わたしたちは、日常、五感から入る情報、見るもの、聴くもの、香りなどに対して、ああいいな、嫌だなという判断をしています。 たとえば、混んだ電車で、整髪料の匂いが強烈な中年男性が近くに来たら、たいていの人は嫌だなと思うでしょう。 逃げられない混んだ電車でそういう人のアタマが自分の頬にでもべたっとついたら「うわーひどい」とその日は終日気分が悪いかもしれません。
でも、自分のアタマがそんなに気持ち悪いとは、当の本人は全く思っていないでしょう。 かえって「この整髪料をつけないとすっきりしない」と思っているかもしれません。
私たちは、ああいいなと思うものがあるとそれが欲しくなるものです。街で感じのいい人を見かけたりすると、その人と知り合いになりたいと思ったりします。 「ああいいな」で済めばいいのですが、モノでも人でも、時には心の底からほしくなる時があります。 それが得られればいいのですが、得られなければ苦しみが生じます。
「ああいいな」と思う存在も「嫌だな」と思う存在も自分の外にあります。 それ自体は苦しみの原因ではなく、条件に過ぎません。 それが苦しみの種になるのは、自分というもの(自我)と結びつくときです。 いいも悪いも自分が判断しているからです。 人によってその判断は異なりますからある人にとっては良いものが、別の人には嫌悪の対象になることもあります。
心の反応は「いいと思うものは近くに引き寄せたい」「嫌だと思うものは遠ざけたい」の2つです。 この2つはコインの裏表のように好きから嫌いに反転することもあります。
心の底から好きな人が、あなたを裏切って誰かほかの人を好きになってしまったらどうでしょうか? 最初は、何とか取り戻せないかとなんとか努力をすることでしょう。 それでもダメだとわかって、もうどうにも自分のもとには戻らないと分かると憎さが募って、相手の人を傷つけてやりたいと思うことだってあります。 そういうことが事件に発展することだってあります。
好きなものがあれば、嫌いなものがあるものです。 好きなものがどうしても得られなければ、その同じ対象をもっとも嫌うことがあり得ます。 対象自体はなにも変わっていないのに、いったい何が変わったのでしょう? 自分の心が変化したのです。
嫌いなものから逃げられないとき、あるいは好きなものを自分のものにしたいと思っても、それが得られないとき、それが失われてしまったとき、それは苦しみの原因となります。 その判断しているのは自分=自我です。
苦の原因を生じさせる自我とは何でしょうか?
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