今日の「お気に入り」は 、インターネットのフリー百科事典「 ウィキペディア 」に
掲載されている 、日本の新聞記者、実業家である 渡邉恒雄( わたなべ つねお 、
1926年〈 大正15年 〉5月30日 - )さんの経歴記事のうち 、その「 生い立ち〜学生時代 」
と「 政治記者時代 」 。
難しい「 邉 」の字を書く渡邉さんの生年月日は 、1926年〈 大正15年 〉5月30日 。 0歳
昭和の御代の生き証人 。 ( 昭和が平成に代わった1989年 、渡邉さん60ン歳 。)
終戦の年 、昭和20年には 、御年 数えで20歳 。その年の4月から半年ほど、
「 学徒出陣 」、近衛師団の「 陸軍二等兵 」として軍隊生活を経験されたよう 。
短期間ではありますが 、新兵として 、入営されたのであれば、ビンタされることも
そりゃあったでしょうね 、軍隊なら 、横並びのビンタは日常茶飯事 、かと ・・・「 殴られ損 」。
「 ポツダム進級 」はあったのか、なかったのか 、・・・ 。
戦後 、最左翼から最右翼まで幅広く経験を積まれたよう 、
・・・ 若気の至り 。
「ナベツネ」の通称で知られ 、株式会社読売新聞グループ本社代表取締役主筆。
勲等は旭日大綬章。株式会社読売新聞社社長、球団オーナー、株式会社読売ジャイアンツ
取締役最高顧問、社団法人日本新聞協会会長などなど 、数多く歴任された方だそう。
「 日本プロ野球界に関連する彼の伝説は数知れず 、自ら『 俺は最後の独裁者だ 』と語った
とされ 、マスメディアにおいて『 球界の独裁者 』または単に『 独裁者 』と呼ばれているこ
とについては、渡邉自身が認めている 。他に『 メディア界のドン 』『 政界フィクサー 』と
も呼ばれる」方だとか 。
引用はじめ 。
「 生い立ち
東京府豊多摩郡( 後の東京都杉並区 )出身 。父の名は平吉 、母の名は花 。
五人姉弟の三番目で長男である 。
1934年( 昭和9年 )、恒雄が8歳の時 、不動貯金銀行( 旧協和銀行の前身 、
現:りそな銀行 )に勤めていた父・平吉が東京・杉並区の自宅玄関で突然
吐血 、胃癌で1週間後に死去した 。当時47歳 。父が残した十一軒の貸家
からの家賃収入で当面の生活費には困らなかったが 、稼ぎ手をなくした一
家には将来の生活の不安が重くのしかかった 。母親の花は 、夫を失った
打撃からなかなか立ち直れなかった 。
戦前の家父長下では恒雄が全財産を相続し 、一家の柱として責任を負わね
ばならなかった 。母・花はいつもこう言って恒雄を叱咤したという 。
『 お前は総領だ 。総領というのは跡継ぎだ 。だからお前は勉強して偉く
ならないかん 。成績も全甲( 全学科の成績が優秀であること )でないと 、
援助してくれている目黒の伯父さん に報告できない 。』
学生時代
第一志望の府立高校尋常科( 現:都立桜修館中等教育学校 )、第二志望の
武蔵高校尋常科( 現:私立武蔵高 )、第三志望の府立一中( 現在の都立
日比谷高 )と 、続け様に受験に失敗し 、ようやく第四志望の開成中( 現:
開成高 )にビリに近い成績ですべり込んだ 。同い年のいとこが府立一中に
合格したこともあって母・花は『 あんなボロ中学に入って情けない 』と
親類の前でオイオイ泣いたという 。
1939年(昭和14年)4月、開成中学校に入学。同中学3年生の時 、哲学の 12歳
道を志し 、日々哲学書ばかり読むようになる 。また反軍少年であり 、旧
制高校の記念祭では上級生らと夕闇の中蜂起して 、軍国主義を吹聴する校
長をはじめ教職員を襲撃して殴っている 。勤労動員された航空機の工場で
は 、密かに不良品を作り 、抵抗した 。
1943年( 昭和18年 )4月 、開成4年修了で旧制東京高等学校( 現:東京 17歳
大学教養学部および東京大学教育学部附属中等教育学校高等部 )に入学 。
網野善彦 、氏家齊一郎が尋常科四年に進級した1943年(昭和18年)4月、
一学年上の高等科に入ってきた 。氏家によると 、渡邉との出会いは6
月頃 、東高の校庭であった 。以来 、2人は共に軽演劇場や純喫茶に繰り
出す仲になった 。
1945年( 昭和20年 )4月 、東京帝国大学文学部哲学科に入学 。大東亜 18歳
戦争で徴兵され 、近衛師団に配属 。渡邊の回顧録によれば陸軍二等兵と
しての軍隊生活で上官から暴行を受けたという。
前述の学徒出陣時代に受けた暴行などから天皇制ファシズムに嫌悪して
いた 。そこで、東京大学在学中の1945年12月 、反天皇制を掲げていた 19歳
日本共産党に入党を申し込む 。日本青年共産同盟の同盟員としてビラ
貼りや演説会の勧誘など下積み活動を経験して 、1947年頃 、正式な党 21歳ころ
員として認められる 。東大細胞( 共産党が地域・職場・学園などに設
けた末端組織の旧称 、現在の「 支部 」)に所属し 、他大学でも演説を
行い党員を増やした 。1947年9月 、カスリーン台風の被害に対する共産
党の考えをきっかけに党の思想に疑問を抱き 、反マルクス主義の東大新
人会運動の展開を開始 。1947年12月に自ら離党届を提出し党から除名 21歳ころころ
処分を受け 、東大細胞も解散となった 。離党後の彼を 、しんぶん赤旗
は「 戦後の一時期に入党した渡辺氏は 、青春を燃やした日々が懐かしい
のか 、いまでも日本共産党に入っていたことをよく口にしている 」と評
している 。氏家とともに母校である東京高等学校へオルグに行った際に 、
インターハイを目指す後輩の野球部員達に対して「 野球なんてくだらない
ものをする時ではない ! 」と共産党への入党を勧めた 。
1950年( 昭和25年 )3月 、東京大学新聞研究所( 現:情報学環 )を修了 。」 23歳
「 読売新聞社での歩み
政治記者時代
読売新聞社に次席で入社( その年の首席は 、後に作家となる三好徹 )。 23歳ころ?
また 、東京新聞の採用試験にも合格している 。『 朝日新聞社に入社した
かったが採用試験で不採用になった 』と週刊朝日のインタビューで答えて
いる 。『 中央公論 』の入社試験も不合格となっており『 頭が良すぎて採
用されなかった 』とは本人談である 。なお 、中央公論に関しては渡邉が
読売新聞社長時代に買収している 。
『 週刊読売 』( 後の『 読売ウイークリー 』)記者を経て 、政治部記者
となる 。『 週刊読売 』の記者時代 、鳩山一郎が脳出血で倒れたときに 、
鳩山邸( 現:鳩山会館 )で張り込みをしていた 。
慌ただしい気配がしたため 、渡邉が屋敷の中を覗いたところ 、大きな犬
を連れた秘書の石橋義夫に渡邉は追い出された 。その後 、屋敷を出てき
た大野伴睦に『 誰が倒れたのですか 』と質問したが無視され 、次に現れ
た政治評論家の岩淵辰雄にも『( 自分は )鳩山家の者ではない 』と言わ
れ 、鳩山が倒れた確証を得られなかった 。結局 、デスクから『 死んだの
でないのなら放っておけばいい 。そろそろ帰ってこい 』と指示されたと
言う 。
警視庁出身の社長正力松太郎の眼鏡にかなって 、自民党党人派の大物 、
大野伴睦の番記者になった 。以後保守政界と強い繋がりを持つようにな
り 、大野の事務所を行き交う札束攻勢を目の当たりにする 。
渡邉に対する大野の信頼は篤く 、渡邉は大野の依頼を受けて自民党総裁
や衆議院議長ポスト獲得交渉の代行 、自民党政治家のゴーストライター
として 、週刊誌の論説の執筆まで引き受ける 。児玉誉士夫と懇意になり 、
児玉の指令のもとに九頭竜ダム建設の補償問題や日韓国交正常化交渉の
場でも暗躍したとされている 。
また鳩山一郎の次の自民党総裁 、総理大臣を狙っていた正力松太郎が 、
中曽根康弘を参謀格に自分の派閥を結成して総裁選出馬準備を進めてい
た際 、正力から中曽根との連絡役を命じられて付き合いが始まり 、大野
の死後は中曽根と親密になった 。
中曽根とは1957年( 昭和32年 )の自民党総裁選の最中に出会った 。 31歳ころ?
渡邉は 、初入閣を望む中曽根と副総裁の大野伴睦との仲を取り持った。
大野は造船疑獄の際に 、自らを追及した中曽根を快く思っていなかった
が 、渡邉の執り成しによって態度を変え 、入閣を確約した 。1982年
( 昭和57年 )の自民党総裁選の時には 、渡邉は中曽根擁立のため 、
田中角栄の秘書早坂茂三に引き合わせ働きかけた 。早坂と 、中曽根の
秘書の小林克己は渡邉と同じ元日本共産党員だった 。1966年( 昭和41年 )
の大手町にある国有地払い下げ問題でも 、大きな役割を果たしている 。
なお 、政治記者としてよりは 、若いころからジャーナリストとして
多くの著作で知られる存在だったが 、魚住昭は『 戦後に現れた組織
ジャーナリストの中でも 、彼はテクニックにおいては最高の人でし
ょう 』と評している 。 」
ウィキペディアのよいしょ記事の引用はここまで 。
ウィキペディアにはこんな記事もあります 。
「 大東亜戦争(だいとうあせんそう)は 、1941年(昭和16年)12月から
1945年(昭和20年)8月にかけて 、大日本帝国と中華民国・イギリス・
アメリカ合衆国・ソビエト社会主義共和国連邦などの連合国との間
で戦われた戦争である太平洋戦争に対する当時の日本側による呼称 。
開戦直後の1941年(昭和16)12月12日当時の東條内閣が『 今次の対
米英戦は、支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す 』としたことから
生まれた 。
『 大東亜戦争 』の目的は第2次近衛内閣以降日本が掲げた『 大東亜
共栄圏 』建設にあるとされた 。
しかし実際は ,東アジアにおける日本の軍事的 ,政治的 ,経済的
支配の正当化を試みたものにほかならなかったといえる 。
" 太平洋戦争 "という呼称がアメリカ側からみた呼称であるのに対し 、
東アジアを主戦場とする日本の戦争目的により合致してはいるが 、
この戦争を『 大東亜 』解放の『 聖戦 』であるとした当時の日本側の
プロパガンダに基づいているため 、戦後はあまり使用されない 。
一方で右派を中心に『 大東亜戦争 』という呼称を意図的に用いる
こともあり 、呼称とその是非については議論がなされている 。」