Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

ニホンジカの復活

2008-07-27 19:16:09 | 自然から学ぶ
 『信濃』(信濃史学会)の最新号の7号において、小山泰弘氏が「長野県におけるニホンジカの盛衰」について触れている。ニホンジカについては、先ごろも「ニホンジカの住まう景色」で触れたように盛んに問題視されている害獣である。害を被るから害獣ということになってしまうだろうが、被る側の考えだ。ニホンジカといえば奈良公園を思い浮かべるだろうが、あそこではシカせんべいなるものが売られていて、シカと人の接点にもなっている。そんなイメージでいるとシカはせんべいを食べているのか、などと思ってしまうが、ニホンジカは青物を食べる。青物がなければ木の皮を剥いで食べたり、落ち葉も食べたりする。

 飯田市美術博物館の木下進氏は、さきごろの芝平の見学会の折に、かつては犬が放し飼いにされていたことからニホンジカにとっての天敵が人里から遠ざける役割を担っていたと語っていた。盛んに話題になるだけにニホンジカの生息の歴史が耳に入るようになった。かつては生息していないといわれた天竜川西岸についても、最近はかなり目撃されており、事実わたしも高森町山の寺近辺で何度か目撃している。群れをなして活動すると言われるが、その際は単独行動だった。かつて生息していなかった、という表現はもともとそこにはいなかったもの、と捉えられがちだが、実はそれは間違いで、昔は生息していたが歴史上の一時期に姿を消したというのが正しい。そして一時期は絶滅危惧されていたというのだから、動物たちもそう簡単には絶滅しないということがわかる。そしてこの論考において、なぜニホンジカが絶滅寸前に陥り、また害獣と呼ばれるほどに頭数を増やしたかというところが述べられている。

 猪垣については木曽山脈の麓にあることを子どものころから認識していた。もちろん字のごとく猪を防ぐためのものという印象を持っていたもので、万里の長城のような背丈の高いものではないことから猪専用と捉えていた。もちろんわたしの子どものころは、木曽山脈側でニホンジカを見かけることはほとんどなかっただろう。それよりもニホンジカというものは近くにはいないものだという印象すら持っていたものだ。このようにわたしの認識では猪垣は猪を防護するべくものだったわけであるが、小山氏は河野齢蔵氏が「鉢伏連邦西麓の猪土手」(長野県史蹟名勝天然記念物調査報告五―1935)の中で触れた「猪土手には猪と鹿と狼を防ぐ目的があった」という報告から、猪ばかりではなく鹿や狼をも防ぐ役割も持っていたということに注目している。オオカミを放ち、ニホンジカの天敵とすることを口にする研究者がいるが、果たしてオオカミを増やしたからといってニホンジカが減るとは限らず、むしろ益獣は時には害獣にもなりうるということを述べている。ここから猪土手はオオカミを防ぐ目的もあったというもので、諏訪高島藩における元禄15年の記録にあるように猟師を雇ってオオカミの駆除に当たるということも行われたほど、オオカミ被害が顕著な時代もあったわけである。どれほど猪土手にニホンジカやオオカミを防ぐ効力があったのかは定かではなく、わたしの印象ではやはり猪防御という主旨であったのではないかと思う。いずれにしてもこれら遺構は江戸時代に造られたもので、その時代には小山氏の言うようにニホンジカを防ぐ目的も有していたとすれば、その時代も現代同様に害獣に悩まされていたということになるのだろう。

 そんな害獣に悩まされた時代を過ぎ、ニホンジカが絶滅寸前にまで減少した理由について小山氏は、次のように述べている。「明治中期から大正にかけての狩猟者の推移を見ると、明治から大正にかけて狩猟者の数は増加している。なかでも狩猟を職業とする職猟者ではなく、狩猟を楽しむ遊猟者の増加が顕著である。(中略)大正十二年に農商務省がニホンジカの捕獲禁止措置を講じたのは、あまりにも高い狩猟圧の影響で、狩猟獣そのものが激減してしまった結果、捕獲禁止にに寄って個体数の回復を図ろうとしたものであると考えられる」と述べており、明治以降の開墾や森林破壊といったもの以上に要因として大きいという。とはいえ、猟銃の所有者数は、現在と明治時代と比較すれば現在の方が多い。もちろん現在はさまざまな制約があって、所有しているからといって獣を自由に捕獲してよいというものではない。それに比較すれば、狩猟を職業としていた人々が多くいた時代には、獣にとって人間はもっとも危険な天敵だったといえるだろう。そこへ小山氏の言うような遊猟者が増加すれば、制限なく捕獲されていったことだろう。それが故の捕獲禁止令となるわけである。

 こうした狩猟圧が減じるとともに、開発されていた里山が荒廃し、木が増え、それらの空間に天敵であった人間がいなくなれば、獣たちにとっては生息環境が好転するのは必然で、そうしたなかニホンジカは明らかに増殖してきていたのだろう。

 さて、小山氏はこんなことを言う。「江戸時代の猪垣が築造された場所を見ると、伊那谷や塩尻周辺、八ヶ岳山麓など現在ニホンジカの被害に悩まされている地域と一致する」。そして、「生息域が江戸時代に築造された猪垣の線を大きく越えていないことは注目」できるといい、現在の状況は、江戸時代の野生獣類の個体数とほぼ一致しているのではないかという。江戸時代の害獣の存在と現在の害獣の存在が似ているというようにも捉えられるが、果たしていかがなものだろう。このあたりは歴史学の視点からも考えを聞きたいところである。

 よく山に食べ物がないから里に獣が下りてくるということを言うが、獣によっても違うだろうし、果たして現在の山に食べ物がないかどうかは疑問だある。かつて里山といわれるところは今以上に緑は少なかった。もちろん荒れ果てていたというよりは、管理され肥料として若木は採取された。そういう意味でも、一時的に獣が激減したことはき明白で、そうした記憶に新しい時代と比較してわたしたちは印象を口にする。しかし、歴史上にその様子をうかがっていくと、ふだんわたしたちが印象で述べているものと違うものが見えてくる。記憶に新しい変化だけを捉えることも不要とは言わないが、果たしてさらにそれ以前はどうであったか、ということを常にひも解く柔軟さが必要なんだと教えられる。
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