「信仰とは信頼の絆だった」 マタイによる福音書 3章7~12節
宗教とは、国家を治める力があり、そのように利用されることもあります。聖書のユダヤ教は、割礼の有無によって自分たちをユダヤ人とし、同時に自分たちの国を治める力にしていました。ユダヤ教の一分派であった初期のキリスト教もまた、外国人が洗礼を受けてキリスト者になる場合、同時に割礼を受けてユダヤ人になることを求めていました。けれども、パウロは、外国人がキリスト者になる条件に割礼は必要ないと主張し、やがてそれが認められるようになり、キリスト教はユダヤ教から独立しました。それは、キリスト教が国家の枠に囚われない宗教になったということでもあり、そんなグローバルな振る舞いがローマ帝国の覇権(世界のローマ化)の思惑と一致したのかもしれません。
キリスト教にとって洗礼は大切なものと考えられています。キリスト者であるかないか、聖餐式に参加できるかできないかの区別の基準になっています。イエスさんは、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられました。その時、どんな気持ちだったのでしょうか。ユダヤ教的な「清め」のつもりだったのでしょうか。それとも、人生で一度きりの特別な洗礼だったのでしょうか。いずれにしても、洗礼の有無などよりも神さまとの信頼の絆で結ばれているかどうかが信仰者にとってより重要なことではないかと思います。