「見つめ合い、つながっていた」 マタイ福音書28章1~10節
相手の目を見て話す理由は、より分かり合うためではないでしょうか。傍観するのではなく、互いが見つめ合うことで、気持ちが通じ合えることもあるように思います。マタイによる福音書には、イエスさまが息を引き取られたとき、地震が起こり、墓が開いて死者が復活し、聖なる都に入ったことが伝えられています。これは、幻か現実かと思ったりもします。マタイによる福音書は、イエスさまの十字架を旧約聖書が伝えていた預言の成就、すなわち救いの実現であると伝えています。そうすると、イエスさまの十字架を見ていた人たちは、同時に旧約聖書が預言した救いの実現を目の当たりにしていたということを伝えているのかもしれません。
ガリラヤからずっとイエスさまに従ってきた女性たちは、イエスさまの十字架を見つめ続けていました。女性たちは、早朝にもイエスさまを納めた墓を見に行きました。「見る」ということは、彼女たちがイエスさまとつながり続けていることを連想させられます。彼女たちは、イエスさまを見続けることができなかった男の弟子たちに、「ガリラヤでお目にかかれる」という言葉を伝えるという役割を担いました。また、マタイによる福音書は、イエスさまの十字架と復活によって救いが実現したのだから、もはや地上のエルサレムだとか、12弟子の権威だとか、そんなことを重要視していないように思います。むしろ、イエスさまと以心伝心していることの方が、ヒエラルキーなんかよりもずっと重要であり、世界中すべての人が、誰であっても同じように弟子になれるという大切な教えを伝えているように思います。