今日の「お気に入り」は、杉田成道さん(1943-)の小説「願わくは、鳩のごとくに」から。
「第十四方面軍司令官、山下奉文大将が戦犯としてフィリピン・マニラで絞首刑とされた昭和二十一年二月二十三日早暁、
死の四十分前にクリスチャンの兵士と元住職の二人の教誨(きょうかい)師に遺(のこ)した最後の言葉がある。
『なにか御遺言はございませんか。』と、尋ねると、
『いまとなってはなにもない。』と、答えたが、しばらくして口述筆記を頼んだという。
山下という人がどういう人であったか、僕は知らない。犯した罪も知らない。
ただ、死と対峙するとき、人は神の手の中にあると実感するだけである。以下に、長いが要旨のみ記す。
『私の不注意と天性が暗愚であった為、全軍の指揮統率を誤り、なにものにも代え難いご子息、あるいは夢にも忘れ得ぬ御夫君を
多数殺しましたことは、まことに申し訳ない次第であります。激しい苦悩のため、こころ転倒せる私には衷心よりお詫び申し上げる
言葉を見いだし得ないのであります。』
こののち、国敗れて山河のみになった日本を、二度と武力を用いることなく、スウェーデンのような文化国家に再興すること
を念じ、
『もう四十分しかありません。この四十分が如何に貴重なものであるか、死刑囚以外には恐らくこの気持ちのわかる人は
ないでしょう。(中略)
聞いていただきたい……』
そして、倫理観の欠如が世界に信を失った根本原因であったとし、道徳的判断力を養成し、自己の責任において義務を
履行(りこう)する国民になって欲しいと切望する。
次に、科学教育の振興を説き、原爆を防ぐには原爆を使わないという意志を持った国家を創造する以外にないと言う。
人の最後の言葉というものは胸を打つものが多いが、この人の凄みはここからである。
自(みずか)らの命令によって散っていった幾多の生命への責任を根底に据えて、最後に女性に語りかける。
祖国日本の再生を――次世代への想いを――。
『平和の原動力は婦人の心の中にあります。皆さん、皆さんが新たに獲得されました自由を有効適切に発揮してください。
自由は誰からも犯され、奪われるものではありません。皆さんがそれを捨てようとするときのみ、消滅するものであります。』
『皆さんは、既に母であり、又は母となるべき方々であります。母としての責任の中に、次代の人間教育という重大な本務の存する
ことを、切実に認識して頂きたいのであります。(中略)
愛児をしっかりと抱きしめ乳房を哺(ふく)ませたとき、何者も味わうことの出来ない感情は、母親のみの味わいうる特権であります。
愛児の生命の泉として、母親はすべての愛情を惜しみなく与えなければなりません。単なる乳房はほかの女でも与えられようし、
また動物でも与えられようし、代用品を以てしても代えられます。しかし、母の愛に代わるものはないのであります。
母は子供の生命を保持することを考えるだけでは十分ではないのであります。
大人となったとき、自己の生命を保持し、あらゆる環境に耐え忍び、平和を好み、協調を愛し、人類に寄与する強い意志を持った
人間に育成しなければならないのであります。
皆さんが子供に乳房を哺(ふく)ませたときの幸福の恍惚感を、単なる動物的感情に止めることなく、さらに知的な高貴な感情
にまで高めなければなりません。(中略)
どうか、このわかりきった単純にして平凡な言葉を、皆さんの心の中に留めてくださいますよう。
――これが、皆さんの子供を奪った――私の、最後の言葉であります。』
これは、演説ではない。訥々(とつとつ)と語ったか、あるいは静かに呟いたか。たぶん、早暁の壁に向かって、
遥かな祖国を想像し、己の非と、幾十万の兵の死と、にもかかわらず人々に託する希望を――ひとり、なにもない空間に
語った言葉であろう。
どんな死であろうと、すべての人間の死は、尊厳に値する。」
(杉田成道著「願わくは、鳩のごとくに」扶桑社刊 所収)