「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

SHIPPING MAGNATE 海運王 Long Good-bye 2023・07・10

2023-07-10 05:30:00 | Weblog

 

   今日の「 お気に入り 」は 、インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」

  掲載の記事から 抜き書き  。エーゲ海に浮かぶギリシャのお船の写真を見ていて連想

  しました 。海運王は 、英語で Shipping Magnate と言うらしい 。 

   引用はじめ 。

  「 アリストテレス・ソクラテス・オナシス( Αριστοτέλης Ωνάσης 、Aristotle

   Socrates Onassis 、1906年1月15日 - 1975年3月15日 )は 、ギリシャの実業家 、

   ミリオネア 。『 20世紀最大の海運王 』と言われた 。 

   生 涯 
   生い立ち
    オスマン帝国時代の スミルナ( 現トルコ領 イズミル )で 、中流階級のギリシャ

   人家庭に生まれた 。スミルナ一帯は 第一次世界大戦における連合国の勝利の後 、

   希土戦争中の1919年に ギリシャによって占領されたが 、1922年にケマル・アタ

   テュルク率いるトルコ軍によって奪還された 。

    紛争の中でオナシス家は全ての財産を失い 、ギリシャへ難民として移住 。1923

   年にはギリシャを離れ 、最初にウルグアイ 、モンテビデオ へ行き 、後 アルゼン

   チンに渡り 、1925年にアルゼンチンとギリシャの市民権を取得した

   海運王
    最初にモンテビデオの旧市街地に居を構え 、葉巻タバコの商売を始める 。その

   由縁あって 、市内にあるエレニカ・ギリシャ正教会は 、彼の全面的な寄付によ

   って建設された 。後 、アルゼンチンにおいて同様の葉巻の輸出などの貿易業を

   始める 。さらには 第二次世界大戦最中の フアン・ペロン政権下において 、食

   肉のヨーロッパへの輸出なども手掛け 大きな成功をおさめた 。

    その後ギリシアにもどったオナシスは 、第二次世界大戦後に余剰化した連合国

   軍の船舶を安値で購入し 海運業をはじめ 、さらに ギリシアの海運王の スタブロ

   ス・リバノス の娘の アシーナ・リバノス と結婚した 。これにより 規模を拡大

   した海運業は 、戦後復興を進めるギリシアとヨーロッパ諸国においてまたたく

   まに成功し 、1957年には ギリシャのフラッグ・キャリアである オリンピック

   航空を設立するなどさらに事業領域を拡大し 、間もなく オナシスは『 海運王 』

   と称されるようになった 。

   女性遍歴
    オナシスは1946年に海運王のスタブロス・リバノスの娘のアシーナと結婚し 、

   2人の子供であるアレクサンダーとクリスティナは両方ともニューヨークで生ま

   れた 。

    1957年にヴェネツィアで開かれたエルザ・マックスウェルのパーティーで オ

   ペラ歌手 マリア・カラス と知り合い 、1960年にアシーナと離婚した 。アシ

   ーナは後に 、ブランドフォード侯爵ジョン・ジョージ・ヴァンダービルト・

   スペンサー=チャーチル( 後の第11代マールバラ公 )や彼女の姉ユージニア

   ( Eugenia )の寡夫であった スタブロス・ニアルコス と再婚した 。

    カラスとは 9年ほど関係していたが 結婚はせず 、1968年には 、1963年11月

   に暗殺されたアメリカ大統領のジョン・F・ケネディの未亡人である ジャクリ

   ーン・ケネディ と結婚し 、世界的に話題を呼んだ 。しかし ジャクリーンとの

   結婚は『 恋愛によるものではなかった 』と言われ 、事実 夫妻は滅多に時を共

   に過ごさなかった 。オナシスは ジャクリーンの子供の キャロライン や ケネデ

   ィ・ジュニア とは良い関係を持ったが 、ジャクリーンは オナシスの娘 クリス

   ティナ と良い関係を持てなかった 。ジャクリーンは その多くの時間を旅行と

   買い物に費やし 、オナシスとは 別々に ゴシップ誌の紙面を飾った 。

   死 去
    この様な関係の中 、オナシスは ジャクリーンとの離婚申請を考えたが 、19

   75年にフランスのヌイイ=シュル=セーヌで 、重症筋無力症の合併病である

   気管支肺炎によって死んだ 。オナシスの莫大な遺産は 、彼の遺書に基づいて

   娘のクリスティナが55% 、アレクサンダー・S・オナシス財団が45%( これ

   は 1973年に飛行機事故で死去した彼の息子アレクサンダーが相続するはず

   だった分の財産である )の遺産を得た 。また 、妻ジャクリーンは 義弟エド

   ワード・ケネディによる交渉の結果 、1,000万ドルといわれる( 2,600万ド

   ルであったとする説もある )オナシスの財産を手にした 。

    ジャクリーンの遺産相続した財産は 彼女の愛人 モーリス・テンペルスマン

   (英語版)の手によって 数億ドルに利殖された 。また 、クリスティナの

   相続した財産は 彼女の一人娘 アシーナ・オナシス・デ・ミランダ に相続

   された 。

   同性愛
    2007年に 、映画監督のフランコ・ゼフィレッリは生前のオナシスに言い

   寄られたことがあることを明かし 、彼を両性愛者であるとした 。また 、

   ピーター・エヴァンズは 、オナシスがスミルナにいた頃に トルコの陸軍

   中尉と性的な関係にあったとしている 。 」

 

  「 ジャクリーン・リー・ブーヴィエ・ケネディ・オナシス( Jacqueline

   Lee Bouvier Kennedy Onassis 、1929年7月28日 - 1994年5月19日 )は 、

   第35代アメリカ合衆国大統領 ジョン・F・ケネディ の夫人 。1961年から

   1963年まで アメリカのファーストレディ であった 。身長 5フィート8イ

   ンチ( 約173cm )。

   概 要
    1961年1月20日に アメリカ大統領に就任した ジョン・F・ケネディ は

   43歳であり 、ジャクリーン も 31歳で ファーストレディ となった 。

    しかし 、わずか 2年10カ月で 夫が暗殺されて 彼女はホワイトハウス

   を去った 。そして 5年後の1968年秋に ギリシャの大富豪 アリストテ

   レス・オナシス と再婚し 世界を驚かせた 。オナシスとの死別後 、

   ジャクリーン は ニューヨークに移って 編集者としての人生を歩んだ 。

    彼女は 単なる大統領夫人という枠を超えて 、1960年代から1980年代

   にかけて ファッションアイコン として 世界の女性の憧れとなった 。

    特にケネディ大統領が撃たれた時に 彼女が着ていた ピンクの シャネ

   ル のスーツ に ピルボックス帽 の組み合わせは 時代を象徴するファッ

   ションとして 人々の記憶に残っている 。1994年に死去し 、元の大統

   領夫人として アーリントン国立墓地 の ジョン・F・ケネディ の墓の

   横に埋葬された 。

  引用おわり 。

   特に 感想ありません 。「 海運王 」の娘と結婚して「 20世紀最大の海運

  王 」となった アリストテレス・ソクラテス・オナシスさんは 69歳で 、

  ジャクリーン・リー・ブーヴィエ・ケネディ・オナシスさんは 64歳で 、

  形ばかりの ご夫婦 、共に 60代で 他界されています

 

 

 ( ついでながらの  筆者註 :

    オナシス家が全財産を失って 、トルコのイズミルからギリシャへ難民として

   移住するきっかけとなったのは 、第一次世界大戦後の希土戦争 。

   「 希土戦争( きとせんそう )は 、現在のギリシャとトルコ( もしくは

    それらの前身に当たる国家 )の間の戦争 。

     ・ オスマン・東ローマ戦争 - 13世紀から15世紀にかけての戦争 。
           最終的にはオスマン帝国が東ローマ帝国を滅ぼした(1453年)。


     ・ ギリシャ独立戦争 - 1821年に起きた独立を目指すギリシャ第一共和国と

           オスマン帝国との戦争 。ギリシャが勝利した 。


     ・ 希土戦争 ( 1897年 ) - クレタ島をめぐる ギリシャ王国 と オスマン帝国

           との戦争 。オスマン帝国が勝利した 。


     ・ 第一次バルカン戦争 - 1912年に起きたギリシャを含むバルカン同盟と

           オスマン帝国との戦争 。ギリシャが勝利した 。

     ・ 希土戦争 (1919年-1922年) - 第一次世界大戦後に起きた ギリシャ王国と

            トルコ との戦争 。トルコ(アンカラ政府)が勝利した 。

   希土戦争( きとせんそう 、1919年 - 1922年 )は 、第一次世界大戦後に

    ギリシャ王国 と トルコ の間に生じた戦争である 。大ギリシャ主義を標榜

    して小アジア( アナトリア半島 )に侵攻したギリシャ軍は 、ムスタファ・

    ケマル・パシャ 率いる トルコ軍に敗北し 、セーヴル条約 で得た領土を失い 、

    現在のギリシャ領がほぼ確定した

     トルコでは アンカラ政府の影響力が決定的となり 、1922年のスルタン制

    廃止 、1923年のトルコ共和国建国 につながった 。

    背 景
     第一次世界大戦において同盟国側に立ち参戦した オスマン帝国 は 、

    1918年10月に ムドロス休戦協定を結び 、連合国に降伏した 。帝都

    イスタンブールを始めとするオスマン帝国領には連合国が進駐し 、

     イギリスはイラクのモースル 、南東アナトリア 、西アナトリア 、

    黒海の沿岸都市を 、また フランスは キリキア地域を 、イタリ

    王国は アナトリア半島南西部の アンタルヤ と コンヤ を占領した」 

    以上ウィキ情報 。

     100年前の 「帝国主義 」 の時代も 、「 新帝国主義  」の現代も 各地で

    領土の奪い合い 。

 

 

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