Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

つけとどけ

2008-07-11 12:21:48 | ひとから学ぶ
 わたしはあまり使わない言葉だが、妻は使い方を知っている。「つけとどけ」という言葉だ。いわゆる世話になったからといって、お礼を品物などで届けるものだが、わたしのように独立した存在で会社でも浮いてきた人間には、不得意な世界である。

 大分県の教員採用に関わる問題が連日ニュースのトップに流れている。ひときわ目立っていて、さぞかし大分県の小学生が気の毒なように聞こえるが、本来合格しなかった先生が合格して教壇に立っていたからといって、大分県の教育レベルが低いというわけでもないだろう。合格させてもらったお礼といって、百万単位の金が飛ぶと、つけとどけのレベルではない。しかし、意識としてはそうは変わらない。その背景には不正の度合い、お礼の度合いというものがある。採用された教員の半数が不正の上で決められたといわれると、かなり深刻という感じで、今でもそういうことが行われていたのかと思うか、それとも不正などと言うものは不思議ではないと思うか、といったところだ。教員でこれほどの不正があるということは、県の職員採用とが、公職の職員採用に不正があっても少しも不思議ではない。加えて教員採用にあたって県会議員が口利きをしていたような話が出てくると、職員採用にあたって日常茶飯事に不正が行われていた、不正と認識せずとも口利き採用が行われていたといっても不思議ではないだろう。

 もちろんこんなことは珍しいことではないだろう。かつてなら当たり前のように行われていた。金がどれほど動いたかという違いはあっても、しようとしていることに違いはない。ちまたではあまり聞かなくなった採用不正であるが、陰ではいまだ行われているということ、またそんな地域があるということなのだろう。もちろん公平性という面で一切されるべきことではないだろうが、日本人はどこか「コネ」というものに頼る人種である。そんなさまざまな背景を糧にして生きていくのもけして悪いことではない。不正で落とされた人が、すべて悪い人生を歩んでいるわけでもない。そして不正で合格した人が、すべて良い人生を歩んでいるわけでもない。許されないことを平気でする社会だと気がついて生きてゆくことが必要だろう。だからこそ、不正に対する意識も高まるというものだ。もちろんそんな世界に生きている人たちは、見つかりさえしなければ、幸福な人生を歩んで、加えて永年の努力に対して褒章をもらい、さらには名を残してゆく人も多いだろう。世の中はそんなものだと気がつき、本当の意味での人生の価値観を見出すことができた人も、わたしは幸福な人生だったのではないだろうか。確かに目立つにこしたことはないかもしれないが、それぞれの人生を評価できる、そんな人が多くなることを望んでいる。

 とはいえ、先日もある施設を訪れると、定年を満期で迎え、その後は好きな趣味の世界で地元で活躍し、公的施設へ週数日働きに出ているという知人のことを知った。いっぽう会社では、かつてなら定年まで働き、さらにはよほどのことがなければ管理職に就いて人生後半の道に歩んでいたものの、定年にはまだほど遠く、辞めたからといって年金需給までは何年もあって、途方に暮れる人もいる。それを格差というのかもしれないが、そこに価値観を見出せというのも無理なのかもしれない。自らどんな人生が今後敷かれていようと、それぞれなんだと思い、生きてゆくつもりだ。ただし、今までの格差への意識はぬぐえないかもしれない。それがぬぐえるのは、仏の世界へ足を踏み入れたときかもしれない。
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