「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

老いの寒さは唇に乗するな Long Good-bye 2023・10・14

2023-10-14 06:39:00 | Weblog

 

  今日の「  お気に入り 」。

  冬茜 褪せて澄みゆく 水浅黄

   老いの寒さは 唇 ( くち ) に乗するな

              ( 斎藤史 )

  ( ´_ゝ`)

 歌人 斎藤 史 さんは 筆者の母と同じ 、明治42年 ( 1909 年 ) のお生まれ 。

 

 ( ついでながらの

   筆者註:「 斎藤 史( 齋藤史 、さいとう ふみ 、1909年(明治42年)
       2月14日 - 2002年(平成14年)4月26日 )は 、日本
       の歌人 。東京市四谷区生まれ 。福岡県立小倉高等女学
       校( 現・福岡県立小倉西高等学校 )卒業 。

        歌人の父の影響で早くから作歌を始め 、佐佐木信綱に師事 。
       モダニズム短歌から出発し 、内省を深めることで独自の歌風を
       構築した 。歌集に 『 魚歌 』 ( 1940年 ) 、『 ひたくれなゐ 』
       ( 1976年 ) などがある 。

       経 歴
        父 齋藤瀏は陸軍少将で 、佐佐木信綱主宰の歌誌 『 心の
       花 』 所属の歌人でもあった 。父は 『 史子 』 と出生届を提出
       したが 、戸籍係が間違えて 『 史 』 と登録してしまった 。
       17歳の時 、若山牧水に勧められて作歌をはじめ 、18歳から
       『 心の花 』 に作品を発表するようになる 。1931年 、前川佐
       美雄らと 『 短歌作品 』 創刊 。1936年の 二・二六事件 では 、
       父を通じて親交があった青年将校の多くが刑死し 、父も事件に
       連座して 禁固5年 となる 。この経験がきっかけで 、それまでの
       想像の世界を飛び回るような独創的な短歌から 、時代を鋭く
       見つめる歌を詠むようになる 。

        1939年 、父・瀏 が主宰する歌誌 『 短歌人 』 創刊に参加
       する 。1940年 、合同歌集 『 新風十人 』( 八雲書林 )に
       参加 。同年 、第一歌集 『 魚歌 』 を発表 。モダニズム文学
       の影響が濃い作風で 、萩原朔太郎に激賞される 。

        1945年 、父の故郷である 長野県安曇野 に疎開 、同年
       復刊した 『 文藝春秋 』誌( 10月号 )の歌覧に掲載された 。
       以後 、同地を拠点に活動する 。1948年 、小説 『 過ぎて行
       く歌 』 により 信濃毎日新聞社一席入選 。1953年 、『 短歌
       人 』 編集委員制度導入に伴い 初代編集委員 となる 。同年 、
       『 うたのゆくへ 』 により 日本歌人クラブ第1回推薦集( 現在の
       日本歌人クラブ賞 )に推挙 。1960年 、長野県文化功労賞
       を受賞 。

        1962年 、『 短歌人 』 を退会し 、歌誌 『 原型 』 を創刊 。
       同誌には 赤座憲久 、轟太市 、百々登美子など 史の選歌を
       受けた歌人が移籍した 。1977年 、 『 ひたくれなゐ 』 により第
       11回迢空賞を受賞 。1981年、勲五等宝冠章受章。1986年、
       『 渉りかゆかむ 』 により 第37回 読売文学賞( 詩歌俳句賞 )
       を受賞 。1993年 、女性歌人としては初めて 日本芸術院会員
       となる 。1994年 、『 秋天瑠璃 』 により 第5回斎藤茂吉短歌
       文学賞 、第9回詩歌文学館賞 を受賞 。1995年 、第2回信
       毎賞 を受賞 。1997年 、宮中歌会始の召人を務め 、 明仁
       天皇に 『 お父上は瀏さん 、でしたね 』 とお言葉をかけられる 。
       同年10月 『 斎藤史全歌集 』 により 、第20回現代短歌大賞
       を受賞 。同年11月 勲三等瑞宝章 を受章 。1998年 、『 斎藤
       史全歌集 』 にて 紫式部文学賞 を受賞 。

        2002年 、4月26日死去 。墓所は 長野県松本市の正鱗寺 。
       晩年の弟子には目黒哲朗などがいる 。また 晩年の江藤淳と
       交流があった 。

       逸 話
        青年将校 栗原安秀・坂井直両中尉とは 、旭川時代からの
       幼馴染であり 、栗原の事は 『 クリコ 』 と呼んでいた 。また 栗
       原は彼女を 『 フミ公 』 と呼び 、改まった席では 『 史子さん 』 
       と呼んでいた 。
        明治生まれの女性としては珍しく和服をほとんど着なかった 。

       ( 中 略 )

       代表歌

       遠い春 湖 ( うみ )に沈みし みづからに 
           祭りの笛を吹いて逢ひにゆく ( 『 魚歌 』 )


       白きうさぎ 雪の山より 出でて来て 
           殺されたれば 眼を開き居り ( 『 うたのゆくへ 』 )


       おいとまを いただきますと 戸をしめて 
           出てゆくやうに ゆかぬなり生は ( 『 ひたくれなゐ 』)

       疲労つもりて 引出しし ヘルペスなりといふ 
           八十年生きれば そりやぁあなた ( 『 秋天瑠璃 』 )

       思ひやる 汨羅の 淵は遠けれど 
           それを歌ひし 人々ありき ( 『 風翩翻以後 』 )

       野の中に すがたゆたけき 一樹あり 
           風も月日も 枝に抱きて ( 平成九年 歌会始 )

       暴力の かくうつくしき 世に住みて 
           ひねもすうたふ わが子守うた ( 『 魚歌 』 、昭和11年 )

        以上ウィキ情報 。)

 

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