Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

音のする時代

2007-07-16 10:03:46 | 農村環境
 中日新聞の7/11朝刊地方版に「正午のチャイム賛否両論」という見出しが見えた。飯田市では正午にミュージックチャイムなるものを流している。防災無線といわれるスピーカーが市内全域に聞こえるように設置されていて、そこから鳴り響くわけで、正午だけではなく、午後6時にも鳴るという。「エーデルワイス」とか「ふるさと」、夕方には「家路」とか「夕焼け小焼け」を流すのだという。実は長野県内にはあちこちにこの防災無線があるから飯田市に限ったことではなく、ほかの町村でも同じように曲が流れているところは多いだろう。

 正午の放送というと、防災無線が設置される前から田舎には鳴り響いていた。記憶に残るのはサイレンである。正午たったか11時半であったか正確には覚えていないが、そのころにお昼を告げるサイレンがあった。空襲警報のようなサイレンであったが、この音で昼であることを認識していたわけだ。飯田市では、曲を変えたことでその放送そのものが議論されているようで、「曲がなじまない」とか、「うるさい」なんていう苦情もあるという。世の中サラリーマンがほとんどになって、昔のように野に出て働いている人は少なくなったから、その時報がどれだけ意味があるかと問えば、疑問があがっても仕方のない時代にはなった。騒音が常にあるこの世の中であるから、時報を知らせる放送がどれだけ多くの人々の耳に入り、また認識されているかは解らないが、けっこうその放送は、記憶として残っているものだ。車も通らなかった静寂そのものだった時代には、物音しない空間があった。

 松本市御射山で聞いた話である。大正6年生まれの男性は、朝の到来は鳥が教えてくれたといい、木が水を吸い上げる音も聞こえたと言い、自然界の音が一日を通してあったわけだ。それほど静寂だったから自らの血が流れる音が聞こえたともいう。ちょっとわたしには解らない世界の話である。爆音というと空からやってくるものと認識していた。それは飛行機の音だったのだろう。ある日その爆音がしたので空を見上げていたが、なかなか飛行機の姿が見えない。そのうちにその音は下の方からやってくることに気がついた。自動車の爆音だったわけだ。初めて見た車だったのだ。今やその爆音はひっきりなしに聞こえているという。もちろんこの男性はその変化を語ることができるわけだが、現代に生を受けた人々には、なかなか理解できない空間がそこにはあったわけだ。

 「うるさい」なんていう苦情のはなしを聞くにつけ、その「うるさい」がどれほどの騒音なのか判断は難しい。日常的に音が発せられているこの時代、今の「うるさい」は耳に入ってくるその音の内容に対しての個人的な好みの問題にもなっている。多様といえば多様なのだが、一定な判断ができない時代であることを感じるわけだ。
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台風4号通過

2007-07-15 11:57:57 | 自然から学ぶ


 台風4号がやってきて、ずいぶんと雨を降らしている。「土砂災害が最も起きやすい状態」なんていう報道が流れるが、こうした言い回しをするようになったのはここ最近年のことで、台風なり○○前線が活発化なんていう状態になると、毎回聞いていて耳になじんでしまっている。とくに「ここ○○年の間で…」と断りを入れられて聞いていると、そんなに危険な状態がいつもいつも更新されているように聞こえてしまうが、果たしてこうした報道の仕方とは正しいのだろうか、と疑問も湧いてきてしまう。豪雨による災害を被ると、ただでさえ忙しい仕事がますます忙しくなる。それが会社のためになればよいが、会社にとっては自ら首を絞めるような状態を招くようなことも今までにも何度もあった。会社だけではない。社員も同様である。

 さて、今回の雨は昨日から降り始めたというわけではなく、もう少し前から降っていたからこのあたりの積算雨量は表記のグラフでは物足らないかもしれない。しかし、昨日から今日までがもっともまとまった降りかたをしていたから、おおよその雰囲気はわかる。グラフのデータは、YAHOOの天気欄からアメダスのデータをまとめたものである。伊那谷を中心に周辺と長野県の主要地域のデータを並べた。昨年の梅雨前線豪雨災害が記憶に新しいが、その際にもこの地から離れていたため同様にデータをまとめながらその様子をうかがっていたものだが、その際のデータは異動の際に捨ててきてしまった。きっと並べて見るとまたいろいろ解ったとは思うのだが、とりあえずこのデータを見てみよう。

 長野県内では愛知静岡県境の地域で雨量が多い。比較的雨が多く降る際には必ずこうした県境域の雨量は多めになるから不思議なことではないが、実は昨年の梅雨前線豪雨の際には、この県境地域の雨量は少なかった。いっぽう昨年大きな被害ほ出した伊那谷から諏訪にかけての地域は、それほど多い雨量とはなっていない。そして同じ県内でもあっても長野ではびっくりするくらい雨量が少ない。台風の場合は、通過地点の左側は雨量が少ない。とくに長野県のような山岳地帯の場合はそうした傾向が強い。だからかなり接近した場所を台風が通過しても雨量が少ないということもけっこうある。同じ愛知静岡県境地域でも、長野県側と、その南側はちょっと雰囲気が違う。静岡県の佐久間や井川の雨量は、南信濃あたりより100ミリ近く違う。通過位置の左側でも山の向こう側はこちらとは違うわけだ。とくに南信濃と佐久間や井川はまさに背向かいという立地になる。ちょっと意外なのが、名古屋の雨量だ。かなり接近していながらこのあたりより雨量が少ない。ちなみにグラフ化した観測所の時間最大雨量は、井川の今日7時の雨量で42.0mmを観測している。井川は今日になってたくさん降っているようで8時の時間雨量も34.0mmである。県内の時間最大雨量をグラフの観測所から読み取ると、阿南の今日3時のもので25.0mmである。

 朝方のテレビの報道や、YAHOOなどの雨雲の予想状況からでは、午後までまだ雨が降りそうな予想だったが、そんな報道がされているころにはすでに陽がさし始めていた。台風の際は、テレビで盛んに「これから雨が降ります」と言っているころに、すでに天候が回復しているなんていう経験は多い。まさに今日もそんな感じであった。今は盛んに風が吹いている。果樹園地帯だけにこの風の方が気になるところだろうか。今回の雨の様子では、それほど被害を出す予感はないが、やはり飯田から南では気がかりといったところだろうか。
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税金も持ち回りで集めよう

2007-07-14 12:28:12 | ひとから学ぶ
 知人は「税源移譲と市町村の税徴収率」において、徴収率について触れている。近ごろ住民税が上がったということはみなご存知のとおりだ。税源移譲することにより、交付税ではなく実際に住む人たちによる税源を増やした形だから、ごく自然な形だといえばそれまでなのだが、そこへふるさと税という考えが加わってくる。税源を地方に譲ると言うことは、人口が少ない、そして仕事が少ない地域の税収は減るはずだ。当たり前のことで、ますます人口が都会へ集中していけば、今は税収が増えたと形上思っていても、結局は地方はますます厳しいわけだ。それを補填する意味でふるさと税が有効になるのだろうが、いずれにしても住民がいなくなれば税金はなくなる一方だということは誰にでも解る。だから地方は年寄りだろうと誰だろうととりあえず住民が増えることを考えることになる。どこかにあったが、刑務所を造れば住民は増える。そんな視点だけで地方が走ることは大変危険なことだ。だから税源移譲は良いことのように見えるが、さらに自己責任を地方に負わせることになる。

 さて、そんな視点とは別に、知人は税源を移譲することにより、徴収義務も移譲されることについて触れている。確かに国が扱う金が減るんだから、国の職員は少し楽になるが、いっぽうで市町村の負担が重くなる。市町村によって徴収率がずいぶんと違うことを聞いてちょっとびっくりする。わたしの印象では都市ほどに徴収率は少ないのじゃないかと思ったら違う。考えてみればサラリーマン比率が高ければ徴収率は上がる。そういう意味では自営業者なんかが多いところほど徴収率は下がるのだろう。知人も触れているように、長野県でみると市部の最高が長野市の94.4%、最低が小諸市での85.4%である。そして町村では最高が下條村と清内路村の100%、最低が白馬村の59.7%である。長野県のホームページから他の町村の数字も拾ってみた。おおかた90パーセント以上なのだが、白馬村のほか山ノ内町の69.5%、信濃町の70.2%、小谷村の72.2%、野沢温泉村の72.4%、軽井沢町の77.6%というように6町村は80%以下を示す。ここに共通するのは、農業ではない自営業が多い地域ということが言えるだろう。白馬村はいわずと知れた観光地である。そういう視点でみればほかの町村も同様で、いかによそから移り住んだ人たちが多いかがその数値を左右しそうだ。サラリーマンのように自動的に税金が引かれてしまうシステムがもっとも税金の滞納を防ぐ手立てだとわかる。

 ところが知人も次のブログでさらに興味深いことに触れる。お解りのように100%という徴収率を見せる村は、自営業者が多い。その自営業とは農業なのだ。自動的に税金が給与から引かれるサラリーマンが多いわけでもないのに徴収率が高い。なぜかと問えば集金常会である。妻の実家のある村は、現在でも集金常会という会合を月に一度開く。いわゆる納税のための寄り合いなのだ。知人も紹介している「納税組合」という制度がかつてはあった。わたしも認識していなかったが、昭和26年にこの制度が法制化されたという。ただ、そのために組合が設置されたというよりは、従来からあった隣組制度に乗ったという形だったのだろう。その組合そのものも戦時中に配給目的で作られたもので、そう歴史が古いものではない。戦時中の遺産かもしれい。そんな組合に納税の役割を課したわけだから、今の時代にそんなことをしろと言ったら、役所の怠慢だと言われかねない。加えて納税だから、誰がいくら納めるかということまで詮索されてしまい、個人情報保護のこの時代にしてみれば、ちゃんちゃかおかしいだろう。ところがそのシステムが、圧倒的になったサラリーマン社会において勝っているとしたらすごい話である。

 実は妻の実家のある隣組で毎月行われている常会は、「集金常会」というように納税目的ではすでになくなっている。それでも毎月寄り合っては何かしらの徴収をしているようで、田舎らしいシステムである。緑の募金にしても、赤い羽の募金にしても、隣組が集めるとなると、だれでも募金せざるを得ないという雰囲気が生まれる。それはなぜかといえば、徴収義務はみんなに回ってくるからだ。自分が否定したら、自分が役のときに他の人に頼めない。となれば無理に自分勝手なことはできない。相互扶助というものはそんな具合にあらゆるところにあった。生家のあった地域では、わたしの記憶では集金常会のようなものは無かったように思う。ただ、子どものころのお使いで、税金が入っているであろう封筒を、いつも同じ家に届けた覚えがある。税金を徴収している家が一定していた。封筒には金額が書かれていたもので、子どもながらにちょっと違和感のようなものは持っていた。いずれにしても、かつての農村社会とはそうした形で日々があった。それを因習だという人もいるだろうが、良い面も持っていたことも事実だ。このごろはなんに関しても、役を回していこうという意識が減少した。「できる人がやればいいじゃないか」ということになってしまうと、無関係だと思う人は協力しなくなる。よほどこの国の国民は無理に役割分担をしないと、動けない国民性なのかもしれない。
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田舎の夜道から

2007-07-13 08:28:50 | 農村環境
 毎夜のように10時のホームに降りる。せいぜい1人か2人という降車する人影。周りは家が立ち並ぶが、明かりは少ない。約1時間の電車の空間も、しだいに1人2人と降車し、わたしが降りると時には人影がなくなることも珍しくない。地域の狭間という雰囲気がそこには漂う。昔、わたしが高校に通ったホームの人影も、それほど今とは変わりなかった。なぜかといえば、そこもまた地域の狭間だったからだ。当時のわたしは今利用している駅より北にホームの駅があった。そして南へと向かった。今はその駅より南の駅をホームにして、北へ向かっている。北から南へ向かうとともに車内の人影はなくなり、夜中ともなればわたしが降車する最後の者となったりする。そして昔利用していたころは、南から北へ向かうほどに車内の人影はなくなり、きっと今以上に利用者が多かったせいか、わたしが最後の降車する者とはならなかったが、やはり最も人影の少ない空間をもたらしていた。ようは、かつて向かっていた飯田と、今向かっている伊那という路線上で、かつてわたしがホームとしていた駅と、現在ホームとしている駅の間が、もっとも寂しい空間をかつても今も保っているということなのたろう。

 帰宅時、かつてホームとしていた駅に着くと降車するのはやはり1人、あるいは2人である。女の子が降車すると、必ず明かりのかすかな無人駅の前に、車が1台停まっている。もちろん女の子の迎えである。女の子でなくてともそんな光景を見ることはまったく珍しくない。今や、夜中に学生が、それも女の子が1人で田舎の道を歩いて帰宅する姿は珍しい。それがどの時間に達するとそういうことになるかは定かではないが、夜も9時過ぎともなればまず迎えは当たり前となる。人が安全に歩くこともできない世の中だと思うと残念な気持ちでならないが、そんな意味での安易な自動車の利用は、田舎の空間をも駄目にした。「美しい国日本」なんていうが、何の価値もない言葉と思えてくる。国の施策の言葉の裏に、さまざまな意味としての「美しい」があるだろうが、この「美しい」というフレーズに、国民も納得してしまっていていけない。この言葉の概観は、まさに外観であって、形容される姿の「美しい」と判断する。そんな施策がまかり通るほど、この国は汚くなっている、と裏を返せるのだろう。そう考えれば、「美しい」の背景に「安全」という意識があるかもしれないが、言葉だけを聞いて、その認識まで持つことは難しい。「美しい」などと言っているから、人間はすさんでいくのだ。「美しい」という前に「安全な国」を目指して欲しいものだ。とそんなことを言うと、「そんなのん気ななことを言っていて、朝鮮から核ミサイルがやってきたらどうするんだ」ということになる。すさんだ発想ではあるが、現実的な発想でもある。しかし、自らの懐が安全でなくして、よそからの不幸をいろいろ考えていても仕方ない。何が最優先なのか見えているのかいないのか、外観だけで形容しても何も見えてはこないし、「美しく」なったからといってどうなんだ、と思うのだが…。
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遊歩道落枝訴訟の波紋から

2007-07-12 08:28:33 | ひとから学ぶ
 信濃毎日新聞に週一で特集されている「八ヶ岳」。7/10朝刊での同特集は、登山道の管理責任を扱っている。登山道なんだから、普通ならわざわざ通る道ではない。公というものがどういうものかといえば、私でないものということができるだろう。したがって山が誰のものであるか、というところに行き着いてしまうが、国であればその国の持ち物をどこが管理しているのかということになるかもしれない。国だってすべてを管理することはできないし、世の中の公の土地すべてを公が管理するくらいなら私に売ってしまえばよい、ということになるだろう。主峰赤岳への登山道に設置された鉄製の階段は、25年ほど前に八ヶ岳の山小屋などでつくる八ヶ岳観光協会が設置したという。設置したのは観光協会、費用は茅野市と長野県が負担した。では誰が管理するのかといえば明確ではないという。登山道そのものが自然にできた道であって、国の土地のなかにある私の道ではない。おそらく登山者のほとんどは、歩いている道が誰の土地だと認識して歩いている人は少ないだろう。

 人里であれば、よそ様の土地を無断で歩いていれば怒られることも珍しくない。公道といわれる道であっても時には私の道であったりする。そんな問題で訴訟になることだってある。ところが、では登山道はどうなんだと考えてみたこともなかった。登山道がおおかた国有地内だとしても、すべてが国有地とは限らない。私有地だってきっとあるに違いない。人里からいきなり国有地ということはない。その人里から登山したいとなれば、国有地以外を歩くはずだ。そうした設定はわたしか記事を読んでいて気がついたことで、記事で触れているのは山の頂での話しだ。

 登山道をめぐる管理のあり方で、山岳関係者の悩みの種になっているという。十和田八幡平国立公園の遊歩道で2003年に落ちてきた枯れ枝に当たって女性が下半身まひになったという。そして女性は国と県に対して二億余の損害賠償を請求し、東京高裁は賠償責任を認めたという。国と県は上告中というが、いずれにしても賠償責任を認める判決があったということは、これからも同じような訴訟が起きても不思議ではないということだ。いままでの考えならふだん通る道ではなく、登山という一種の趣味で自らが行っている行為なんだからそこで事故があっても自己責任ということだったはずだ。登山道で起きたから登山道の管理責任だといわれても、登山道そのもののあり方はどうなんだということになる。公図に示されているような赤線とは違う。いや、もし赤線であったとしても、登山なんだから自己責任ではないのか、と思うが違うのだろうか。もっといえば、わたしが気がついたように、里山で起きた事故はどうなるんだ、あるいは私の所有する登山道で起きた事故はどうなるんだということになる。そんなことを考えていると、こんなことも気がつく。登山道から一歩それていて自己にあったらどうなるんだ。あるいは山頂は登山道の延長にあるわけで、山頂で滑落して死んでしまったらどうなるんだ、なんていうことも考えたくなる。

 八ヶ岳の登山道は、地元市町村が森林管理署との間で土地を無償で借りる契約をしているという。そして観光協会に整備を委託しているわけだが、整備をしている側にとっては、八幡平での訴訟は悩ましいわけだ。それならわざわざ整備なんかせず、無償で借り受けなければよい、ということになる。登山者のためにと思ってしたことが仇となるのだから、いたたまれない。裁判の世界とは正しそうで「えっ、本当」と思うことがたくさんある。もし、暮らしの空間が裁判の論理ですべて動いていたら、わたしたちは生きられなくなるかもしれない。簡単に言えばこの世界も「言ったもの勝ち」というところがあって、平等ではないと思うが違うだろうか。
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シモツケ

2007-07-11 08:27:49 | 自然から学ぶ


 必ず行くと釣り人がいるため池。人知れず山奥にあるため池でも、釣り人にとって格好の目標物があれば人影は消えない。このところ横を通ると必ず若者が1人か2人釣りをしている。その人数が増えることはないが、消えることもない。比較的自然が残るため池であるが、水の中のことは釣り人がもっとも詳しいのだろう。人影が絶えることのないため池ともなれは、目標は外来魚か…。自然なんて不思議なもので、草花の様子と水中の様子、そして土の中や空気と、それぞれが連関しているようで、けっこうそれぞれの空間で保たれていたりする。だから、例えばこのごろ発表された長野県の河川や湖沼の水質状態をみても、水質がよいとされる野尻湖だって、水中の実態は外来魚の巣のようなものだ。だから、必ずしもそれぞれの指標は一致しない。どんなに山の上だろうがゴミのあるところにはゴミが尽きない。冒頭で「比較的自然が残る」と言ったが「自然が残る」という指標を理解せずに使ってはいけない言葉かもしれない。それほどわたしたは安易で言葉を使ってしまっている。実際その言葉からイメージされるものは幅が広く、時に誤解を招く。ではなぜそんな言い回しをするのか、ということになるが、いちいち説明して具体的な定量値で表現したとしても、「この人おかしくない」などと言われてしまうかもしれない。ようは雰囲気で捉えているものなのだが、よくよく考えてみれば適切なのかわからなくなるということだ。

 そんな釣り人のいるため池で、草花をちょっとのぞいてみる。池の端に赤い色の花が目立つ。シモツケである。バラ科のシモツケは下野の国に由来する。日本各地から朝鮮、そして中国に分布する。植物もその分布を聞くと、けっこうこのパターンが多い。いかに日本という国とそこからつながる中国までの一帯が似通った場所かということがわかる。しかし、その土俵に住む人々の感覚は大きく違う。いや、感覚と言うよりはその歴史背景といった方がよいのだろうか。「近くて遠い」という言葉がよく使われるが、自然界の現実は近いということがいえるだろう。この花、直径5mm程度の小さな花をたくさんつける。その花の色も白っぽいものから赤みがかったものまでさまざまだが、総じてピンクという表現に一致する。けっこう人家の庭先にも見られるから、植栽されたものも多いのだろう。小さな花をたくさんつけているものの、それは近くから見ることで確認できるわけで、遠くから眺めるとアジサイのようにぼやっとした花である。どうもこの季節にはそんな花がいくつか咲く。ぺんぺん草もそうであったが、花と言うものは意識してみてみないと、花の本当の姿を知らないものだ。まあ、それは花に限ったことではないかもしれないが、興味を持たずして何も見えないということである。
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観光地利用者数とはどう勘定する?

2007-07-10 08:28:56 | ひとから学ぶ
 「示唆に富む県観光地利用者統計調査」という記事が、県政タイムス7/5号にあった。昨年の県内観光地の利用者動向をまとめた県の観光地利用者統計調査に触れたもので、延べ利用者は前年比1.6%減、3年連続の前年比利用者減だという。観光県と言われるものの、なんとなく近すぎて観光イメージから遠ざかっていく、というのが現実なのではないか、わたしは思う。自然がいっぱい、とか田舎の風景いっぱい、なんていう言葉はこの県には似合わない。そんな特徴だけだったら他の県にもいくらでもある。

 だいたいこんな見出しで長野県観光に警鐘を鳴らそうみたいな雰囲気が好きではない。人口減少時代であって、観光客が減少していくのは当たり前だ。加えて格差が現れるとともに、金があれば海外や遠方へ出かける。都会の近所のごみごみしたところに好き好んで行く高額所得者はいないだろう。結局長野県にやってくる人は銭のない人たち、ということになる。魅力あるモノがあれば別なんだろうが、銭を落として損はない、みたいな観光地はこの県にはない。でもわたしはそれでよいと思っている。そんな銭稼ぎみたいな観光県であって欲しくないし、実際に暮らしている人たちが、そんな人たちの姿を指をくわえて眺めているのも寂しいもんだ。金のある人たちは来るな、と思うのだ。

 さて、記事でも触れているが、減少しているものの、県内からの利用者は増加しているという。まさに前述した通り。ようは県外が近くなるほどに、この県に来る魅力が薄れているように思う。昔のように遠い地であれば延べ利用者が増えるような宿泊滞在になる。ところが近いから数字上はなかなかあがらない。日帰りしてもちっともおかしくないほど近いのだから。県内の観光業関係者は県外の観光客にアピールしているようだが、現実的には県民に利用してもらうような視点が必要なんだろう。そういう意味ではまさにリピーターをいかに増やすかということになる。一過性のものではならないのだ。とはいえ、観光県なんてうぬぼれてほしくないから、どんどん人が来なくなればよい、と思っている。その方がこの地域らしさが残る。この時代によそ者が増えるのはもう勘弁して欲しい。

 ところで、この観光地利用物統計調査というものがどう行われているのか、というところも気になる。だいたい県内利用者なんてどう勘定するのだろう。そして観光地利用とはどういうケースを言うのだろう。わが家でちょっと遠出をして、そこでお昼でも食べてくるのは利用者数にカウントされるのだろうか。ということで、まだ記事になった昨年の統計調査は長野県のホームページに公開されていないが、平成17年度の調査結果が掲載されていたのでそこで説明を読んで見た。調査方法は、対象観光地の所在する市町村で、観光施設、交通機関、宿泊施設等に照会して調査するんだという。延べ利用者数は、1人が1泊すると2人と勘定し、2人が3泊したら延べ人数8人となるという。それ以上調査方法の詳細には触れていない。宿泊したりすれば数字としてカウントできるだろうが、日帰りの場合は難しい。「観光地利用者」というが、施設を利用しなかったりしたら利用者数0人となる。ということはこの統計調査そのものがどれだけ信憑性があるか疑問だ。目安にはなるのだろうが、少しくらい数字が上下したからといって、それが何なの?という印象を受けるがどうだろう。さらには県内利用者ともなるとかなり曖昧でいいかげんな数字のように思う。まあ、それほど数字に浮き沈みを感じない方がよいかもしれない。
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風三郎になった

2007-07-09 08:28:22 | 農村環境



 昨年の山作業は10月、今年は昨日であった。7月の作業となると、雨であっても仕方ない。雨の日の山作業というのはつらいものがある。だから、天候に恵まれたとなれば運がよい。まさに天候に恵まれ、加えて太陽がかんかんと照るほどでもなく、曇っていてちょうどよい。急斜面の下草刈りである。草刈機が何台も入ったから、さすがに作業は早い。とはいっても、急斜面だから草刈機の担当者は大変だろう。草ならまだしも直径5センチほどになった木まで伐っている。こんな図太いものを草刈機で伐るとなると、けっこう体力を使うだろう。

 尾根伝いに出ると、風が吹いて涼しい。里からやってくる風の波が、ゴーという音を立ててやってくる。不思議なものだ。山を外から見ていてもそんな音はしないのに、森林の中にまぎれると、そして尾根伝いに出るとその波はやってくる。ささやきではない。嵐がやってくるかのごとく風がやってくる。風三郎の風穴を思い出す。こんな感じなのだろうか。風三郎伝承とは、二百十日ごろの風水害から農作物を守ろうとする信仰である。赤松林というのは見上げると風情がある。そして風が似合う。よくみるとみんなざわめいている。大きく体を揺らせ、風に身を任せている。山作業だからこんなに風の音なんか聞いている場合じゃないはずだが、このごろの山作業はそんな余裕がある。

 下草刈りではナラやクヌギは残して刈る。加えてソヨゴも残すのだが、これは祭りにおいて榊の代用とされるからだ。また比較的渇き気味な赤松林にあるソヨゴは、山の湿気を保つ役割を果たすという。このあたりでは神事に使われるとともに、小正月の繭玉飾りの木にも利用された。「ソヨゴは残す」という意識が誰にもあるから、自然と林床にソヨゴだけ目立っていた。ところが、補助金をもらう関係で伐らなくてはならないということで、あとに残ったソヨゴを、また伐って回った。

 写真は下草を刈る前の林床に広がる木々を撮ったものだ。まさに「木漏れ日」といったところだ。

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しょうがないと「核」

2007-07-08 15:21:52 | ひとから学ぶ
 参議院選挙を前に、久間発言で候補者、とくに自民党の候補者は苦境を強いられている。誰もが「核廃絶」を唱えて強調していて、今「核を持つ」なんてあからさまに言える自民党議員はいないだろう。核とは何のためにあるのか、と問えば、絶対的な相手への脅威を与えるためだ。北朝鮮がどんなに銭がなくひもじい暮らしをしようが、自らの立場を認識してのことだろうが、核を持ちたいと内心思っているのも、実は相手が手を出せないようにするための爆弾になるからだ。おそらく全世界の核保有国の多くはそうした意味で核を持っているはずだ。先進国が核を持ちながら、途上国が持とうとすると圧倒的な威圧で阻止する。ならば先進国が先に核を捨てろ、という言葉が出ても不思議ではない。にもかかわらず絶対的に使うことはなくとも、保有し続けるし、廃絶への道は険しい。

 この流れをみれば、まさに広島や長崎は忘れられるものではないだろう。確かに経験者がいなくなることによる体験談は風化する。しかし、何のために持つのだ、という問いに対して、両者の存在はその意図に沿うものとなる。広島や長崎なくして無言の脅威にはならないのだ。ということで、久間発言をもう一度考えてみれば、脅威としての原爆ならまだしも使ってしまった米国の過ちは明らかに大きい。ところが使ったことによってその脅威は大きくなったわけで、よくいう経験なくして事実は語れないということになる。なにをするにしても経験してみないとわからないということは、今の世の中でも、暮らしの中でもたくさんある。逆に言えば経験者の現象は、事実が消えていくという現実でもあるが、世界は事例として核の威力を後世に伝えることはできる。「しょうがなかった」という背景は、まさに威圧を受け入れなかった日本の責任にもなりかねない。当時、具体的にこの新型爆弾の情報がどの程度日本の中枢に届いていたかは知らないが、威圧を認識していて受け入れてしまったとしたら日本の過ちは大きい。とすると、国のトップが「しょうがなかった」という発言をするということは、やはり認めるわけにはいかないだろう。これは今も昔も国のトップである以上、過去の過ちは国のトップが責任をとるものであるからだ。例えば自治体の首長か変わろうと、前任が招いた不祥事は、後任が尻拭いをせざるを得ない。これは当たり前のことだ。そういう意味で、われわれ国民が「しょうがない」と言ってもよいが、トップが言うべき発言ではないわけだ。

 さて、この発言をもとに「核拒否」を口にする自民党の中には、けして核廃絶派ばかりがいるわけではない。北朝鮮の脅威を感じながら「日本も核を」という声があがったのは最近のことだ。そしてそれを容認する国民も多い。にもかかわらず「しょうがない」を連発した久間氏を批判する言葉ばかりだが、「ではあなたたちはどうなんですか」と問いたい。核爆弾の経験国でありながら核容認論の議員が当たり前のようにいて、加えて核廃絶への努力はさびしい。本気で核を批判するのなら、とっくに核保有国の嫌われ者になっていたはずだ。結局は久間発言を批判できるほど、核に対して拒否していないということだ。だから歴史を振り返る言葉として、核が落とされたことで、ソビエトが侵攻してこなかったという事実は、歴史として検証するべきことだろうし、今後もそうした選択が絶対ないとはいえないわけだから(国が核を容認する以上)、シュミレーションとしては生きた言葉だとはいっぽうで思うわけだ。
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山姥と金時の山車

2007-07-07 09:45:50 | 歴史から学ぶ
 写真は、東信地方のある博物館で所蔵している屏風である。昭和61年7月12日に祇園祭りに訪れた際に、了解をいただいて撮影したものである。広角レンズがなかったため、3枚に分割して撮影したものを編集で合成したものである。左側は山姥が描かれ、右側は熊に乗った金時が描かれている。金時と山姥の伝承というものは全国いたるところに分布していいる。検索したページからそれらを参考に引用すると、次のようである。

長野県 北安曇郡八坂村/大姥様(山姥)と金太郎の伝説地
長野県 木曽郡南木曽町/南木曽山の金時と山姥の伝説地
長野県 上水内郡中条村/山姥のふるさと・山姥様と金時の伝説地
長野県 小県郡青木村/大姥様(山姥)と金時の伝説地
富山県 上新川郡大沢野村/坂田金時末裔の伝説地
新潟県 直江津市/山姥のふるさと
新潟県 西頚城郡青海町/謡曲「山姥」の里・山姥と金時の伝説地
宮城県 柴田郡村田村/山姥と金太郎の伝説地
島根県 邑智郡村田村/山姥と金太郎の伝説地
京都府 加佐郡大江町/大江山の酒呑童子退治伝説
岡山県 勝田郡勝央町/坂田金時終焉の地伝説地

 また、金時を祀る神社として、

兵庫県 川西市/坂田金時終焉の地伝説地 金時の墓
滋賀県 坂田郡伊吹町/坂田金時の伝説地 伊吹山伝説
滋賀県 長浜市/坂田金時の伝説地
愛知県 宝飯郡小坂井町/坂田金時塚の伝説地
神奈川県 南足柄市/足柄山の金太郎伝説地
神奈川県 足柄上郡箱根町/足柄山の金太郎伝説地
神奈川県 足柄上郡開成町/足柄山の金太郎伝説地
静岡県 御殿場市/沼田の山の金太郎伝説地
静岡県 駿東郡小山町/足柄山の金太郎伝説地

がある。伝承として長野県にも何箇所かある。上記の一覧にもあるが、子宝の湯、子持ちの湯、はらみ湯、などの呼び名がある青木村の田沢温泉有乳湯には、その昔、山姥が湯治に来て大江山の鬼退治で有名な坂田金時を生んだという伝説が残っている。そして、子のない婦人は37日、乳の少ない婦人は27日入浴すれば効き目がるといわれている。

 さて、この屏風は山姥と金時が山車の上に描かれており、かつてこうした山車が祇園で曳かれたのであろう。ところが今は山車をマチに曳きだしてはいるが、曳くことはなく、神輿担ぎの祭りとして知られており、往時の面影はまったくない。文久3年に娘の誕生祝に魚屋が出した山姥と金時の2台の山と囃子屋台が描かれたものという。

 7月に入り、まもなく祇園の季節である。東信ではこの祇園に三頭獅子が舞われる。長野県内ではそうした獅子舞はこの地域だけに特徴的に伝承されている。また、雨乞いの祭りである上田別所温泉の「岳の幟」もこの季節である。
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枠を越えられない事例

2007-07-06 08:27:24 | ひとから学ぶ
 豊橋の出版社の出す『春夏秋冬叢書』という本が、飯田市の本屋によく並んでいる。地方出版でありながら、他地域のことも扱っているもので特徴的だ。地方出版物にはよく目を通してきたが、このごろはそんな本にも興味が湧かずにあまり目を通していないが、地元ではなくよその地域の出版社がこの伊那谷の話題を扱って伊那谷の本屋に本を並べているというところに興味がわき、時おりこの会社の本を手にすることはあるが、購入したことはない。そして、その目的は?と思うことも、採算はどうなの?とも思うこともある。このごろ「そう別冊 飯田線」が発刊されたと新聞記事をみた。豊橋から辰野までの飯田線を紹介しているという。そのいっぽうで同じ時期に、飯田市の出版社が飯田下伊那地方の戦後60年を振り返った「ドキュメント昭和20-平成18 激変の地域と暮らし」という本を発刊したと新聞に紹介された。片や他地域の出版社が地域を越えた広域な内容を扱って他地域で本を売っている。方や地域の内容を地域だけで売っている。長野県内の出版社の傾向として、郡という枠をくくって本を出すことが多い。こうした販売戦略が採算面ではメリットが大きいのかもしれないが、世の中の雰囲気に適合しているとも思えない。ところがそうした編集をせざるを得ないという現実が、編集者にはもしかしたら悲しい現実なのかもしれない。

 ときに、他県の地方出版物も同じような傾向があると認識しているが、とくに長野県の地方出版物の傾向であり、また購入する読者側の傾向なのかもしれない。わたしが何度も日記で触れてきているように、枠をくくって行動を起すこの地域の人柄なのかもしれない。そういう意味では、豊橋の出版社に学ぶものは多いと思うのだが、そういうことができないのがとくに飯田下伊那の出版人の感覚なのか、と思ってしまっても仕方ない。過去を振り返ってみると、けして飯田下伊那の出版社が自エリアだけを扱って本を出してきたわけではない。新葉社という会社が県境域一帯を扱ったものをシリーズ的に刊行したこともあった。そうした経験の上に立って、今の現実があるのかもしれないが、結局活字離れの時代に購入する側に立てばこうした枠を切らざるをえないという現実があるのだろう、と判断せざるを得ない。出版側の意識というよりは、読者にみる地域性なのかもしれない。わたしのように「枠をくくるな」と頻繁に言う人間には適合していないのだが、裏を返せばそういうニーズが少ないということにもなる。

 そんなことを考えてきてみると、豊橋市の出版社の本つくりは、どちらかという若者向けなのかもしれない。きっと枠をくくりたがるニーズには逆に適合しないかもしれない。それでもこのところ同じスタイルで本を出し続けているこの出版社の動向は、少しこの地域が変化しつつあるのか、というようにも感じ取られるがどうなんだろう。かつて廃刊した本が、今あったらどう捉えられるだろう、と振り返ることが時おりある。それほど今あったら「楽しそう」という本が、振り返るといくつかあった。時代に適合せざるを得ないというのが、採算を考えれば致し方ないことなのだが、ちょっと複雑なものがある。
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子どもたちの変化

2007-07-05 08:26:06 | ひとから学ぶ
 3ケ月が過ぎた。転勤してもそうだし、高校に通い始めた息子もそうだ。もちろんそうした環境は初めてだし、加えてわたしは子どものころ以来という毎日の電車通いというものも始まった。単身で暮らしていたこの3年間に比較すれば、ずいぶんと若い世代と同じ空間にいる時間が長くなった。そんな3ケ月で見えてきた不幸な現実に少し触れておいて、またしばらくの後にそれがどう自分の中で理解できたか、また考えたいと思っている。

 息子が思うように勉強をせずに、進まない課題を横に居眠りをしている姿を毎日のように見てきた。まだ3ケ月、されど3ケ月。課題の多さはしだいに頭の中で山積にされていき、どこかで崩れ去りそうになるだろう。まるで自分に課せられたさまざまな宿題と同じで、すでに10年も山積みにしたままのものもある。自らの行動に問えば、「なぜできない」と息子に言うこともできないが、同じことをして欲しくないからやかましく息子に問うことになる。あたりまえのことを当たり前にこなす、ということがなかなかできなくなった若者、といってしまえばそれまでだが、それは大人も同じで、加えて社会も行き詰まり感がある。

 かつてPCなるものがなく、すべて手で文書が処理されていた時代の書類をこのごろ仕事でひっくり返している。わたしがまだこの世に生を受ける前のものも紐解いているが、その時代とわたしが就職した時代ではそれほど変化はない。だから、自らアナログの時代をある程度経験しているから、今との違いを歴然と感じる。かつてはすべて手で記録され、また活字文書はタイプで打たれていた。その時代の労力と、今のキーをたたけば文字がいくらでも記録され、またコピーが簡単にできる労力、比較にならないほどそこには時間的な差があると思うのだが、かつてはそれで十分仕事が間に合い、また多くの事業がこなされてきた。ところが今はどうだろう。時間をことごとく短縮しているにもかかわらず、できあがっているものは、あまり形として見えない。それは感覚的なことで実際は違うのかもしれないが、自ら毎年余裕がなくなっている現実を体感しながら「どうしたんだろう」と思うことは最近多くなった。毎日のようにその違いを考えているが、果たして何が短縮され、何が労力として加わったのか。

 と、そんなことを思いながら再び息子の現実を捉える。ケイタイが一般的になってまだ間もない。息子のクラスでもケイタイを持たない人は誰もいない。高校にも連絡網なるものがあって、連絡がやってくるのだが、それがケイタイのメールなのだ。先日もあまりにひどいのでケイタイを取り上げていたら、連絡網が届く。電源を切っていたので、気がつくのは遅かった。まるで相手が常に待ち受けているようにそんな連絡がやってくるが、それで確実な連絡ができるとは到底思えない。にもかかわらずそうそしたシステムを選択した息子たちに、どんなに機能的であってどんなに経済的であっても、正しいシステムではないと諭すが理解できない。

 メールの存在については以前にも触れているが、確かに相手に不快感なくこちらの用件を伝達することができるかもしれない。もちろん経済的だとは言うが、ここに大きな不幸がある。経済的だという視点だ。世の中効率だけを選択するから、言い訳に「経済的」とか「効用がある」というと、反論できなくなる。しかし、そんな選択を子どものころから受けているから、それに疑問をもたなくなる。連絡がとれなくて問題があったとしてもそれはそれでもう仕方のない世界。そう思うのだが最善の策がとれなくてそうなるとしたら、どんなに堅実で経済的であっても正しいとは思えない。そんな不思議な現実が、今や子どもたちだけではなく世間一般に広がっている。それを疑問にならなくなると不幸は山となるだろう。

 経済的な選択のいっぽうで、文化祭にみんなで同じような姿をする。卒業式なんかもどこかで流行れば同じような姿が広まっていく。同じことをしていないと不安になることもわかるが、その選択をだれもがしていたら、「疑問」という言葉は浮いてこない。それぞれの能力が異なるはずなのに、同じことを選択する。おのずと格差が生まれる。本来なら、それは格差ではなく、それぞれの違いを納得して、オリジナルな自分を作り上げていく原点だと思うのだが、それが相成らんのだ。自分をどれだけ理解できるかが、個々の能力の向上への道だと思うのだが、表面上は皆同じだ。社会も昔と変わらずにたたずんでいるが、実は意識の変化はとてつもなく大きい。何がどう変化してきているのか、とくに子どもたちの世界はこれからの姿を描く。教育論議が盛んだが、現実の姿と変化をもっと認識できるような場面が必要だと思うのだが、…。
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誤り訂正の国

2007-07-04 08:30:15 | ひとから学ぶ
 安部総理の顔がずいぶんとお疲れの様子だ。久間防衛大臣の辞任を受けてコメントする顔を見てそんな印象を誰もが持ったに違いない。後を絶たない問題発言に、内閣発足当初からなんとなく予想されていた雰囲気さえ漂う。しかし、こんな問題発言に終始している内閣も珍しい。また、そうした発言問題を大きく取り上げるマスコミも国民も、本来の問題から遠ざかってしまっいる。

 「しょうがない」発言がピークを迎えたわけだが、わたしはこの言葉がそれほど好きではないが、けっこう多用する。以前にも触れたことがあったが、この世の中だ。「もしも」という事件が身の回りに起きたとしても、それは「しょうがない」ことだとあきらめざるを得ないと思っている。例えばマチを歩いていて刺し殺されようと、身内が誰かに刺されたとしても、そして乗っていた飛行機が墜落したとしても、起きてしまったことは仕方のないことと受け止めざるを得ない。当然その背景はなんだったのかと考え込むことになるだろうが、刺した側に怒りを覚えるのはその瞬間だけであって、それをいつまでも引きずりたくないというのが考えだ。ただ、現実に遭遇したら「そんなものではない」と言われるだろうし、わたしもその時の真意を計ることはできない。久間防衛大臣が辞任での会見において、頻繁に「しょうがない」を連発したという。おそらくこの言葉を口癖のように使う人なのだろう。だからわたしはそこに人間味のある人柄を覚える。確かに大臣という立場の人が、公の場で「原爆」に対して使うには適正な言葉だとは思わないが、表情ひとつ変えずに機械のように言葉を発する現代の社会のリーダーたちの表情にくらべれば親しみはある。

 政治家ばかりではない。お役所の人たちも会社のリーダーも、ことあるごとに謝っている。そんな誤りを訂正する世の中である。いかに誤りのない発言をするか、行動をとるかという意識が強くならざるを得ない。とくに先進的な世界を開拓しなくてもよいような役所の世界なら、ことごとく問題を起さないことが常の意識となる。人とは違ったことをすることが「反する」ことになるのは必然である。わたし個人がそんな発言が何なんだ、と言えるように、立場が大きい人間ではないから言えることで、立場立場でその大きさは変化する。しかし、あまりに誤り訂正に世の中が集中する姿をみるにつけ、萎縮した世の中だと思うわけだ。参議院選挙だというのに、争点は誤り訂正ばかりだ。

 安部政権の暗闇が見えている。盛んに新聞記事やテレビ報道は、「この政権を選択する価値のあるものか」みたいに触れている。それは誤り訂正問題ばかりが浮上している現実を踏まえてのものなのだろう。そういう意味で、どこかで「あなたは今の自民党に投票できますか」みたいな雰囲気を見せている。ところが疲弊した地方をどう捉えているのか、というわたしにとっての注目したい視点はどこからも聞こえてこない。政治家に地方出身であって農業を知っている人が極端に減った。そういう意味では、農業を語れる(語るだけではだめだし、その視点が的をえていなくても駄目だが…)人を今だからこそ選択したいと思っているが、それはまったく時代の眼ではない。

 発言に対して問題視するのはよいが、そんなことに眼を振られていて良いものか、と問いたいところだ。
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思うような人生

2007-07-03 08:27:28 | ひとから学ぶ
 「お仕着せ」で触れたように、賞与の季節にあらためて生業の打算さを考えたわけだ。生涯の生業がどうであったのか、それが給与というもので計れるものなのかどうか、というところまで考えてみないと、よその財布をのぞいて妬むようなことはしていけないだろう。NHKで放映された〝日本のこれから「納得していますか、あなたの働き方」〟において、正規雇用を受けていない人たち何人かが「今の仕事は好きだから続けたいが、正規雇用をお願いするとなかなか雇用してくれない」と言って嘆いていた。前述のように生業を考えたとき、好きな仕事を続けられることはありがたいことだ。せめて正規雇用で将来の安定を図りたいところだろうが、それは人生の選択ともなるだろう。「あなたの今の人生は幸せですか」とか、あるいは「今の仕事は楽しいですか」と聞かれた場合に、即答できる人がどれほどいるだろうか。

 では、自らに質問してみよう。「あなたの人生はいかがですか」と。わたしは「十分です」と答える。何が十分だといえば、そこそこ好きに生きてきたことに対して、そしてそんな生き方を何十年も続けてきたことに対してそう答えるわけだ。しかし、なかなか幸せでした、とまでは言えないのがまだ若いということになるかもしれない。いや、歳を重ねるほどにこの世に未練を感じてくるという話も聞くから、必ずしもわたしの回答が若さともいえないだろう。

 世の中には自らが思う仕事を目いっぱいやって、第三者にも認められている存在の人たちもけして少なくない。そんな人たちも悩みがないわけではなく、それぞれに問題を抱えながらそれを越えている、と思いたいところだが、人はそれぞれだろう。しかし、常に第三者に怒られながらも、ひたすら納期に間に合わそうと努力しながら、「こんな歳になってしまって」、あるいは「辞めても仕事がないから」などと思い、そんな生業に身を置いて我慢している人と、好きな生業ながらぎりぎりの生活を送っている人とで、どちらが幸せだろう、などとわたしでも考えることがよくある。もっといえば、好きでもない仕事でも、怒られることなく最低限の暮らしをしていた方が「気楽だ」という選択をしたくなることもしばしばある。それほど今の生業に納得していないということになるのだろうが、それなら「仕事を変えれば…」と簡単にはいかない。おそらく独り身だったらそんな自由な選択をするのかもしれないが、人生を重ねるほどにさまざまなファクターがそこに加わってくる。そんな抵抗を感じながらも、自らの中で引っ張り合う二人が、問題をどう共有できるかと話し合っているわけだ。前述のNHKの番組では大学の教授が、「地方では好きな仕事で正規雇用を受けることは難しい」とか、「仕事がない」と出演者が言うと、「仕事のあるところに移ればよい」といとも簡単に言っていたが、そんな選択が簡単にできる人はなかなかいないだろうし、そんな発言のできる人がたくさんいて欲しくない、と思うわけだ。きっとそんなことを簡単に言える人たちは、思うような人生を歩んできたのだろう。いずれにしても、嫌な仕事でもそこに価値を見出すことができたのがかつてで、このごろはそれがてきない、あるいはできるはずがないと判断してしまう傾向がある。誰もが思うような生業をしていたら、では嫌な仕事はだれがカバーするのか、ということになる。希望が叶わないのなら落ちこぼれ、みたいな空気を流している雰囲気がないだろうか。
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ササユリの民俗

2007-07-02 08:29:10 | 民俗学
 このごろササユリの記事が新聞にいくつか掲載されている。花の咲く季節ということもあって話題になるようだが、盗掘という記事も見える。ササユリは長野県の希少植物に指定されている。そんなこともあって記事になりやすいわけだが、ササユリについては、かつての人との関係をみるよい事例がある。飯田市美術博物館発行の『上久堅の民俗』(平成18年)の冒頭で、関西大学の野本寛一氏が子どもたちとササユリの関係について触れている。

 小学生の頃、上級生に連れられて山に入ることがたびたびあった。次の四回の山入りの目的は明確であった。(1)ササユリ採り=六月になるとササユリを採るために集団で山に入った。それは家に飾るための花で、山から採ってきた花を一か所にまとめて、下級生の分まで均等に分けてくれた。(後略)

というものである。子どもたちは遊びの空間である山に行って、家に飾るための花を採りにいっている。実は今ではあまり意識されなくなったが、盆花を採りに行く役は子どもたちが担っていた。野本氏もこのあとに触れているが、子どもたちは野山へこうして出ることで花々のありかやアケビ、ヤマブドウのありかなど認識していったわけで、それも上級生から下級生へというかたちで伝達されていったことに注目している。

 かつては家へ飾るため採られたササユリも今や希少植物ということで、上久堅で語られたものは過去のものとなってしまった。それに悲しみを覚えるわけではないが、ここで解ることは、希少とされる植物もさまざまに利用されていた上でわたしたちの暮らしとバランスをとりながら生育していたということである。このごろは自然界の異常現象のひとつひとつを持ち上げては、人々の価値観でそれぞれを分離して捉えているが、人々と関係まで掘り下げて触れられることは少ない。蛍が飛ぶことが環境の指標のように捉えるが、環境とはそれだけのものではないだろう。そういう意味では野本氏が取り上げる〝環境の民俗〟という視点はかつての民俗の分野の枠を越えたもので広がりがある。

 余談であるが、『上久堅の民俗』の始まりはこのように広がりのある書き出しであるが、〝環境の民俗〟以降広がりのない項目に終始する。この展開は、指導者である野本氏の意向なのだろうが、氏のみ自由が認められ、ほかの方たちにそれがないのは残念というか、指導の観点がよく見えないわけだ。あくまでもこれは余談である。
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