創発企業経営

起業13年目の会社の経営、事業報告

4種類の苦しみ

2014年10月30日 | 経営

苦についての体系的な分析は、西洋哲学には見つけられませんでした。 5世紀頃に書かれたVisuddhimagga (清浄道論)の英訳本The PATH of PURIFICATION(Buddhist Publication Society) The truth of suffering の章に7種類の苦について記されています。 今回はそのうち4種類について記します。

苦には以下の4種類の分類があります。

concealed suffering (隠蔽苦) とexposed suffering(露呈苦)  

indirect suffering(時限苦) と direct suffering (現起苦)

現在現れている苦には外部から分かるものと外部からは分からないものがあります。頭痛や歯痛、身体内部の疾患のように、当人が口にしない限り外部からは分からない肉体に隠蔽された苦しみがconcealed suffering (隠蔽苦)です。身体の外傷のように、傍目から明らかなものに起因する苦しみはexposed suffering(露呈苦)です。

indirect suffering(時限苦)はパーリ語の'' Pariyaya Dukkha ''の英訳で、現在は生起していないがいつでも生起する可能性を内在した苦を指します。 わたしたちは心と体をもっていますが、生きている限り、病気や怪我によって苦痛を受けるリスクを常に抱えています。 これは私たちの心と体が苦の母体だということです。 direct suffering (現起苦)は既に生じている苦しみを指します。

これら4つの苦は身体と同様に心にも存在します。 外部から見て明らかな心的露呈苦。当人が告げなければ外部からは分からない心的隠蔽苦。現時点で現れている心的時限苦とあらわれていない心的現起苦です。

わたしたちは心と身体から構成されている以上、心と身体に対し、既に生じているか、まだ生じていないかの苦が存在します。 そして、既に現れている苦には外部から分かるものと分からないものがあります。 これで、すべての苦しみはMECE(Mutually Exclusive and Collectively Exhaustive)「相互に排他的な項目」による「完全な全体集合」=「重複なく・漏れなく」として4種類に分類できます。

なぜ分類などするのでしょうか? ただ分類するだけでは大した意味はありません。  福岡 伸一著 「世界は分けてもわからない」 (講談社現代新書)に次のような言葉があります。

「分けてもわからないと知りつつ、今日もなお私は世界を分けようとしている。それは世界を認識することの契機がその往還にしかないからである」。

わたしたちの認知は、世界をそのまま理解できるほどには優れていないのでしょう。自身の限られた認知能力を通じて巨大な現象である苦を理解するには「分ける」ことを通じてしかできないのでしょう。

分類の有用な利用法は、私たち自身の心身や周囲に生じる現象を観察して、どの苦の分類にあたるのか調べてみることにあります。 分類は苦の理解と対象化への入り口でもあります。 

        


苦しみの対象化

2014年10月26日 | 経営

わたしたちは毎日の生活の中で漠然と、日々良い方向に向かうことを期待しています。 仕事をしていれば昇進することを、投資をしていればお金が増えることを、結婚すれば幸せな生活が続くことを、何とはなしに将来は良くなるという右肩上がりの生活を確かな理由もなく信じているものです。 でも実際にはそうではないことは明らかです。誰もが人生は苦しいものだ、思い通りにいかないものだと気づきながら、それを言葉にはしないものです。

人生は順調であるはずだと思いながら、苦境に遭ってしまったら、それはとても苦しいものだと思います。自分の思い通りにいかないときの対処は、生きる上で最も重要なテーマだと思います。 苦というテーマについて書くのはそのためです。

苦を感じたときの有効な対処法に「苦の対象化」があります。 入院中の経験をもとに記してみます。

入院中、小腸に狭窄が発生し、食事が一切摂れず、静脈カテーテルからの点滴で栄養補給を受けていた時期がありました。 幸いなことに、3週間ほどして、小腸の狭窄が解消して通常の食事がとれるようになったのでカテーテルを抜くことになりました。

 その時、なぜかとても不安になりました。 カテーテルは鎖骨の近くから、心臓に向けて15cmほども挿入されていました。 太さも結構あり、それを抜いたら大量に出血するのではないかという不安が頭から離れなくなりました。

手術の時は、腹部に大量の出血があり、縫合後もお腹の左右2か所から腹部に溜まった血を排出するドレインチューブが2本出ていました。 チューブの先には血を貯めるタンクがついていました。それを2つ首から下げて、腕に点滴、背中に痛みどめのモルヒネのボトルを下げてトイレに行ったものです。あちこち管が出ている様子はサイボーグみたいでした。

少し前までは、そんな状態でしたから、カテーテルを抜くくらいどうということはないのに、どういう訳かこの時は不安で落ち着きませんでした。

暫く気になっていましたが、思い立って、カテーテルの周囲を消毒しにきた看護師さんに「カテーテルを抜いたら大量に出血しませんか?」と聞いてみました。 答えは「大丈夫です。止血しますから」でした。 止血と言ってもどういうふうにするのかなと思いましたが、それを聞いたら不思議と不安が消えました。

なぜ消えたのでしょうか? この前までは不安や苦しみは心の中に確かに存在しました。

入院中に実際にあったことですが、認知症気味の方で自分で点滴を抜いてしまう患者さんがいました。 また、看護師の方のお話だと、患部の消毒中に急に動く患者さんがいるそうです。 なぜそんなことをするのでしょう? そんなことをするのは、それぞれの心に動かずにいられない不安があるからです。

不安や苦しみを押し殺したり、別のものにすり替えてしまうことも一時的には可能です。 しかし、いつか抑圧された苦しみは再び現れるものです。

私がしたのは、不安を言葉にして看護師さんに尋ねるということでした。 不安を隠してしまわずに、人に見える姿にしてみたのです。 止血するという答えは当たり前の答えです。 しかし、わたしの心の中の「不安」はそれ以上回転するエネルギーを失いました。 苦しみは苦しみをエネルギーにして回転します。 無理に抑えればさらに力を増して回転するのです。

苦しみは隠してしまわずに人に話すという形で明るみに出してあげることで解消しました。それは、苦しみの「対象化」です。

苦しみの本質は、(自分にとっての)不快な現象に対する心の反応です。 自分の外部にある現象は制御することができません。不快な話、騒音などの環境から物理的に離れることはできても、その源を絶つのは容易ではありません。 しかし、大多数の人は、外部の環境に働きかけてそれを変えようとします。

不快な現象を物理的に避けるよりずっと簡単な方法は自分の認識を変えることです。身体を動かす必要もありません。 周りの現象は変えられないとしても、自分の認識を変えることはできます。 自分の中の心の働きですから。

その一つが苦しみの「対象化」です。 自分の中の形にならない不安のエネルギーを言葉にして確認すると、不安は、訳もなく泣き続ける赤ん坊を大人が抱き止めてくれた時のように、エネルギーを失い立ち消えになります。

誰か信頼できる人に対して話してみてもよいですし、自分自身で苦しみや不安を確認することでも対象化は可能です。 自分自身が、納得すればよいのです。心が落ち着けばそれでよいのです。

それからしばらくして、実際に静脈カテーテルを抜く日が来ました。 胸の静脈に15cm挿入されていたというカテーテルは痛みもなく簡単に抜けました。その後、先生がベッドに横になっている私の胸のあたりに両掌を重ねて体重をかけて10分ほど止血しました。 重みが少し苦しかったですが大静脈の止血ってこうやるのかと思いながら、身体にかかる圧力を心地よく感じました。 こんなにしっかり押さえておけば出血しないだろう..

不安はそれ以来ありません。