男女は皆無だし、双子の魂ではないカップルには滅多にお目にかかれない。

*「人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」という有名な言葉があるので、世間では、ただ一人だけを伴侶にすることが最も霊的だと思われてきました。それなのに、あなたは、多くの相手を持つのが「普通」で、霊的にも有益となり得ると言われました。矛盾するのではありませんか。

 愛の絆と結婚の絆とは別物なのだ。

 ある程度の時間が経つまでは夫婦にははっきり分からないものの、地上の90%の結婚に真の愛は存在しないのだ。だが、一枚の紙に署名してしまったために、どうやら人には、考えを変える権利がないようだ。

 自分たちの関係を感情に基づいて選ぶようになれば、進化した世界のように、君たちの関係も永続的なものとなろう。しかし、その世界で二人を結びつけているものは、義務ではなく、愛情なのだと知らねばならない。

 人には誰もに、相手を選ぶ自由と同じく、自分で決意するなら別れる自由があるし、自己の決定については誰にも言い訳をする必要がない。

 はっきりさせておきたいのは、二人を結びつけるものは相互愛であるが、それぞれが個人の自由を完全に保持しているということだ。司祭の前であろうと宗教遺物と花で飾り立てられた祭壇の前であろうと、サイン入りの契約書では結びつかないのだ。そのようにして二人を結びつけているものは神ではなく、君たちが作り上げた法律や習慣によって、君たち自身がそうしているのに過ぎないからだ。

 神が本当に与えてくれたものは、愛せる能力と、愛を体験して幸せになるための双子の魂であり、自らの運命を決定できる自由だ。

 だが、君たちの世界では、愛情で結びつく僅かな夫婦も、まだそれぞれの我欲を克服する必要がある。多くの場合に我欲が勝ってしまい、感情を押さえつけるからだ。

 それゆえ、「人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」という常套句は、真の幸福を体験したい者の助言となり得る、「愛が結び合わせたものを、我欲が引き離してはなりません」というより適切な文言に置き換えられるだろう。

*それでは、霊的な観点からは、離婚は肯定できることなのですか。キリスト教の大半が離婚に反対なので、いつも悪いことなのだと思ってきました。

 宗教と霊性とは異なるものだ。

 誰と一緒にいたいか、またはいたくないかを選ぶ自由があるのは、いつも良いことだ。自由意志を行使できるので、肯定的なことだ。霊界は、いつも自由意志の味方なのだ。

 ただ紙に署名をしたというだけで、なんの愛情もない相手といることを強制したり、気持ちはあっても、理由はともあれ、一緒に暮らすことが不可能な人を強要することは、自由意志の侵害となる。

 君たちは、夫婦になるということは、自由意志の一部を放棄することだとまだ思い込んでいるが、そうではない。例えば君たちは、結婚したり同棲すれば、絶対に果たすべき義務であるかのように、相手と性関係を持たねばならないと思っているが、それは違う。人は、嫌だったり望まないのであれば、ただ結婚しているという理由だけで、性関係を義務づけられたりはしない。

 また、単に性関係を持ったというだけで、その相手と一緒になる義務もない。更に、どんな状況で一緒になったにせよ、自分にない気持ちを感じなければならない義務もない。

 そして、これが一番重要なのだが、そのために罪悪感を覚える必要はない。感情とは強制されるものではなく、自発的に湧き出なければならないのだ。霊的な観点からは、全ての上に自由意志があり、他のあらゆることに勝るのだ。

 執着を手放さない限り、愛の至福を味わえはしない。愛にとっての執着とは、鳥にとっての鳥かごなのだ。

*性関係を持つ人達が、愛し合っているからではなく、単に愉しいひと時を過ごしたいのであれば、何らかの霊的な法則に背くことになりますか。

 いや、その人達が自由にそう選択したのであれば、全く問題とならない。

 ただ魂は、進化すると性関係以上のものを期待し、ただの肉体関係だけでは満ち足りなく虚無感を覚えるものだ。しかも、お互いに性的に惹かれ合っても、魂の類似性がなく内面の気持ちがなければ、単に性関係だけの結びつきでは、しまいには飽きてしまう。そのため、長続きしないことが多い。続いたとしても、二人の絆はとても弱いものなので、不安定な関係となり、いざこざが絶えないことだろう。

 魂が成長していくにつれ、性関係は、本能という生物的な欲求から、気持ちを表現する手段へと変わる。原始人の性は、基本的に本能的なものであり、好きでもない人と性交しても、まだ感情がほとんど発達していなかったために、空虚感を覚えることもなかった筈だ。

 愛の能力の高い進化した魂ならば、本能を満足させるだけの性関係には、大きな虚無感を覚えるだろう。進化した魂にとっての性的関係は、親密な愛情表現なのだ。

 性関係を持つ魂が、霊的に似ていて互いに愛し合っている場合には、その深い愛情が、性関係にも反映される。肉体の交歓と共に、お互いのエネルギーが交流し、活力を与え満たし合うのだが、これはアストラル体・メンタル体・霊体が交わることから生じるのだ。

 それに反して、完全に性的な関係、つまり、性行為に及ぶ男女が双方ともに愛情を感じていない場合は、肉体が満足しても、アストラル体・メンタル体・霊体などの精妙な体の交じわりに欠ける。その結果、虚無感と不満感がもたらされるだろう。

 進歩した世界では、一緒になろうと魂を奮い立たせるものは、純粋に内面に感じる愛だけで、その他の理由で二人が結びつくことは、極めて稀である。また、そこでは洞察力が非常に発達しているので、地球で良くあるケースのように、外見に惑わされたせいで思っていた通りの人と違って、後で騙されたり失望したりすることがない。

*性の問題をどう解決できますか。

 君たちの性の問題は、その大半が、ほとんどなんの愛情も感じない人と性関係を持つということに由来している。君たちは、まだ肉体の部分しか見ておらず、性の悦びの最たるものは、肉体的に非常に魅力的な人と関係を持つことだと思い込んでいる。

 大多数の人は感情面を認識しようとはせず、霊的に似ている愛する人と一緒にならない。そのため、愛情がないことから問題が生じる。内面が満たされたと感じられないことが問題なのだ。愛のない性関係を持つことで一番苦しむのは、進化した魂だ。

 愛情がないことが問題なのだと気づき、気持ちに従って行動すべきだと認める代わりに、同じように愛のない別の人との体験を求め続けたり、セックスを魅力的にしようと色々な要素を加えてみるが、相変わらず虚しいのだ。こうして、感情でしか埋められないものを、物質で埋めようとするので、悪循環に陥るのだ。

*それなら、映画で見る関係のように、ロマンチックな愛は、僕たちの世界には不足しているのですか。

 この場合は男女の愛のことだが、問題は、愛というものの君たちの概念が、霊的な視点からの愛から歪められていることだ。

 君たちが誤って「情熱的」な愛とか「ロマンチック」な愛と呼ぶ、強い肉体的な魅力からの関係は少なくはない。それは、花火の光のようで一瞬は強烈だが、その後は完全に消えてしまう。

 そのため、物的な調味料で感覚を過剰刺激(高価なレストランでのディナー、豪華なプレゼント、五つ星ホテルのスィートルームでの一夜、
楽園のような島でのバカンス)して、なんとか継続させようと無駄な努力をする。そしてこれら全てを、君たちはロマンチックな愛と呼ぶが、実際には、ひと度性欲が満たされるやだんだんと薄れていく、強い性的魅力を指しているに過ぎない。

 情熱に関しては、多くの場合、愛とは何の関係もなく、誰かを所有したいという満たされぬ欲求であり、我々が執着と呼ぶところの自我が顕現したものだ。人は物ではないので、所有できないし、本人以外の誰にも属さない。愛すことと所有したいこと、愛と執着とを、混同してはならない。

 はっきりさせておこう。 誰かを愛すように強いることはできない。愛が自由でないならば、それは愛ではないのだ。

 感情は強要することができない。感情は提言・操作・強要・命令に従わない。愛されたいのであれば、何の見返りも期待せず、無条件に愛すのだ。そうすれば、いつか、原因-結果の法則が、与えたものをもたらすだろう。【本文転載その終了→その⑳に続く】

 


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魂の法則 その⑱ 怖れ

2013-06-20 08:15:00 | 魂の法則

怖れを増幅することで支配する!
人間を支配する常套手段である?!
又、
怖れは進化を停滞させる!
まあ、死んでも生きている・・・魂の不死性を検証しよう!!

 

 かみ砕いて、内省の要点を観てきた。安心を得るには、内省しかない。立命に安心に依って立つ。怖れは見えないから、増幅するのだ。

 幽霊も見えないから、怖いのである。暗闇で、柳の小枝がそっと背中を撫でたら、誰でも怖い。しかし、勇気を持って振り返り、確認すればどうって事はないのである。

 闇の勢力、宇宙人、怖いと持って調べてみれば、何のことはない。我々と同じ人間であった。少なくとも、魂を持った存在であった。と言うことが分かれば、怖くはない。

 

 

376

 


 と言うことで、調べ始めたら、ウソで固めて恐怖を創りだしている存在が、闇の勢力で、恐怖で支配しているに過ぎないことが分かる。同時に、彼らは何故支配しようとするのか、支配していないと全てを失うから、それが怖いのである。

 臆病なのは、彼らの方である。翻って、宇宙人は、我々もその一人であるが、少なくとも、何らかの援助を思考して接近する高度に発達した先輩格のエイリアン(異星人)は、我々を怖がらせないために身を隠すのである。

 それに得心すれば、何も怖いものはないのだ。怖がっていれば、エイリアンと接近遭遇も難しいだろう。それは、友を避けて、引きこもりしている鬱状態の自分自身をかいま見るようである

 そういう状態を脱するためには、小さな勇気が必要だ。しばらく、日光浴をして、一度なりぐっすり眠れば、一歩を踏み出すことが出来よう。そして、外に出て自分を晒してみれば、同じ、他も人間に違いないと感じる。

 欠点多き人間の群れ、その中の一人が自分である。そう思って生きることだ。完全であるものなど居ないし、永遠になることは出来ない。だから、永遠の進化があるのである。

 永遠の進化のために、魂は不死である。これ程、安心できる要素が他にあろうか。いつか又、出来る。何度でも出来る。これ程の安心立命はない。

 

140

 



 内省することは、自らを探求することである。真実の追究は、ウソを見破ることである。真理は、汝を安らかにする。これは至言である。

 

 かくて、ささやかなブログの出発点も又然りであった。

 

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【本文転載その⑱開始】

怖れ

 怖れとは、懸念・動揺・不安の感情であり、自分や自分が愛する者への危険や脅威を感知して生まれるが、危険自体は、現実的なものである場合と、想像上のものである場合がある。

 怖 れに脅かされている者は、自分に全く自信がなく無防備であると感じ、大事な決断では、感情または肉体を傷つける悪い結果になりはしないかといつも迷う。し かも怖れは怖れを呼ぶ。つまり、怖れは頭を過度に刺激して、現実の状況を、空想上の脅威が出現する架空の状況に創り変えてしまう。しかも、それを本物だと 信じてしまい、現実の脅威だけではなく想像上の脅威によっても、自分の怖れを増大させてしまうのだ。

 怖れは心配も引き起こす。頭の中で、脅威となり得るあらゆる状況を予め想定して、その全てから無傷で逃れる方法を探そうとするからだ。

 恐怖とパニックは、強烈で鋭い怖れの感覚で、非常にトラウマとなり易い。 

 怖れは、自分が在るがままに振舞う妨げとなるので、霊的進化に最も有害な感情の一つである。進化する意志のある善意の魂でさえも、怖れを乗り越えられなければ、長期にわたって成長が滞ってしまうことがあり得る。

*でも、全ての怖れが同じだとは思わないのですが。

 もちろん違う。だが一般的に、怖れは魂を抑圧して、気持ちに従って行動できなくさせ、感情を窒息させて完全に抑制してしまうことさえある。そのため、停滞してしまうのだ。

*しかし、正確には何を怖れているのですか。

 最も一般的な怖れは、自分への他者の否定的な反応をこわがるものだ。この定義から派生する怖れとしては、愛してもらえない怖れ、理解してもらえない怖れ、拒否されたり軽蔑される怖れ、攻撃性(肉体的・精神的暴力)への怖れ、孤独になる怖れなどがある。

 と ころで、自分への他者の否定的反応が怖いと、その怖れが、在るがままの自分を表現する怖れをもっと増長させてしまう。そして、これに負けてしまうと、他者 が望む自分らしくない振舞いをしてしまう。他者とはこの場合、身近にいる人で、愛する人や家族(母親・父親・兄弟・伴侶など)のように、少なくとも愛情を 期待できる人のことだが、全般には、どんな人間関係にも当てはまる。この怖れは、家族内外を問わず、こどもが肉体的・精神的な暴力や虐待の対象となった幼 児期に由来することが多い。

 前述のカテゴリーに入らない怖れとしては、未知なものへの怖れ、死への怖れ、苦痛(肉体的または精神的)への怖れがある。

 未知への怖れは、不安を呼ぶ。人は、知らないものについて、多大な脅威や危険を想像してしまうものなのだ。実際のところ、死の恐怖というものは未知への怖れであり、死後に起こり得る未知なるものへの怖れであるか、無というもっと冷酷なものがやって来ることへの怖れである。

 まだもう一つ別の怖れがある。人間にとっては最大の怖れで、他のものはそこから派生するので、特別に言及しておく必要がある。それは、自分自身を知ることへの怖れであり、自分の欠点や美徳も含めて、自分が本当はどういう人なのかを発見する怖れである。

 我々は、我々自身の欠点を知るのが怖い。我々は、自分にエゴがあることや、自分の災いのほとんどが自我のせいだということがなかなか納得できないために、欠点を認識すれば余計に苦しむに違いないという誤った思い込みをしているのだ。気づきは、我欲の一形態に過ぎない「自己愛」を苦しませはするが、幸せになろうとして我欲からの解放を望んでいる魂を痛めることはない。

 エ ゴから解放されるためには、先ず自分自身にエゴがあることを認めて、次にそれがどう表面化するのかを認識しないといけない。認めるのを怖れてはならない。 我欲は全員に存在していて、それからの脱却の過程のどの地点にいるかが違うだけなのだ。だが、自分自身を知ることを怖れて長期にわたって我欲を覆い隠して しまうと、我々は停滞してしまい、ずっと苦しむことになるのだ。

 同様に、我々は、愛情・感受性・謙虚さ・優しさ・同情・博愛など、自分の美徳や愛の表現を発見することを恐れる。実際にそうすることで、傷つけられたり利用されたりして苦しむのが怖いのだ。そしてそこから、自分に対する他者の否定的な反応への怖れが生まれるのだ。

 しかしそれにも関わらず、この怖れに打ち勝ち、自分自身になって、愛情深い自己を目覚めさせるために戦えば、内なる幸福が大変強くなるので、外部からのどんな苦痛や攻撃にも屈しなくなる。

 死 に対する恐怖も、自分自身を知る怖れから生じている。死が終わりで、意識である自分自身が抹殺されると信じているので怖いのだ。自分を深く見つめる怖れを 失えば、心の奥底で「死は存在しない! 君は不死身だ!」と叫んでいる魂の声を聞くことができよう。その時に、存在しなくなることへの怖れ、つまり死の恐怖は、消えるだろう。

*怖れは、魂の進化に、具体的にどのように影響しますか。

 す でに言ったが、怖れによる致命的な影響は、魂が自分を在るがままに表現するのを止めてしまい、気持ちに従って行動するのを抑制してしまうことだ。人は自分 自身でいなければ、自由意志が囚われているので、霊的に成長できない。自由に決断ができず、いつも怖れにさいなまされる。恐れに支配されるのだ。そして、 失敗すると思い込むので、霊性進化に有益となり得るどんな状況にも立ち向かおうとしない。

 怖れとは、地球の権力者たちが、人類を操り、霊的に停滞した状態に保つために利用する感情だ。彼らは、人間が取り組もうとする霊的な挑戦には、必ず架空の敵という脅威を創り出し、偽りの安全と引き換えに、挑戦を止めさせるのだ。

 それは、彼ら自身も怖いからだ。人類に霊性・愛情・兄弟愛が目覚めて彼らの悪行が明るみになり、自分たちの犯罪が裁かれ有罪となり、特権や全財産が剥奪されたり、他の人間を騙し抑圧し搾取して獲得した権力を奪われるのが怖いのだ。

*例を挙げて下さいますか。

 例 えば、人類全体の友愛に賛同する全ての運動に対する恐れを作り出し、非常に有害な勢力を作りあげ、その純真さを利用して、恐怖体制を敷く。全人類のための 連帯と協力に基づいた、もっと公正な政治・経済体制を導入すれば、その後で混乱・無秩序・騒動や経済崩壊が起こるだろうと脅かして、恐れを生み出す。彼ら は、自由は奔放となり、自由思想は厄介な考えをもたらし、自由な感情は悪習・堕落・不道徳をもたらすと予告する。

 地 球の人類が、他の惑星にも愛に生きる人類がいることを発見して、それを見習ってしまうことを恐れている。そのため、地球外生命の証拠はどれも隠蔽し、他の 世界の生物と接触することの危険性を映画を通して助長する。映画では、宇宙人は忌まわしい姿(昆虫、爬虫類、ウィルス)をしていて、体内に入り込んだり、 人類を滅亡させる悪意を持っているのだと思わせようとする。

 人間 が不死であることや、人生の目的は愛を深めながら霊的に向上することなのだと気づかれて、その努力を始められるのが怖い。そのため、死後の生の存在を示す ものは一切否定し、物質主義の科学教義の中に逃げ込む。同時に、肉体の死後に起こることを追求したり、霊界と交信したりすることの恐ろしさを、映画を介し て助長する。その中では、生きている人間の魂を支配して苦しめる、幽霊・悪魔・血に飢えた吸血鬼やゾンビなどという恐怖の存在を創り出して、死後の命をど れもおぞましく描いているのである。

 それに一役買っているのが、 恐怖の産業(映画やテレビ)で、最も愚劣な脅威を映像に仕立て上げ、ほぼ全世界で見せることによって、全ての人の脳にそれが浸透し、頭の中で現実に変わる ようにするのだ。全映画の90%は、テロリスト・連続殺人犯・レイプ犯・麻薬密売人・宇宙からの侵略者・ゾンビ・様々な精神異常者といったあらゆる邪悪な 存在に姿を借りた恐怖を、何らかの方法で波及させるのが目的だ。こうして、子どもや大人の想像力を過剰に刺激し、各人独自の怖れの上に、もっともっと沢山 の恐れが外部から加わるようにする。

*怖れはどう克服したらいいでしょう。

 自覚と勇気を持つのだ。先ず、自分が怖れているということと、何を怖れているかに気づくのだ。

 深 く分析して見れば、怖れの一部には根拠がなく現実的な脅威とは結びつかないことや、少なくとも思っていたほどではないことが分かるだろう。現実の脅威に根 ざした怖れの場合には、それを生み出した状況や環境に勇気を持って立ち向かい、決断を下す際に、恐れに負けないようにすれば乗り越えられる。

 「怖れがなく、完全に自由だとしたらこの気持ちをどうしたいと思うだろう」と自問してみるのだ。それが、選択されるべき正しい決断なのだ。試してみる価値はある。絶えず努力すべきなのだ。

 怖れと対面し勇敢な決断をしていくにつれて、自分の内面が進歩するのを感じ、怖れは力を失い、代わりに自信と明晰さを得る。そしていつの日か、過去を振り返り「何であんなことが怖かったんだろう。今ならはっきり分かるぞ」と言えるようになるのだ。

*自分自身を知る怖れを乗り越えることで、特に配慮すべきことがありますか。

 自分自身を、美徳や欠点も含めて、在るがままに見るのは何も悪いことではない。自分を在るがままに受け容れるのだ。

 改 善途上であることを認め、自分に嫌なところを発見しても落胆しないこと。自分の汚れたところに光を当てて欠点を認識することは、最初は苦痛を伴い不快かも しれないが、そうする価値はある。それが霊的な成長の道における最初の一歩になり、成長するには、我欲を排除することと同様に、感情を発達させることが不 可欠であるからだ。

 自分の感情を怖れず、それが現れたり表したりするのを怖れず、そうする時に嬉しく感じるのを怖れないことだ。悪い事を恐れるだけで沢山なのだから、その上、良い事を恐れるのは止めとしよう。

*同じ質問をしたかもしれないのですが、我欲とその具現形態である「エゴ的感情」に関してのお話を全部まとめる意味で、もう一度質問をしたいのですが。

 質問したまえ。

*一般的に、自我とその形態を克服するにはどうすればいいのですか。

 最初の一歩は認識すること。アルコール中毒であった者は、中毒を克服する最初の一歩は、自分がアル中だと認めることだと知っている。これと同じように、虚栄心・自尊心・尊大に打ち勝つための最初の一歩は、我々一人ひとりに出現する我欲を識別することで、自分の我欲を認識することだ。

 そのためには、それぞれの欠点がどういうもので、どう表面化するのかを詳しく知る必要があり、今まで君と私はそれに取り組んできたのだ。

*それは難しく思えます。

 それほど難しくはない。我欲自体が難しく見せているのだ。

 他 者の誤りや欠点はあんなに簡単に見えるのに、自分自身のものを認めることはなぜこんなに大変なのだろうか?(隣人の目の中のおが屑が見えるのに、自分の目 の中の丸太に気づかない)。我々がここにいるのは、自分を受け容れてそこから改善するためなのだと理解できれば、後は簡単だ。

*我欲自体が混乱させようとするのでしたら、どのようにエゴを認識できるのですか。

 有効なのは、自分の行動をあたかも他者のもので、自分が受け手であるかのように分析してみることだ。つまり、自分と他者とを置き換えるのだ。それから分析してみる。公正で正直な振る舞いだったろうか? それとも、利己的に動いただろうか?

 あ る言動に対して、それをする時とそれをされる時とで、自分の意見が変わらなければ、客観性に近いのだ。しかし同じ言動であっても、自分がした時には容認し て、他者がした場合に告発するのであれば、それは不公平なのであって、自我に翻弄されているのだ。それゆえ、自分の欠点に気づくためには、他者を分析する 場合と同じ客観性を持つ必要がある。

*そしてどうするのですか。

 次のステップは、態度を修正することだ。自分の利己的な思考を認識しても、それが出現しなくなる訳ではない。自我があることを認識して受容するのは大切だが、その意のままに行動することを避けて、エゴに屈しないことだ。

 別の言い方をすると、自分自身に「僕の中にエゴがあるのは知っているけれど、それに左右されずに行動して、愛に基づいた行いをするようにするぞ」と言うのだ。

 態度を変化させることで、我々は少しずつ、自分自身や他者への言動や行為を修正できるようになる。利己的な態度は、自分にとっても他者にとっても有害なのだ。

*どういう意味で自分に有害なのですか。

 愛を感じられなくなるからだ。愛は、人が味わえる感情の中では最も素晴らしいもので、我々を真に幸せにしてくれるものだ。

*態度を変えることは、欠点を認めることよりもずっと難しく思えます。利己的な言動を改めるための助言をいただけますか。

 行動する際には、次のような内省が役立つだろう。「僕がそうされたら、どんな反応をするだろうか? 僕だったら、その人にどうして欲しいだろうか?」こうして、他者も我々と同じなのだと想像すれば、自分に災いを望む人は稀なので、自分の他者への否定的な態度を感知できる。

 こ う推察することで、「汝の隣人を愛せよ」という金言が生まれたのだ。もちろん、簡単ではない。改善しようという揺ぎない紀律と意志が必要とされる。しかし 辛抱強く続ければ、短期間のうちに別の心持ちになり始め、もっと内面と調和して幸せに感じられるので、前進し続ける励みとなる。

*「エゴ的感情」は、どう扱うべきでしょうか。

 それも、同じようにだ。最初に、我々皆が「エゴ的感情」を持っており、自分にもそれがあるのだと認めること。それらが、我欲が顕現したもの、または、我欲と愛との内面の葛藤が表面化したものだと認めるのだ。

 次に、自己分析と内面の意識的な改革を通して、それらを打ち負かす方法を見い出すこと。

*内面の意識的な改革とはどういうことですか。

 それは、自分自身が指導する内なる魂の改革のことで、改革の目的(愛における進歩と我欲の排除)が明確で、欠点がどういうものでどのように具現するのか、根絶する手段は何なのかがはっきりしている。

 完全を目指す道程では、他者の美徳や欠点から学ぶことができるのと同じように、自分の美徳や欠点を観察することでも学ぶことができるのだ。

 一 日のうちで自分と繋がれる静かな時間を作り、欠点についてや、その日の自分の態度や他者の態度について振り返ってみる。自分がどの程度愛に基づいて行動 し、どれほど我欲によって行動したのか、また、他の人達はどれほど愛または我欲によって行動したのかを、内省してみるのだ。こうして正直に考えてみれば、 進歩に必要となる答えを見い出すことができ、確固とした意志を持って試練に立ち向かう励みとなるのだ。

 他 者の利己的な態度に気づいても、それらを理解していれば受け容れることが容易になり、敵対的な態度を取らないでいられる。自分自身の利己的な態度に気づけ ば、流されてしまったと分かるが、自覚することができたので、いいことだ。次の機会には、エゴは減らしてもっと愛ある気持ちで行動しよう、と固く決意する のだ。

 こうして、毎日少しずつ前進して行ける。君たちが、内面の意識的な改革を忍耐強く続けるのなら、いつか過去を振り返った時に、見違えるような自分を見い出し、驚くべき肯定的な変化を遂げたと気づける日が来るのだ。

*でも僕は、いい人である条件の一つは他者を批判しないことだと思っていたのですが、いい人になるには自分の欠点だけでなく他者の欠点も見る必要があると言われるのと、矛盾しませんか。

 それは一般的に、人が他者の欠点に焦点を当てる時は、批判したり嘲笑したりするためだからだ。人は悪い意図を持っていると、とても不公平になり易く、嘲笑の対象となる者を罵倒しようと現実を曲げて大げさにして、何の配慮もしないものだ。

 もちろんこれは嘆かわしい態度で、イエス自身が何度も「隣人の目の中のおが屑が見えるのに、自分の目の中の丸太に気づかない」と咎めている。このため、多くの善意ある者が、欠点について話すのは悪いことだと信じている。

 し かし、ここで欠点について分析するのは、批判するためでも嘲るためでも誰かを非難するためでもなく、それがどう作用するかを理解して我々自身が改善するた めと、他者も改善できるように助けるためである。ここでは、現実を、誇張も隠蔽もせずに、在るがままに見ようとしているのだ。

 実際、この舞台では、人類の大半が同じ欠点を共有しており、それを排除することが進化の工程の一環となっている。それに、初めに認識することなく、どうやって利己的な行為を修正できるというのだろうか?

*我欲に触発されて攻撃してくる人がいたら、その人を許さないといけないのだと思っていました!

 許すためには理解が必要で、理解するにはどうして攻撃したのか、つまり、原因となる場面ごとの我欲についても掘り下げる必要がある。

例えば、他者の欠点に焦点を当てて、公衆の場でそれを批判して中傷する者は、虚栄心の顕現形態の一つである羨望という欠点の下に行動しているのだ。

 霊性進化の工程や克服すべき我欲の段階と、我欲がそれぞれの段階でどのように顕現するのかが理解できなければ、羨望・嘲笑・批判・中傷などや、もっと酷い利己的な態度を許すことはとても難しいだろう。

*それでは、自分自身が我欲のどの段階にいるのかを知ることは可能ですか。つまり、自分の能力や霊的発展レベルがどの程度なのかを知ることはできるのでしょうか。

 ああ、知ることは可能だ。自分自身を知ろうと努力して、霊的に成長しようという誠実な思いがあれば、自分がどの地点にいて、今生で取り組むべき霊的な課題が何であるかが分かるだろう。

 ここでは、美徳も欠点も含めて、自分自身を理解できるように幾つかの指標を与えようとしているのだ。手助けがなく、自分を理解することはかなり難しい。だが、我々には旅の道連れがいるのだ。

 もう話したことだが、一人ひとりにはガイド役がついていて、助けて欲しければ、自分独りでは気づくのが困難なことを見せてくれるように手を貸してくれるのだ。また、肉体を持った人の中にも、その内なる能力によって、君たちに手を差し伸べられる人がいる。

 し かしこれも全て、各人の意志による。我欲に捕らわれていて前進したがらない者は、自分の欠点も認めようとはしないし、いかなる助言も受け入れようとはしな い。そのため、霊界から与えられる助言にも、もっと高次の同胞の意見にも、耳を貸そうとしない。嘆かわしいことに、君たちの世界では、大半の人がその状況 にいるのだ。

 自分が目も耳も不自由だと嘆いているが、目隠しを取 ろうとも耳栓を除こうともせず、「目隠しも耳栓も取りなさい。君は目が見えないわけでも耳が聞こえないわけでもない」と言ってくれる人を聞こうともしな い。要は、自分の不幸を嘆いているのだが、自分が幸せになるのを阻む主要因たる我欲を放棄したいとは思わず、幸福になるために必要な支援を受けるつもりも ないのだ。【本文転載その終了→その⑲に続く】

 


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