「義人はいない」 コリントの信徒への手紙一 11章23~34節
コリントの教会では、「仲間割れ」のまま主の晩餐が行われていました。パウロは、そのことが正しいこととは思えず、主の晩餐が制定された出来事をさかのぼり、それが「主の死を告げ知らせるため」、言い換えれば福音宣教のために行われていることについて教えました。パウロはまた、主の晩餐に際して「ふさわしくない」ままでパンと杯を飲み食いしてはならないと教えました。「ふさわしくない」とは、洗礼を受けているかどうかではありません。弱い人たち、病気の人たち、貧しく空腹でいる人たちの存在を無視し、自分のことばかり考えて主の晩餐のパンと杯を飲み食いしてはならないと言うことです。
パウロの教えによって、聖餐式に臨もうとする私たち一人ひとりは、「あなたはふさわしいのか」と問われているように思います。洗礼を受けているかどうかではなく、弱い人たち、病気の人たち、貧しく空腹でいる人たちと共に歩もうとしているかどうかが問われているように思います。それは、聖餐式が「主の死を告げ知らせるため」、言い換えれば福音を告げ知らせるためにあるというパウロの教えに合致しています。教会に来ているからとか、洗礼を受けているからと言って、自分のことを「義人」だと主張できる人は誰もいません。それぞれがパウロの教えに耳を傾け、自分でよく考え、他人ではなく自分を吟味することが大切であるように思います。