Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

日々の始まりと終わり

2008-07-28 12:27:15 | ひとから学ぶ
 暑い最中であるから、なるべく涼しい時間に働くというのは、農作業の基本である。だからこそ「昼寝の時間」でも触れたが、昼寝の時間にガアガアとやられるのは気分が良くない。とはいえ、明るくなったからといってすぐにガアガアやるのも、この時代は遅くまで寝ている人もいるから迷惑な話となる。とくに土日はそんな人が多いのだろうが、゜とはいえ、このごろの農村地帯のまだ明るくなったばかりの時間に人が農作業をする姿は少なくなった。これももちろんの話であるが、農業の衰退、機械化、多様化なども、おしなべて一様ではない農村の風景を描くことになる。

 朝、駅へ向かう道で挨拶を交わす人々は毎日同じというわけではない。こちらは同じ時間に通るが、相手が同じ時間とは限らないからだ。それでも畑で農作業をしている人々は、だいたい毎日に近いほど顔を合わせる。段丘崖の頭から降りる道は、木々が朝陽を遮断し、すでに暑さを増してきてはいるものの涼感を与えてくれる空間である。その周辺の小さな畑数枚は、その段丘崖の上にある家のおばあさんが耕作している。ほかの人が耕作している姿を見たことはないから、おばあさん一人で耕作しているのだろう。その畑を通りかかると、おばあさんの働く姿を毎日のように見る。もちろん道端で作業をされていると、「おはようございます」と必ず挨拶をしてくれるし、「いってらっしゃい」あるいは「おかえりなさい」と続けてくれる。畑は草もなく、よく管理されている。毎日のことだからこちらもどこか圧倒されてくる。この暑い季節ではあるが、必ず外で仕事をされ、わたしの帰宅時間はすでに日の短くなってきたことを感じさせる少し薄暗い時間帯である。わが母よりは年は少し上のようだから、大正末期から昭和一桁生まれだろうか。最後の昔を描き、また体験してきた世代ではないだろうか。

 段丘崖の頭ということもあって、畑はそれほど傾斜はないが、家の南側のかつて果樹園だったであろう畑は尾根の傾斜地である。道から少し離れているから、そこで働いている姿はわたしにはよく見えるが、舞台上のようなものでおばあさんから道は暗くて見えないかもしれない。家の周りの畑だから、耕作しやすい環境である。そんな畑に毎日おばあさんの姿を追いながら、わたしの毎日が始まり、終わる。それほどわたしにとっては大きな存在のおばあさんである。今時暑い最中とはいえ、そんな時間を避け、涼しい時間帯に畑で働いている人影は年寄りばかり。要するに暑さとか時間といった制約の中で要領よく働いているのは、その経験に裏打ちされた年配の方たちなのだ。わたしのそんな毎日に登場するのは、そのおはあさんだけではない。段丘崖への途上においても、かつて田んぼであっただろう水平畑で草をむしるおばあさんもよく挨拶を交わす一人、さらにはその隣のおばあさんはあまり挨拶は苦手なようだが、軽く会釈をかわしてくれる。それでもよい、わたしにとっては挨拶などどうでもよいのである。意識のどこかで会話が交わせれば、わたしにとっては毎日が始まり、終わるのである。今日もまた、1日の終わりを、会釈と共に「おかえりなさい」と言われ、まさに他人でありながら、息子のようにな自分を見送ってくれることを楽しみに駅を降り、帰路に向かうのである。
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