「心の目が開かれた」 ルカによる福音書 24章36~49節
弟子たちは、イエスさまが十字架で死んだと思い、平常心を失い、怖れに取り憑かれて狼狽し、弱い姿をさらけ出していました。そこに復活されたイエスさまが現れ、弟子たちの真ん中に立ち、「平和があるように」と言われました。弟子たちは、怖れおののき、亡霊を見ているのだと思いました。イエスさまが十字架で傷ついた手と足を示されても、それでもなお弟子たちは、喜びつつも信じられない、半信半疑の様子でした。そこで、イエスさまは、「何か食べ物はないか」と言われ、焼いた魚が差し出されると、それを食べて見せました。
弱さの極みにある弟子たちにとって、立派な教えを聞かされるよりも、ただ自分たちに寄り添い、慰めの言葉をかけられることが何より必要でした。イエスさまが弟子たちの真ん中に立たれたのは、確かに弟子たちと共におられるということを示し、「平和があるように」という言葉も、何も難しいことを言おうとしたのではなくて、単純な挨拶を交わしただけなのかもしれません。弱さの極みにあった弟子たちには、それが一番必要であり、それで十分でした。
イエスさまが焼いた魚を食べられたことによって、弟子たちはイエスさまが生きておられることを受け止めることができました。食べるとは、いのちをいただく「生の日常」のことです。魚を捕る漁師の苦労、魚を調理する人の愛情、それをいただく感謝の思い、そのことを通して、私たちは生きていることを実感できるのではないでしょうか。心の目が開かれるというのは、イエスさまが私たちと共にいてくださることを理解するということですが、それは私たちが「生の日常」にあることが大切なのではないかと思います。