Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

天竜川を越える

2008-07-19 14:05:40 | ひとから学ぶ
 「伊那毎日新聞」の7/15朝刊に〝「東中のよさ」を理解〟と言う記事が見えた。赤穂東小学校の5、6年生がこの14日に駒ヶ根東中学校を見学したというのだ。見学を実施するということは東中学への進学を希望してもらおうというものなのだろうが、駒ヶ根市内の通学区の考え方が具体的にどうなのかは、地元でもないから詳細は解らな(後術する「子供の個性と学校の特色」を読む限り、自由通学になっているが、市内全域ではなく、限定地域のようだ)。しかし、もともと駒ヶ根市の天竜川西岸と東岸には人口的に落差があり、加えて西岸には大規模校があることで知られていた。今でこそ小学校は三つに分離されたが、わたしの知っている時代には小学校が一つしかなかった。二つに分離させる際に通学区の話でずいぶんともめたという話をよく聞いたものだ。たいへん不思議な地域で、赤須と上穂という地域でのさまざまな対立があったと聞く。それを民俗的にあらわすなら、国道より上にある五十鈴神社と下にある大御食神社との対立がある。それぞれの神社が特徴ある祭りを繰り広げており、両者はいずれも地域のより所として存在してきた。そうした二つの地域が合併する際に、それぞれの文字をとって赤穂という名称にした。赤穂といえば、兵庫県の赤穂の方が歴史も知名度もある。こうした新しい地域名をつけざるをえなかったというあたりにも、両者の対立があったという背景を感じるわけだ。とくに明治8年というずいぶん昔に「赤穂」としたあたりに歴史を感じるわけだ。

 赤穂小学校から赤穂南小学校に分離し、さらに今は赤穂東小学校もできて三つに分離した。もともとなかった地名なのに、いまだに赤穂という地名に執着している面も見られ、そうした執着があるからなのだろうか、いずれの小学校も「赤穂」なのである。対立した地域が「赤穂」として始まったことにより、より一層両者の対立が後世に伝承されているのではないかという印象を持つ。だからこそ、すでに市制を敷いて何十年にもなるというのに、赤穂というかつてなかった地名が強く意識されているのである。もちろん周辺の地域から「赤穂のマチ」と言われてきただけに、すでにこの地名が地域に親しまれているという印象もある。わたしも子どものころ「駒ヶ根市に行ってくる」とは言わなかった。「赤穂町に行ってくる」と言ったものだ。この地域の不思議な地域性は、ずいぶんとこの地域の人々の意識の象徴的なものとなってきたといえるのだろう。したがって、天竜川を越えて東岸の中学に通うわせるという勇気が、なかなか親たちは持てないのだろう。赤穂というところに固執するが故の歴史的なものなのだ。

 この記事とは別に「子供の個性と学校の特色」という駒ヶ根市政に対してコメントを続けるブログでも、この小学生が中学校を見学したことについて触れていた。大規模校と小規模校それぞれに問題があるのはどこでも同じで、駒ヶ根市に限ったことではない。またどちらが必ずしも良いともいえないが、教育環境という面では小規模である方がより生徒重視のものとなり、目も行き届くだろう。そんなことは当たり前なことなのだが、それほど大きな町でもない駒ヶ根市が、前述したような赤穂小学校という大規模校をなんとか分散させてきたこの市には、同様に中学も赤穂中学という大規模校があって長年続けられてきた。県内でも屈指といわれる大規模な学校が小学、中学両課程で存在した地域なのである。環境が良いからといって、みな悔いの生じない教育を受けられるというものでもない。多感な子どもたちにとってどうあればよかったかなどということは後にならなければ見えてこないだろうし、また見えないかもしれない。子どもとたちがどこにいようと、そこでどう学び成長したかということになるだろう。可能性という面でどう成長するだろうという確率的なことはいえても、その子どもに合ったものかはわからない。だからこそ、選択の余地があることは良いことなのだろうが、いっぽうで選択があるということは、後に悔いを残す可能性も高まる。何かがあれば、「もし」といった言葉が口に出る。逃避、回避、どれをとっても逃げという言葉につながるが、選択がある以上、それを全うする、そして愚痴を言わないという親の心持が必要になるのだろう。果たして小学生に学校を選択するなどという判断を任せる必要があるのか、ということも疑問である。そういう意味で学校見学などというものの意図が何なのか、迷走する教育行政の一端を見る思いがする。
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