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飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

9 愛の法則から見たパートナーとの関係6

2015-02-13 13:05:41 | 魂の法則-愛の法則-

あの「魂の法則」が、
Part2「愛の法則」として、
新たに公開されている・・・!
遅ればせながら、転載を開始する・・・。その9


言うまでもなく、作者はヴィンセント・ギリェム(Vicent Guillem)氏、スペイン人で生化学博士である。

翻訳は、初版本「魂の法則」の訳者でもある小坂真里さん。

訳者のホームページ「魂の法則」に、既に公開されているものを、

敢えて転載する理由は、

一人でも多くの方に触れて頂きたいとの願いからである。

それは作者の願いでもあり、訳者の願いでもある。


そして、

共感する拙ブログの願いでもあるからだ。

既に、初版本「魂の法則」は日本でも公刊されており、

魂の法則
ヴィセント・ギリェム
ナチュラルスピリット

是非とも、手に取ってお読み頂きたい

尚、カテゴリー魂の法則には、23回に亘って連載させて頂いた経緯がある。


でも、

一冊の刊行本は、はるかに読みやすく、

座右の一冊となるだろう・・・。

 

<ヨッキーくんより>


富の無限性について・・・。

同時に、富は奪い合うと減る・・・。

競争は、富の増大を招かない。

のみならず、富を逓減させる。

 

どういうことか?

ある賭場に客AとBが100万ずつ持ってやってきた。

一攫千金を狙ってのことである。

他に客は8人、100万ずつで1000万の賭場であった。

 

さて、

Aは負けて、無一文になった。

Bは、運良く勝って200万になった。

ほかの客はそれぞれでであった。

胴元は、テラ銭として100万をその賭場から徴収した。


従って、Bの実手取りは、180万であった。

10人の客の総額は、合わせて900万である。

儲けたのは、胴元だけで、総額では富を減らしてしまった。

その胴元は、半分は親分の上納金に召し上げられた。

召し上げられた100万は行方は知れない。


翌日、Aが詮方なく、盗みに入り100万をせしめたが、

警察に捕まった。

今、刑務所に居る。

その生活費は、税金で賄われ、警察の捜査費は税金である。


果たして、全体としていくら富が失われたか?

誰にも分からない。


10人は、自己の富を増やそうと企んだが、

肝腎の価値を生み出すことをしなかったからである。

そして、

競争したに過ぎないし、奪うことのみ奔走した結果である。

競争は、相手の富を奪うが、全体の富は増えないのである。

おまけに、

争いが起こるから、

さらにコストが増えて、全体の富は低減する。

 

 

【転載開

9 愛の法則から見たパートナーとの関係6

 

* カップルの愛は利己的で無条件の愛と矛盾するのではないか、という先ほどのテーマに戻りましょう。それがイエスの教えでないとしても、少なくとも教会はそ のように解釈しました。それはイエスが言ったとされている「自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも嫌悪してわたしのもとに来るの でなければ、わたしの弟子となることはできない。」という一節(ルカによる福音書14章26節)によるのだと思われます。
 教 会はこの一節を、隣人を無条件に愛するためにはパートナーや家族とそれ以外の人たちとを分け隔てしてはいけない、という意味に取ったのでしょう。パート ナーや子どもへの愛に囚われたままでは、他者に尽くすことができなくなりますから。僕は、カトリック教会はそのために、聖職者に貞潔を誓わせ独身で通させ たのだと思うのですが、間違っているでしょうか?

 君 が取り上げたのは、実際にイエスが言ったことの目も当てられない悪訳だ。文中の「嫌悪する」という言葉を「執着をなくす」と置き換えてみれば、彼が言いた かったことがわかるだろう。イエスの意味することは、(彼にとっては)無条件の愛に至るためには、家族内でよく見られる執着心と所有的な愛に打ち克つ必要 があるということだ。このような利己的な愛の様相は、往々にして人の自由を束縛し、隣人への無条件の愛の使命を果たそうとする際の制約となってしまうから だ。
 そ れゆえ、イエスの言葉として解釈されていることは、事実に全く反している。パートナーとの愛を経験したことのない者は、無条件の隣人愛を体得できないと 言っておこう。パートナーへの愛の感情は、人が愛のために闘う時に最も強いものである。そしてこの感情が、人生を生きていく上で、支えとなってくれるの だ。
 イ エスのように、他者のために尽くす使命を果たす場合には、内面の力が不可欠だ。イエスは、何を愛しているか、誰を愛しているか、なぜ愛しているかに確信が あったので、内に力を秘めていた。霊界から派遣される本物は皆、類魂との愛を感じ経験したことがあり、その愛から、任務を成し遂げるための力を得ているの だ。この感情を否定すれば、虚しい限りで、勇気と意志力に欠け、そのようなミッションにつきものの障害に直面すると意気消沈してしまうのだ。

*僕はそういう存在たちは神への愛に支えられていて、それで充分なのだと思っていました。

 神への信心は力を与えてくれるが、人間の進化段階にいる者は自分と同じ者、つまり類魂の愛を必要とするのだ。人に幸せをもたらし、あらゆる面で満たしてくれるものをなぜ拒絶せねばならぬのだ? 一体、何が問題なのだ? 
 パー トナーとの愛を放棄する者は、進化するどころか、魂が進化の道程で滞ってしまうことを告げておこう。この件に関する君たちの偏見、つまり、男女の愛を放棄 すればさらに進化できて隣人愛の能力が高まると考えることは、人間の意志を服従させるために教会が作りあげたもので、「魂の法則」に反している。なぜな ら、感情における自由の邪魔をし、幸せになることを阻んでいるからだ。

*隣人を助ける仕事に集中するには、パートナーが邪魔になる場合があるのではないですか?

  仕事の邪魔になるのは、パートナーがいることではなく、執着心のせいだ。どちらか一方が他方の自由を束縛できる権利があると思い、自分の所有物だと見なし て拘束したり、他の人たちをパートナーの注目を奪い取った敵だと見なす場合である。これは、自分と似ていない相手と一緒になった場合に、よく起こることで ある。類似性に欠けていることから無理解となり、人生の意義に関する意見の相違が出てくるのだ。
  類魂同士のカップルでも、エゴ的感情が介在するとそういうことになり得る。それはほとんどが執着心であるが、怖れなどの別のものもある。一般的には、愛する者が苦しむことへの怖れや、危険を伴う使命に身を奉じる場合にその人を失う怖れである。
  だが、パートナーが似通っていて、怖れやその他のエゴの形態を克服している場合には、何の障害ともならない。全くその反対に、一緒に転生できれば、二人が 同じように集中して共に使命に従事するので、より深い取り組みとなる。両者共、お互いの愛に支えられ励まされ、それによって、決意して進むことにした道の りの辛さも和らぐのだ。

*でもイエスには存命中、誰もパートナーがいなかったようですが、隣人を愛し使命を果たすのには支障がなかったのではありませんか?

  このことは以前に話したであろう。イエスも皆と同じだ。彼にも相似の魂はいるものの、同時期に一緒に生まれてはこなかった。だがそれで彼女とのコンタクト がなかったわけではない。イエスのような進化段階にいる存在にとっては、愛する者が同時に転生していなくても、それが、決定的な障害とはならない。彼らは 高い能力と感性を持っているので、物的な次元から比較的簡単に身を解き放つことができ、霊的な次元で類似する存在たちと出会うことが可能なのだ。

*でしたら、特定の人たちを他の人たちよりも愛することは利己主義にならないのですか?

  君は類似性の相違に過ぎないものをエゴだとしている。似ている者を愛する方が、似ていない者を愛することより常に簡単だ。類似性に差がある存在たちも同じ 強さで愛することができるのは、大変進化した魂だけだ。私は、無条件の隣人愛に達するためには、初めに、類魂との愛を経験する必要があると言っておく。そ の愛が他者への愛を養う力であるからだ。
  したがって、他者を無条件に愛することを望みながら、パートナーとの愛を抑制するか否定する者は、絶対に真の隣人愛には到達できないのである。内面を潤してくれる源がなければ、他者に愛を与えて少しでも感謝されない目に遭えば、たちどころに空になってしまうからだ。
  進化の十段階目に到達するには、一段階目から始めて、中間レベルを超えなくてはならないのだが、君たちは、一段階目もよくわからないまま第十レベルに着き たいと思っている。双子の魂のように、似通った者への愛を否定している現状で、自分と似ていない者を、一体どうやって愛するつもりだろうか?

*ですが、最初からから真の愛に出会えてそれを見分けるのは、そんなにたやすいことではありません。

 見分けるのが簡単でないからこそ、恋愛感情がないことを自覚したら、自分に方向転換を許してあげなければならない。本当に悲しいことは、愛のない結びつきではなく、愛がないと気づいてからも解放を阻む地上のしがらみを作って、無理やりそれを継続させようと頑張ることだ。

*若者の方が、誰と一緒にいたいか、いたくないかを決めるのは自由だとはっきり知っていて、続けたくない関係であれば、それほど悩まずに断てると思いますよ。

 そ う、その通りだ。今の若者は、特に西洋諸国において、それほど抑圧的な教育を受けていないので、より自由である。特にもっと性的な自由を謳歌していて、あ る人と性関係を持っても、その人と生涯共にすることを義務付けられるわけでない、と知っている。このこと自体はいいことだ。
  若者の問題は、望む時に関係を切れるかではなく、真の愛をどうやって見つけるかである。大多数が愛とは異なる理由で、一緒になってしまっているためだ。彼らの人生にはより大きな自由があるのに、感情を育む好機として利用されていないのだ。

*では、どういう理由で一緒になるのでしょうか?

 特に青年期に多いのが、肉体的な魅力と知的興味の類似性による結びつきだ。魅力的であることと一目置かれることを何よりも重視するので、性的魅力のある人や、有名だったりお金を持つ人がパートナーに望まれやすい。
  肉体的な魅力のある若者は、そのありがたい身体のお陰で候補者に欠かないことに満足していて、自分も肉体美で相手を選びがちである。このような関係は、通 常、はかないものである。性本能が満たされるや相手に興味を失い、より新鮮な関係を求め出す。だが愛のない性行為は、感情ででしか満たすことができないも のをセックスで満たそうとするので、感受性の強い者の心に虚無感を生み、そのため、多数の若者が深いうつ状態に陥るなどの代償を支払うことになる。
  一方で、魅力がない若者も同じものを求めるが、自分にない肉体美しか評価されないので、望むものを手に入れるのが難しく、虚しい努力に失望する。自分の外 見にコンプレックスを抱き、引け目を感じ、パートナーを見つけられる可能性はほとんどない、と思うものだ。ルックスのせいで、コンプレックスを持って自虐 的になると、よりスリムになりたいとか魅力を増して好かれたい、などの願望で沈み込んでしまったり、拒食症や過食症などの重い摂食障害を招く。

*若者はもっと自由な時代に生まれているのに、なぜそうなってしまうのでしょうか?

 今は性的にはより自由であるが、まだ感情の自由がないのだ。だから、感情の抑圧に打ち克つ必要がある。
  君たちの教育の仕方は、以前として物質主義的で、精神性に欠け、子どもの感情面における教育がまだ不充分である。愛の感情を発展させながら幸せを追求せよ、と教えることが一度もないし、愛に価値を見出すことも、人生を霊的な視点で捉えることも教えない。
  反面、子どもの頭脳や知性を伸ばそうと一生懸命で、将来職業に就くために必要な知識を与えている。学校の授業教育とはそういうものだ。学校外では、家庭で 経験することも、マスメディアや交友関係が教えることも、幸福は虚栄心を満たすことで獲得できる、というものにつきる。つまり、他の者よりも秀でている肉 体的魅力、知性、成功、名声、権力、お金などの表面的な資質を重視するように教育している。
  多くの若者が、満たされにず虚しく思える人生から逃れる手立てとして、気紛れや快楽の充足、娯楽、愛情のないセックス、ドラッグなどに逃避している。感情 で満たされるべきことを快楽と娯楽で埋めようとするが、愛がないので心が沈む。大勢の若者が苦しんでいるのは、虚栄心を満たす願望に取りつかれているか、 愛の感情に対する感性が抑圧または否定されているせいだ。人生の意義を見出す必要があるのだ。
  現代の若者たちは、人生には気紛れや快楽を満たして楽しむ以上の意味があると理解する必要がある。人生を真に充足させるためには、完全に自由に、感情と霊性とを育んで味わう必要があるのだ。こうして初めて、幸せになれるのである。

*若者たちが消費主義、世俗主義、不特定多数とのセックスに傾倒する原因は、昔の道徳観を失ってしまって、霊的に後退してしまったからだと考える人たちがいますが、これは本当ですか?

  いや、すでに話した通り、内面の虚無感から逃れるために物質主義へと走るのだ。過去においても、物事が今以上によかったわけではない。以前の若者たちが今 日のような行動を見せなかったとしたら、それは今よりも価値観が高かったからではなく、もっと抑圧されていたせいと経済的に困窮していたからだ。
  宗教的な潔癖主義は性的な自由を押し潰し、人目を忍ぶ行為に貶めた。かつての若者たちは、感情的にも性的にも自由がなく、宗教的な厳格さの前ではあらゆる ことが罪だとされて、抑圧されて怯えながら暮らしていた。以前は性的な関係はほぼ完全に禁じられており、夫婦の間でなければ認められなかった。また、大半 の結婚が愛のない強いられたものだったので、性体験は多くの人にとって耐え難く、トラウマを伴うものであった。
  社会的な体面を維持する外側の顔と、安全弁代りにタブーや禁制だらけの生活へと逃れる隠れた顔との二つを持ち、二重生活を送っている人も大勢いた。二つの モラルで行動するやり方は、現在に至るまで続いている。特に抑圧的な教育を受けた年配の人は、人から言われることを気にして、二つの顔を持つのに慣れてい る。

 

 


8 愛の法則から見たパートナーとの関係5

2015-02-13 09:46:44 | 魂の法則-愛の法則-

あの「魂の法則」が、
Part2「愛の法則」として、
新たに公開されている・・・!
遅ればせながら、転載を開始する・・・。その8


言うまでもなく、作者はヴィンセント・ギリェム(Vicent Guillem)氏、スペイン人で生化学博士である。

翻訳は、初版本「魂の法則」の訳者でもある小坂真里さん。

訳者のホームページ「魂の法則」に、既に公開されているものを、

敢えて転載する理由は、

一人でも多くの方に触れて頂きたいとの願いからである。

それは作者の願いでもあり、訳者の願いでもある。


そして、

共感する拙ブログの願いでもあるからだ。

既に、初版本「魂の法則」は日本でも公刊されており、

魂の法則
ヴィセント・ギリェム
ナチュラルスピリット

是非とも、手に取ってお読み頂きたい

尚、カテゴリー魂の法則には、23回に亘って連載させて頂いた経緯がある。


でも、

一冊の刊行本は、はるかに読みやすく、

座右の一冊となるだろう・・・。

 

<ヨッキーくんより>


富の無限性について書こう・・・。

富は目に見えない。

お金は目に見えるけれども、それは富の尺度であって、富の情報に過ぎない。

最近は、お金も数字だけにしか見えなくなった・・・。

 

そして、その尺度は不安定で、

しばしば、人間の恣意によってコロコロ変わるが、

富そのものは変わることがない。

目に見えないものは、変わることがないのである。

 

さて、

Aという無一文の人間が居たとする。

Aは貧乏であるが、才能がある。絵を書かせれば、人後に劣らない。

そこに絵心のある金持ちBがやってきた。

BはAの絵に惚れ込んで、100万円でその絵を売ってくれと頼み、買った。


Bは自宅のリビングに飾り、楽しんでいた。

そこにBの友人Cがやってきた。

その絵を見て、Bに売ってくれと頼み込み、1000万円で買った。

Cは絵も好きだったが、ビジネスももっと好きだった。


Cはとあるオークションにその絵を挙げた。

絵は、なんと一億円で落札された・・・。


果たして、富は減ったのか、変わらなかったのか。

それとも増えたのか?


価値の伴う富(=真の富)は、

その価値を伝達すればするほど増えるものである。

そして、

無から価値は生み出されるものである

 

 

【転載開始

8 愛の法則から見たパートナーとの関係5

 

*そう断言することは、結婚の破棄は聖なる法律を破ることだと考えている人たちをびっくりさせると思いますよ。ほとんどの一神教の宗教では―カトリック教会を含みますが―離婚に反対ですよね?

 多くの宗教は離婚に反対だが、当人の意志に反して関係の継続を強いることは「魂の法則」の中の、「自由意志の法則」に違反することになるのだと言っておこう。
 愛がなく空虚なのに、怖れからか、その方が楽だからか、あるいは、離婚すれば婚姻非解消の宗教戒律に違反して神に背いてしまうと信じて、愛情のない夫婦関係を課し続ける人びとが大勢いるのを見ると、大変悲しく思う。結婚を一生続けるように人間に要請するのは神であると多くの人に信じ込ませたせいで、愛のない関係から生まれる苦悩と引き換えに、「天国への切符」を手にすることができると信じる人もいる。
  だが、それは違うのだ。自分の感情に従って生きることを放棄した人には、何の霊的進化もない。神が義務付けるのではなく、その人を強要するのは、当人自身 か、社会規範か、教わった宗教戒律である。婚姻非解消を要求するのは神でも高次の霊性でもなく、感情までを売買の対象物とする、エゴにどっぷりと浸かった 人間の手による法律であることをはっきりさせておかねばならない。

 *天の戒めでないのなら、婚姻非解消という概念はどこで生まれたのですか?

 人 間の利己的で物質主義的なメンタリティーは、何もかもに値をつけ、ありとあらゆるものの所有権を決め、それを自分自身の命よりも大事にして、そのために殺 したり殺されたりしてする。君たちは、すべてが売り買いできるものと決めつけている。不可能でさえなければ、息を吸う空気や太陽の光線でさえも独占し、 「これは私のだ!」と主張する野心のない者たちに、目の玉が飛び出るほどの値段で売りつけることだろう。
  それと同様に君たちは、個人や意志や感情さえも、お金で買えると思っている。結婚と呼ばれる契約書にサインすることで、ごく普通の商取引をしていると思っ ているようだ。それによって、ある者は、人の意志と感情を買い取ったと思い込み、他の者は、契約によって自分の意志や決定能力、自由と感情とを伴侶に譲る ことを義務付けられていると信じ込む。

  この利己的な錯乱の極めつけは、神が契約の証人にされてしまっている点だ。そのため、自分自身や他の人たちの幸せが踏みにじられようが、何が何でも契約を 貫かねばならないと思い込むに至った。そうでないと、銀行の借金を払い戻せないと資産を没収されるように、死後にすべての「財産」を剥奪されることになる からだ。言っておくが、これは全部、人間のエゴによってでっち上げられた大嘘である。
  神は、一人ひとりに感情や思考における完全な自由を与えてくれているので、感じることや考えることの自由のために闘うことは、いかなる天の法則にも背くこ ととならない。どんな手段や状況であろうと、自由でいる権利や、自分自身の人生や感情に関して決める権利を、君たちから奪える者などいやしない。まして、 神の名をその口実にすることなどできやしない。

*これを、婚姻の破棄に傾倒した話に受け取る人もいることでしょう。

  認めがたいかもしれないが、お互いの愛情に基づかない夫婦は、実際には夫婦として存在していないのだ。一生にわたり、署名入りの契約書を維持することがで き、世間には仲の良いイメージを作れたとしても、それは表面上の結束に過ぎない。上辺だけの世間体は取り繕えたとしても、それぞれが心の中では実情を知っ ているので、自分自身の人生の虜にされた気がして、苦々しさ、空虚感、悲しみを噛みしめ、不幸であることだろう。さらに、それを誰にも知られまいとする と、独りで苦しむこととなり、余計に耐え難いものとなる。

*人には別れたければ別れ、離婚したければ離婚する権利があって、それが神の怒りに触れることはない、と強調するのに一生懸命なようですが。

  それは、このことが多くの人にとって深い悲しみの原因となっているからで、それを変える必要があるからだ。人には誰もに幸せになる権利があり、幸福を妨げ る聖なる法律など存在していないことを知るべきである。霊界は全くその逆に、生きているすべての人が幸せになれるようにと願い、幸福への道を発見できるよ うに可能な限りの手助けをするのである。
 その道程で出現する障害を取り除く手伝いをしたいのだが、地上の法律は幸福への行く手を阻む巨大な岩のようだ。しかも、君たちはその岩が神によって置かれたものと思い込んでしまっている。もうこれ以上長く、この状態を容認しておくことはできない。

*カップルの関係を合法化するためには結婚すべきではない、ということですか?

 霊的な視点からは、二人の間の相互愛だけが真の結びつきだとされており、署名済みの結婚証書の有無には全く関係がない。
  君たちの物質界では、配偶者や一族の子孫を保護するために、たいてい契約にサインを交わす必要がある。たとえば、どちらか一方が死亡した際に遺族年金を受 け取れるためや、故人の伴侶が身内の者に家を取り上げられたりしないためであり、これは理解し得ることである。だが、これは物的に有効であるに過ぎず、そ の以上の価値を見出そうとすべきではない。
 つまり、結婚の繫がりを相手の自由を束縛する口実に利用すべきではないし、相手が別れる決意をしたら絶対に拘束したり恐喝すべきでない。霊的な観点からは、自由意志の法則に反する行為となるからだ。

*恋愛感情がないにもかかわらず、夫婦の関係を維持しようとする動機の話に戻りますが、別れた場合に物的な支えを失うことを怖れて、住まいと生計を保証してくれる生活を続けようとする人がいますが、そういうケースについてはどうですか?

 実際には物的な利便性を重視する結びつきであることを反映している。当初はそれが結婚の動機でなかったとしても、今は継続の口実となっている。このような人たちは、自分の感情の自由か、それとも安全性と安楽か、そのどちらに価値を置くのかを決める必要がある。
 そういう理由から夫婦関係を維持することを決めれば、物的には何の不自由もないだろうが、愛がない暮らしとなるので、感情面では空っぽである。関係を続けるのは、愛の感情を大事にしない物質主義の人であろう。
 だが、何にも増して幸せになることを望む人であれば、物的にはゼロからのスタートとなろうが、怖れに打ち克ち、喜んでそうするに違いない。感情における自由を回復することができるからである。

* 二人の間に子どもがいる人たちの多くが、もう一つの理由として、子どもを守るために別れないと言います。そういう人たちは、少なくとも子どもが成人するま では、我慢したいそうです。本人の幸せよりも子どもの幸福を優先し、子どもへの愛から正しい行動を取っていると思っています。カップルや夫婦が破綻すれ ば、子どもに感情的なトラウマを与えると考えて、それを回避しようとしているのですが、これは正しい判断でしょうか?

 いや、そうではない。離婚する時には、子どもと離縁するのではなくパートナーと別れるのであるから、それは誤った結論である。両親が子どもを愛しているならば、一緒にいなくても子どもを愛し続けられる。
 「子どものために我慢する」という言い訳は、個人的な幸せよりも家族の結束が優先される伝統的な宗教教育を授かった人たちの間によく見られるものだ。
  むしろその関係を長く続けると、反対に、子どもを苦しませてしまうことになる。愛し合っていない二人が一緒に住もうと無理をすると、周りまで感応して不幸 せになるので、子どもの情緒には否定的な状況となる。子どもたちは多くの場合、両親の喧嘩や口論に居合わせて、親の不快感や苦悩を感じ取る。そして、これ こそが子どもたちに感情的トラウマをもたらすのである。「あなたがいなければ離婚していた」と言う親もいるので、両親が不幸せなのは自分のせいだと感じな がら成長する子どももいる。こういうケースでは、親は自分の意気地のなさを子どものせいにしているのだ。

*でも子どもたちにしてみれば、両親が別れたら、生活が激変しますよ。両親の離婚が、大勢の子どもたちにとってトラウマだというではありませんか?

  子どもが小さい場合は、まだ充分な知識がなく教育の枠付けに縛られていないので、両親の破局自体は何の感情的トラウマともならない。自分の生活が変わって も、双方の親と会うことができ、両親も子どもに対する愛を示し続けることができるのなら、子どもはゲーム感覚で変化を捉える。
 幼い子どもを最も苦しめることは、自分が武器にされて離婚の原因となる夫婦喧嘩の渦中に投げ込まれることと、夫婦間の争いやののしり合いや脅し合いを目にしなければならないことである。したがって、それらを回避できるのであれば、離婚する場合でも、子どもたちのトラウマを避けてあげることができる。

*子どもが大きい場合はどうなるのですか? 大きい子は大半が原因をわかっていて、自分の生活が変わるのを嫌がりますが。

  離婚は多くの場合、何年も我慢した挙句に起こるものだ。自覚のあるなしにかかわらず、その間に子どもたちに伝えられてきたメッセージは、個人の幸せよりも 家族の結合が大事である、ということだ。それゆえ、子どもたちはその視点から起きている物事を解釈するようになる。両親の破綻は、それまで正しく善いと信 じてきたことと反対に見えるので、否定的に受け留める。現実を子どもたちがを受容できるためには、それまでの教育を打壊して、今度は、感情の自由と個人の 幸福が最も大切であり、何人も絶対にそれらを放棄すべきではない、とわからせてあげる必要がある。

*幼児期を通して別の規則を教えられてきた子どもが、思春期近くになって、急にそういうことを受容するのは困難だと思いますよ。しかも、当人自身の親に教わったことですから、父親や母親が理性を失ってしまったとでも考えるに違いありません。

  それは子どもがどれほど成熟しているかによる。他の子よりも理解力のある子どももいる。両親よりも現実を自覚していて、新たな一歩を踏み出すように親に助 言して、後押ししてくれる子どもたちもいる。最も進化した子どもが一番理解を示し、受け容れるのも上手い。授かった教育よりも、その状況を理解できる進化 のレベルがあるからである。
  だが、その時に受け容れ難かったとしても、将来大人になって自分も同じような状況に置かれた時に、許容することができるであろう。つまり、将来カップルの 関係を持って恋愛感情がないことに気づいた時に、その関係を続けるべきか終わらせるべきかの決断に際して、この世の何を引き換えにしようと、自らに継続を 強いるべきでないと明確に自覚できるということだ。両親の例から、自由になるのは悪いことではないと知っているからだ。幸せになれない関係を断つ際も、 もっと確信と勇気があり、罪悪感が少なかろう。
 しかし、その反対の見本であれば-両親が気持ちに反して共同生活の継続を課したならば―当人もその例を真似て、親と同じ不幸な人生を繰り返すであろう。

* これまで私たちが話してきたことをまとめると、カップルの愛は兄弟愛や親子愛よりも大切な愛であるというメッセージを伝えているような気がしますが、カッ プルの愛を兄弟愛や親子愛と分け隔てするのは、利己的ではないでしょうか? 違いを設けることは、無条件の愛の概念と矛盾していませんか?

 どういう根拠でそう言っているのかね?

*おそらく、イエスの示した手本だと思います。イエスは、カップルの愛についてだけ特別に話したことはないですから。

  情報の大元が、イエスの言葉がほとんど反映されていない教会の福音書なのだから、君にはそれはわからない。だが私が、理解力のあった身近な者たちに、イエ スが男女の愛についても語ったことを伝えよう。イエスは彼らに、完全に似通った相互の愛のみが二人を結びつける絆であり、カップルになるか別れるかはそれ ぞれが完全に自由に決めるべきである、という教えを説いた。
  この言葉は今では、普通の理性がある人にはもっともで、何も特別に聞こえない。しかし、当時の人のメンタリティーは理解に欠け、感情面の自由を尊重するこ となどゼロに等しかった。一夫多妻制は頻繁であり、大半の結びつきが愛のない取り決められた結婚で、夫婦のどちらか一方または双方が、当人の意志を考慮さ れないまま強要されて結婚していた。

*今日においては、取り決め結婚は無理強いであるとわかっている人が多く、この慣習に反対しています。

  そう考えるのは、ある程度の個人の権利と自由を守るために法整備が進んでいる西洋社会においては当たり前かもしれないが、今日においてでさえ、取り決め婚 の慣習は多くの国で一般的だ。そういう諸国では、通常「宗教的」性質を帯びた指導者や体制によって奨励され制定された法律が、「神の名の下に」年端のいか ない女児をも大人と結婚させることを容認して、女児・女性たちへの肉体的・精神的な搾取や性的な虐待を法的に庇っている。そうして、この搾取的習慣に従わ なければ、穢れた不純な人であり、神の計画に背いたと思い込ませている。それにもかかわらず、女性たちが非人間的な状況から逃れようとする時には、彼女た ちを犯罪者扱いして、拷問して残酷に殺してしまう場合さえある。
 取り決め婚は制度化された売春の一形態だと知ることだ。それは、表面的には「潔白」であるが、当人が選んでもいない人と一緒にさせて、性的な関係を持つことを強要するのであるから、自由意志、中でも感情における自由に対する重大な侵害である。

*それにしても、現在では少なくとも西洋の国々では、大多数の人びとが自由とは何かを知っていると思います。そして個人の自由は法律によって保護されて、離婚する権利が認められており、その妨害をする人たちは罰せられる筈ですが、そうではないのでしょうか?

  確かにその通りだ。そして、これは無数の犠牲や闘いを経て獲得された、大変大きな霊的進歩の象徴なのだ。残念なことに、宗教権威者たちはこの動きに抵抗す るだけで、またしても、人類の霊的な成長に寄与する代わりに、できる限り邪魔をして遅らせようとしたのである。中でも最も嘆かわしいのは、神の名がその口 実に使われたことである。宗教的な慣習やルールは社会に深く根ざすものなので、法的に禁止する力はなくても、精神的な影響を与える場合があるからだ。
 事実上取り決め婚が見られない、君たちの今の時代、現在の社会にあっても、まだ愛のない結びつきが沢山あることを知っておきなさい。しかも、愛の欠如に気づき離婚したいと思った人がいても、先ほど話したような宗教的な慣習のせいで、それがとても困難なのだ。