Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

地域社会はどこへ

2008-07-21 16:21:34 | つぶやき
 毎週内山節氏の「風土と哲学」(信濃毎日新聞土曜日文化欄)からヒントをもらって思うところを書いている。今回もそのことについて触れる。7/19朝刊で内山氏は、「速すぎる変化」について触れている。世の中のスピードが「速い」と感じるようになったのはもうずいぶん前のことである。殺人事件が起きようが、大災害が起きようが、今やそれらは一時のニュースとして流れていく。もちろん世の中がの流れが速いから流れていくばかりではない。次から次へと同じような大事件が発生するから、いちいち古の事件に固執しているわけにはいかない。加えて情報化の時代は、日本全国に瞬く間に同じニュースが流れるようになった。したがって休む間もなく、水が流れるがごとく変化のないニュースが流れているように見えてくる。そんな速さは日常の暮らしをも忙しくさせた。次から次へと頭の中を整理していかないと、社会の流れについてゆけない。そしてそこについていくことがステータスだと思えば、みな追随していく。個性があろうがなかろうが、一応の基本スタイルは速さの中に存在していて、それを否定することは、かなりマイナーな世界に陥る。実はそんな追随できずに落ちこぼれていく人たちも大勢いるのだろうが、世の中はそんな人たちに視点はあてない。どんどん前へ前へと進んでいく。だれも「本当にそれでいいの」とは言わないし、言ったところで言った側も相手に理解してもらえるような理論を持ち得ない。

 内山氏は、農山村が長い時間の中で築いてきたモノを、速すぎる変化で失うことになるという。〝「地域的な空間」の激しい変化を受け入れながら、そこに地域らしい地域をつくろうとすれば、自己矛盾に陥ってしまう〟という。ようは速く変化する地域社会に、かつてのような地域社会は成り立たないということになるのだろう。

 はからずも地域はその問題を認識していても、今までとそう変わらない流れを持っている。これは人々の間に、地域はそれほど早い変化はしないという錯覚があるからではないだろうか。おそらくこれほど地域社会が崩壊したにもかかわらず、その根本的な部分を見直そうという動きは見られない。ようは頭の中では内山氏の言うようなことが解っていても、暮らし向きがそんなゆとりをなくしてしまう。一瞬立ち止まることはできても、みな相変わらず世の中の速い変化に順応していこうとする。それを食いとめられない原点には、若者の意識に変化をもたらすことができないということだろう。義務教育から高校、そして大学と、明らかに若者は外へ向かっていく。外へ向かう以上はその速さに順応しなくてはならない。地域社会がゆっくりとした変わらない社会を作ろうとしても、そこには世代のギャップが生まれることは必然である。もちろん、そこまで地域社会が意識をもった行動を取れたとしてものことで、その段階までも遠いことである。そして現実のこととなっても、若者たちにどう教え、どう将来を築かせるか、そこまで物語を語れる人はいないだろう。

 ちまたでは農業がいつまで持つかという言葉をまことしやかに口にする人が多い。農業者が口にするのは許せるが、そうでない同じ空間に暮らす人々が口にするのを、最近「許せない」と思うようになった。もはや、地域に若者が残らない。残ったとしても生まれ育ったところではなく、地方の小さな都市周辺であったり、まったく「家」とは縁のない新興地である。自らの生まれ育ったムラには、優秀な子どもが残らない。そして都会の言いなりになったムラが、都会に騙されながらか細く生きて行くなんていう社会はますます許せないものだ。
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