Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

マニュアル通りにいかない

2008-07-07 12:25:23 | つぶやき
 記憶に残っていて、そしてその記憶にある学習でこうするべきだと思っていても、とっさのときにその行動が取れない、あるいは気がつかないということがある。「ことがある」なんていうものではなく、けっこうそんなことは頻繁にある。それをさらにできるようにするのが、練習というものなのだろうが、できる人とできない人がいる。その原点は正確的なものなのだろうが、その正確をも、多く練習することでクリアーしていかなくてはならないものなのだろう。

 などという感慨にふけっている自分は、電車のシートに座ってから気がついて「しまった」あるいは「またできなかった」とまだまだ学習できていないことを実感している。このごろは、わたしが朝乗車する際に、すでにそこそこの乗客が乗っていることがある。日によっても異なるが、わたしのポジションというものがあって、その場所は同じ場所ではなく、この車両なら前よりの左側、この車両なら後ろより右側といったようなものである。なぜその場所を選択するかといえば、車両によって混雑度が異なることと、高校のある場所によって最初は後ろ車両が混雑、後は前よりが混雑という具合に乗客の大半を占める高校生の頭数によって環境は大きく変化するためだ。その変化に応じて、なるべく落ち着いた場所を選択することにしている。加えて、落ち着いて座れる場所というものは、立ち客がやってこないような場所ということになる。いくら座っていたからといって、脇で何人も人が立っていられると落ち着かないものだ。そういう意味で、ドアから最も遠い位置というのは、もっとも立ち客の少ない場所となる。空いていればともかくとして、混雑していればいるほどにドアよりは遠い位置を選択する。最近のクモハ313系はシートが簡単に方向転換する。したがって相向かいでなくとも進行方向を向いて座ることができる。なるべく同じ方向にシートを向けるように、空いているシートは車掌が修正するように、基本的には進行方向を向く形を乗客も好む。事実、相向かいのシートを使いたい人を除けば、おおかたは進行方向を向いている。ところが旧式の相向かいのシートが固定されている電車では、進行方向とその逆方向を向く人は等しくなることになる。空いてさえいれば、おおかたの人は、進行方向を向いて座ることになるわけだが、わたしの場合は、そんな際も立ち客のポジションを意識して座るのが常である。ようは立ち客から見下ろされるような進行方向に向いたシートよりは、後ろ向きでも立ち客のいない場所を選択することにしている。

 という具合に、乗車後に座る場所を選択して歩く。朝乗る駅は、そこに高校があるために、大勢の降車客がある。したがってそこまでの車内の雰囲気はその後で大きく変化するわけで、空いているとはいっても、降車する客を見て降車しない乗客もポジションを変えるトキとなる。もしかして、飯田―伊那市駅間の朝の通勤時間帯で、これほど雰囲気が一変する(座っていた人の顔が変わるという意味で)のはこの駅だけかもしれない。わたしはその駅から乗車しているから空いた空間に平然と乗ることになるが、わたしより南から乗車してくる人たちにとっては、印象深い駅になるのかもしれない。

 さて、そんな乗客の大移動がある駅で乗車するから、自分も最も落ち着ける場所を探して車内を移動する。そんなときなかなかよい場所がなかったりすると、あちこちを徘徊してしまうのだが、考えてみればかなり空いているわけだから、そこから数駅の間で降車する客のシートを狙って近くに座るという方法がある。いつもそう思っているのに、いざとなると、空いている座席しか目に入らないのだ。ところがそんなシートを探しながら目で追っていると、「あの人あそこに座っている」と記憶の片隅ではそこから三つ目の駅で降車する客だという信号が点滅しているにもかかわらず、そのときにはあらかじめ用意していた自分の中のマニュアルに沿えないわけだ。マニュアルというものは落ち着いて行動できれば有効なのだが、咄嗟のときにそれを実現するにはよほど意識を持っていないと実行できないものなのだ。
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