Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

温暖化防止と自制

2008-07-01 12:22:08 | ひとから学ぶ
 この土曜日の「ウェーク」、そして最終回だった「ハッケン」ともに話題の一つにコンビニの深夜営業自粛というものを扱っていた。温室効果ガスの0.009%の削減にとどまるといわれるコンビにの自制は、効果がないから意味がないという意見が大変多い。もちろん、効果だけではなく、「なぜコンビニだけが対象にされる」のかという疑問は確かにある。夜間営業はコンビにだけではなく、都会にゆけばさまざまなものがある。そうした環境をみれば、コンビにだけ叩かれるというのも、自由な競争を掲げている自由主義には反することになるだろう。発想がどこにあるのか、詳細を説かなくてはならないだろうが、賛同しようという自治体は、パフォーマンス的な発想ととられても仕方ないだろう。「もっとやることは違うところにあるのではないか」と言われるのは歴然としている。

 とはいえ、コンビにを擁護するものでもない。夜中にコンビニを利用する人は2割程度だという。それも都会でのことだろうから地方にいたっては1割以下のはず。にもかかわず煌々と点されたコンビニの明かり、そしてそこであてもなく働く人、これを無意味といわずに何と言う、という感じである。なんていうことを言うと、「あてもなく」は正しくないと言うかもしれない。必要と思う人たちがいるから店を開く。その考えは正しいが、実は自制とはそういう自由なものに自ら制限をかけてみる必要性が問われている。必要だからというのなら自制などというものは必要なくなる。自制するということによって、必要としている人たちも自制させることができる。その連鎖とでもいうのだろうか、副次的なものはあまり語られない。

 今回のコンビニの効果については、むしろ開店していた方が効果が大きいという事例があげられている。例えば防犯上、緊急避難場所として利用されるとか、品物の搬送は夜間の方が渋滞に巻き込まれず温室効果ガスの排出量が低い、などといったものだ。どうもこれらはコンビニ向けの事例に過ぎないように思える。夜間に開いているから、わざわざ車を使って買い物に出かける人もいる。地方などはコンビニを歩いて訪れる人は、よほど近い人か、外国人労働者くらいで、たかが100メートルでも車を使って移動する地方人には、自制というものを知らしめる意味でも必要なことである。都会ではともかく、地方にあっては24時間営業は違う意味で自制があってよいものだろう。

 もちろんコンビニだけにあらず、ということは当然のことで、自らの生活もどうなのだと問う必要性はあるはず。そういう意味で議論されることも必要だろう。ただし前述したような自治体のパフォーマンス的賛同は問題のはき違いというものだ。「コンビニの深夜営業規制は不条理」で深夜営業を後押しし、次に「無意味だが、しなくてはならない」と皮肉っぽくライトダウンを批判する日記があった。「温暖化防止には生活の便利さを我慢することが求められていると勘違いされる危険性が、かなり高い」と言うが、明らかに昔の暮らしは温室効果ガス排出量が少なかったと思うが、それを否定するのもどうだろう。技術力でカバーするという傾向でなんとかしようとしているようだが、それって結局また違った問題を引き起こすようにも思えるが…。
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