Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

見えない

2008-07-23 12:19:33 | つぶやき
 知人の女性が新しい車に乗っていたので「新車にしたのですか」と聞くと、「もう2回もぶつけているのよ」と言う。まだ半年くらいの新車なのだろうが、「なぜ」と聞くと二度ともうっかりというケースのようだ。正確な年齢は知らないが、わたしよりは年上であるあることは確か。一度はバックしていて気がつかずに木にドスンとやったらしい。かなり凹んだようで、「まだ変えたばかりみたいですね」というわたしの感想に、「それ修理したからキレイなんですよ」という。まったく後ろに木があるなんて思ってもみなかったようで、けっこう見えていないものがこのごろ多くなったという。年齢的なものなのだろうという言葉はお互い年だから出なかったが、暗黙のなかでそんな雰囲気が漂った。

 最近自家用車に乗らないことは何度も触れているが、仕事で会社の車を運転するから、まったく運転から遠ざかっているわけではない。かろうじて彼女のようなケースまでなったことはないのだが、彼女が言う「見えない」という感覚は、このごろ感じている。たまに自家用車を動かすのだが自宅を出る際に、まず石垣に挟まれた出口から町道へ出る。その際の出方がまったくもみじマークの人たちと変わらない。しっかりと確認もせずに、「こんなくらいで良いだろう」みたいに出てしまう(「もみじマークの人たちみたい」なんていうと失礼か?)。あまり車の往来のない道だからということもあるが、さらにその道を進み、大通りに出る際も、自宅から出るのとそうは変わらない。それでも確認はするのだが、自分の意識の中に「絶対大丈夫」というものがない。どうも「見えていない」という言い方がしっくりする。運転歴も長く、運転することも好きな方だった自分が、けっこう運転そのものをいいかげんにするようになったと最近気がついている。それはマイカー通勤をしなくなったこと、そして長距離運転もしなくなったことにより月にせいぜい200キロ走れば多い方というこのごろだ。そんな経験的なものもあるのかもしれないが、わたしの中ではそういう理由では納得いかない。どう考えても年齢的な背景が頭の中をよぎる。そういえば昨日も、電話で予定を確認して日程を調整したのに、それも数時間後記録にとめておかなくては、と頭の中にあったのに、夕方あらためて違う予定の調整をしていると、先ほど予定した日時と内容が消えてしまっている。だれかと予定を組んだけれど、いったい何だっただろう、などという状態だ。ひとつひとつ記憶をたどろうとするが、全く白紙になっている。「まずい」と思いながら、その日電話をした人を逐一頭に浮かべていく。どうもそれらしい人が浮かんで、予定の話をしたことを記録に残すが、いまひとつもっと大事な予定だったような記憶がある。

 結局そのまま記憶が確実には戻らなかった。記憶だけならボケということになるのだろうが、車を運転しているときの不確実さは、意に反して勝手に身体が動いてしまうことに起因する。ようは頭の中の指令と、動作が一致しないのだ。もちろん彼女のような思い込みというやつの方が、明確な「うっかり」と言えるかもしれないが、「見えない」という感覚は、やはりどちらにも共通しているもののように思う。

 高齢者ドライバーが増えている。そうした世代の事故が多いとも言われるが、うっかりで木に当てたくらいならまだよい。人でもひいていたらと思うと冷や汗ものだ。わたしの母免許を持っていない。同じ世代でも持っている人もいるが、どちらかというと持っていない人の方が多い。昭和二桁以降だろうか、誰でも持つようになったのは。そう考えると高齢者ドライバーはまだまだ増え続ける。わたしのように自信満々だったドライバーが、ふと凶器を振りかざすようなことがないよう、認識しておかなくてはならないことはたくさんある。
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