Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

盆花

2008-07-18 12:17:02 | 自然から学ぶ
 先ごろ近くのため池の草刈りをするといって妻はでかけて行った。ちょうど今の時期は、ため池に限らず、あちこち草の丈が伸びている。農村では第一に田んぼの草が刈られる。ため池やそれ以外の場所は二の次となるから、伸び放題の草が目立つ。とくにそのため池の受益者でもないのだが、地元の自然の会に入っていて、その会の活動の一つで草刈りをした。あまりかんがい用に利用されているのか定かではないようなため池で、満面と水を湛えている姿は見たことがない。だからため池の中の斜面にも、たくさんの草が生えている。ようは水位が低いから、中側にも草が生えやすいわけだ。このため池はわたしも年に何度か訪れる。犬の散歩でもよく訪れたものだが、犬が妻の実家暮らしを始めてからは、すっかり訪れる回数が減った。それでも自然が残っていることから、花の咲き具合を観察に、何度かは今でも訪れる。

 陽の強い日の午前中だったが、常に田んぼの草を刈って慣れているにも関わらず、妻はすっかり疲れきって帰ってきた。時間を忘れるほどに少し寝入っていたようだ。ふだんの草刈りとはかってが違うということと、萱のような太いものが生えていて、妻の紐型の草刈機ではなかなか刈れなかったということなどふだんとは違うものがそこにはあったのだろう。草刈りをする場合、なかなか刃が効かないと疲れるものだ。草刈りに限らないだろうが、しようとしている作業がはかどらないと疲れるのと同じだ。

 ため池の土手にフジバカマを植えようという話があるという。フジバカマといえばアサギマダラと言われるほど相性のある花とチョウである。常日ごろ農業に浸かっている妻にとっては、本当のところは趣味の世界で自然と関わっている人たちにはどこか壁を感じている。日常が自然とのかかわりだから、その中で自然を大切にしていこうという気持ちがあるが、ただただ自然を守ろうとしている保護系意識とはどこか違う。忙しく農業に追われる者は、そんな自然保護を口にする趣味の人たちとは知識が異なる。家の周りの草花はそこそこ詳しいが、そうではないものについては詳しくない。だからきっと関わってはいるものの、そんな人たちとは知識差があるからあまり会話は通じない。聞くばかり、といったところなんだろう。もちろん参加している理由は、日常の農業とのかかわりの中で、わからない草花があるからそれを知りたい、また珍しいものなのかどうなのかもはっきりしないから、そうした人々の知識をもらおうという気持ちがあっての参加である。

 さて、このあたりでは山野草が根こそぎ取られてしまうことがよくあるとその際に聞いてきた。その中でオミナエシを取っていってしまう人がいると参加した女性が口にしていたことに触れ、妻は「もともと盆花として供えるために取るのは当たり前だったわけだから、根こそぎ取られるというのならともかく、それを非難するのも変だよね」という。あくまでも生活の中での自然、人とのかかわりの中での自然だということを意識している。だからこそ妻の日常の舞台では、メダカだって獲って食べるわけだ。

 何度か触れているが、伊那谷自然友の会の主だった方たちと話をした際にも、けして自然保護だけを口にしているわけではないと印象を持った。だからこそ人々の暮らしとのかかわりを扱った報告が多い。ところが、たとえば先の伊那市での出前講座の中でも、そういう意図があるものの、聴講している人たちの顔をうかがっていると、どうも自然保護一点張りになりがちな雰囲気がある。妻と同様に、わたしもそうした人々の空間に入ると、どこか壁があるような気がするのは、そんな人々との意識の違いにあるように思うわけだ。なかなかこうした意図は伝わらないということを、はっきりと解らしてくれる。世界の違う人たちと関わるというのもそんな勉強にもなるのだ。
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