Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

供託金没収点引き下げのはなし

2008-07-24 12:39:28 | ひとから学ぶ
 政党色が濃くなれば、利権が背景で動くようになっても仕方のないことだ。かつて高度成長時代における利権政治は、今やまったく批判の的となる。しかし、そもそも政党支持をする団体や個人にしても、利点があるから支持するもの。そこから利権に絡む行動が起きない方が不思議なことだ。

 盛んに批判の的となっている大分県教育委員会。教育の畑に利権という言葉は似合わないが、権力ある者が特権を振りかざすのはなくなるはずもない。それをまっさらな表舞台にさらけ出したとして、では政治家は何のためにいるの、ということになる。政治家にはその手腕が問われる。だいたい手腕を問うことそのものが、すでに利権への始まりであって、徒党を組んだ企みの始まりなのだ。いかに組織を固め、実権を握るか、その目標に関して違うと言える政治家などほとんどいるはずもない。民主党の現状などはまさにその最中にある。

 自民党が衆議院選挙の小選挙区における供託金没収点を有効投票総数の10%から5%へ引き下げる公職選挙法の改正案を、この秋の臨時国会に提出することについてコメントするブログがいくつも目に入った。「姑息」な手段と非難する人が多いが、もともと選挙制度など、政権政党のいいように改正されてきたもので、いまさらながらに「姑息」と表現するのもいかがなものだろう。国政を握る人々のシステムを自らの良いように改正できるところに、大分県教育委員会の問題とそれほど変わらないという印象を持つ。それも公にそれができるというのだから、政治のシステムは政治家にしか議論できないものなのだ。

 したがって「姑息」というのはその行動に対して言われることであって、供託金没収点を引き下げるのはけして悪いことではないはずだ。だから、姑息といって批判している民主党は、そんなことで批判する以上に、そうした手段をもクリアーできるだけの支持を得ればよいだけのことである。いっぽう小選挙区制度以降急激に減退した社会党にとっては、「姑息」などという批判が起こるはずもなく、もともと全選挙区に立候補者を擁立していた共産党も、いよいよ社会党と同じ道を歩むかと思えた中での少しの光とばかり感じているはずだ。

 世の中に無党派層といわれる人々が増えた要因に、政党色の濃い政治を選択したくなくなったことがある。同様に投票率の低下もそんなところにあるだろう。権力のために大勢の組織配下を同じ方向に向かせる時代ではないというのに、それをあいも変わらずに続ける。これほど多様化したにも関わらず、二大政党化へと歩んでいるという。この「二大政党」と表現するのは本来間違っていると思うが違うだろうか。ふたつの政党とどちらも選択しない人々と言えるだろう。それを無党派層と表現するが、それもちょっと違和感がある。小選挙区以降、大きな支持母体、ようは政党代表でなければ国政には立てなくなった。けして既存政党の考えには沿えないという人々が、新たな政党を作って立ち上がるなどということはできない。いや、なったとしてもそこに発言権がなければなった意味もなくなる。もともとこの国の政治システムに、「姑息」などという言葉はそぐわないのである。
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