「新しい歌を主に歌った」 第一コリント12章31b~13章3節
「異言」とは、何を言っているか意味も内容も分からないけれど、神さまを賛美する一つの方法のことです。パウロは、そんな「異言」を語る場合でも、愛がなければ、やかましいだけであると教えています。「預言」とは、神さまから預かった言葉、神さまが伝えようとしている言葉を語るということです。パウロはまた、預言を語ったり、命じるだけで山をも動かすことができるほどの信仰を持っていたとして、愛がなければ、あってもなくても同じであると教えています。パウロはまた、慈善事業や社会運動に熱心で、そのために命を投げ出したとしても、愛がなければ何の益もないと教えています。
パウロは、そんな「愛」について、忍耐強さや謙遜さを持ちつつ、自分を愛するように他者を愛するものでなければならないと教えています。「愛」というと、多くの人は、自己愛に行き着くものです。誰も、自分のことが可愛いし、自慢もしたいし、良くも見られたいと思うものです。けれども、それでは「異言」を語っても「やかましい」だけだし、「預言」すらも「あってもなくても同じ」になり、「社会奉仕」さえ「何の益もない」と教えられているのです。
浜坂教会の2016年度の宣教の標語は、「新しい歌を主に向かって歌おう」-弱さを恵として-です。私たちの語る「愛」が、自己愛ならば、やかましかったり、あってもなくても同じだったり、何の益もないものになってしまいます。私たちの語る「愛」が自己愛にならないように自分を戒め、忍耐強く謙虚な姿勢をもって、常に新しい歌を歌うような気持ちでイエスさまが教えられた「愛」を宣べ伝えることができるような年度でありたいと思います。