Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

精進し神々に祈る

2008-07-14 12:34:50 | 歴史から学ぶ
 追い払いはしても、二度とこの世に現れるな、という具合に絶滅させようとはしない。確かに民俗社会は、自らの空間から災いを追い出そうとした。明確な答えとして滅ぼしてしまえば消えうせる害を、なぜか追い払う。それも隣村に追うわけだから、普通に考えれば隣村から追い返されることもある。ところが、隣村に追い出された災いは、さらに向こうの隣村に追い出される。笑い話に聞こえるだろうが、こんな子供だましのことが、延々と続けられてきた。

 内山節氏は、「風土と哲学」81(信濃毎日新聞7/12)において、現代人には理解できない伝統社会でのこうした災いとのかかわりについて触れている。事例として疱瘡流しに触れ、今では絶滅したといわれる天然痘、かつては伝染力が強く死亡率も高かったということで多くの人々を苦しめた。そんな疱瘡を払うために、疱瘡流しという行事をした。定期的に行われたこともあるが、流行はじめると行うこともあった。内山氏は現代人には不可解なこうしたかつての人々の考え方に二つ、面白い点をあげている。ひとつはこの恐ろしい病を神様として送ったということ。もうひとつはこの疱瘡の神様を退治しようとはせずに送ったということである。冒頭でも述べたように、隣村に送ったとしても送られた方は災いを送られるわけだからかなわない。ということで隣村でも同じように疱瘡流しをする。内山氏が言うとおり、根本的な解決にはならないわけだ。こんな不合理な信仰があることじたい不思議でならないに違いない。

 現代のように明確に直す方法がある場合、そんな悠長な信仰に頼る方法は不可解に違いない。しかし、明確に直す方法がない、あるいは医者がいたとしても必ずしも直るとは限らない時代にあっては、災いにあわないようにするしかないわけで、それは運のようなものだ。だからこそ日々精進し、神々を祈ることくらいしか人々は頼るものはなかった。それでも災いがやってくれば、ひたすら神頼みをするのみなのだ。日々精進することにより、神の仕業から逃れる。迷信と簡単には言うが、それほど人々は見えない災いに常に苛まれていたに違いない。神は人々の行動を見るように試練を与えたり、また褒美を与えたりする。そんな考えが生まれても少しも不思議ではないはずである。思うに、そん不安定な日々を過ごしていたかつての人々には、たとえば病に倒れ、死期の近づきを察知することができたに違いないし、周りにいる人々も死を迎える病人の姿がよく見えたはずである。それにくらべれば現代は、死のトキが見難くなった。身内の死期に立ち会うということが少なくなったこともあるが、それ以上に死の姿が見えていないように思う。重みもなくなったのだろうが、いっぽうで死への恐怖感は高まっているのかもしれない。

 それにしてもわたしがもっと不可解に思うのは、なぜ送られた隣村といさかいにならなかったのか、ということである。現実的にはそういうこともあったと聞くが、たとえば飯田市の天竜川東岸で伝えられている風の神送りなどをみると、次へ次へと送られ続けていく。とはいえ、その最後があるわけで、こうしたシステムがどう構築されてきたのかは大変興味深いわけである。必ず戻すのではなく別の地域へ送る。葬列の際に、帰りは別の道を選ぶのと同様に、同じ道を返すことは、再びその道を帰ってくることを含ませるわけで、わざと違う道を選択することで迷わせるというかつての考え方がそんなところにも出ているのだろうか。いずれにしてもまったく不合理なことなのだが、そうした不合理によって、それぞれのムラが均衡していたということもいえるのだろう。
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