創発企業経営

起業13年目の会社の経営、事業報告

そうだ、僕は違った人生を生きよう (2)

2018年07月27日 | 経営
サラリーマンは、人生のカードを他人に握られる。配属先も他人が決め、出世するのもしないのも、他人が決める。
内館 牧子 著 『終わった人』

 
日本では、配属先や出世を他人が決めるのはまだいいほうで、組織自体がなくなってしまうことさえありました。
カードを他人に握られてもゲームに参加できていればまだましという環境であったように思います。
 
卒業後、就職した電機メーカのシステム部門から本社の海外営業部門に異動になりましたが、6年ほどして、今度は別の会社に転職しました。
 
それ以来、自動車業界で仕事をすることになるのですが、以降、何度か転職する機会があっても、その後の人生に最も大きな影響を与えた決断でした。
 
1990年代当時、日本の産業はエレクトロニクスと自動車が双璧でした。  
しかし、この2つの業界はその後の明暗が別れます。
国内に電気メーカの製造工場が減る一方自動車メーカは、今に至るまで存在し続けているばかりでなく、工場の新設さえ行われています。  
 
1990年代初めに、私がこの変化を読み取れた訳ではありません。
 
85年のプラザ合意による円高の進行により日本企業の海外における競争力は大幅に低下し、異動した先の海外営業部門での仕事は一言で言えば撤退戦でした。
 
撤退戦になれば、組織にはポストが限られます。 それでも転職しなければならないほど環境が悪い思う人は、当時はまだ殆どいません。
 
退職の申し出の後、海外事業部長が私に言いました。 「転職するんだって。 やめたほうがいいよ。 失敗するから。」
大企業の傘の下から出たら失敗者になると忠告したかったのかと思います。
 
当時を思い出して、改めて「なぜこの時転職したのか」考えてみました。  思い当たったのは、「企業でデイリーワークに精出しても、能力は伸びない」ということでした。   実際、勤務期間の割には仕事の能力が伸びたとは思えませんでした。 会社のために毎日真面目に働いても、自分のスキルを伸ばすことにはならないということに、なんとなく気づいたのが当時の転職の理由だったように思います。
 
同じ組織に一定期間いれば仕事を円滑に進めるコツがわかってきて、「自分は仕事ができる」と思いがちです。  実際は、その企業限定の能力で、外部に出たら殆ど価値のないスキルです。
 
何れにせよこの転職の結果、移った先の自動車業界は急速な円高でも成長を続けました。
 
経営学者の藤本隆宏教授は、日本の自動車産業の強みは「すり合わせ」だと言います。 これに対しエレクトロニクス産業は「組み合わせ」型手法で、日本企業は強みを活かして競争する土俵がなくなってしまいました。   産業においても差別化ができなければ衰退してしまうということです。
 
ここでは個人のキャリアの差別化の必要性について、書いているつもりなのですが、産業においても企業においても差別化が命運を分けるなら、小さな弱い存在の個人が差別化をできなければ「人生のカードを他人に握られる」のは仕方ないことかもしれません。
 

そうだ、僕は違った人生を生きよう (1)

2018年07月21日 | 経営
毎日の人知れぬ苦労や淋しみも無く ただ楽しいことばかりだったら   愛なんて知らずに済んだのにな           宇多田ヒカル 「花束を君に」 

 

私が大学を卒業して、日本の電機メーカに就職した時、同期の大卒社員は260名ほどいました。 

入社後、自宅から会社まで遠かったので、4人部屋の寮に入るように手配されていました。 しかしながら、寮には入らず、片道2時間位かけて電車で通勤しました。
 
寮に入った同期社員に聞いてみると、仕事が終わると毎日宴会だったそうです。
 
当時、コンピュータシステムのSEが不足していて、大卒の社員はほとんどSE部門に配属されました。
 
プログラミングをやった人にはわかると思いますが、ソフトウェアの生産性はできる人とできない人で10倍、場合によっては100倍差があります。
 
私はデキない方で、人には「適性というものがある」と痛感しました。
 
このままでは、組織の中では成績不良者になるのは明らかで、何とかしないといけないなと思って過ごしたものです。
 
同期が大勢いる中で、自分にはSEの適性はないと言ってもわがままにしか聞こえません。  その末に、思いついたのが英語でした。
 
大学時代の英語の成績は ”C” でしたが、英語自体は好きでした。
 
当時、入社した社員全員TOEICを受けることになっていて、付け焼刃ながら試験前対策を行いました。
 
結果、点数は良くはないながら、全体の2番目の成績でした。 当時の学生は殆ど英語ができなかったのに助けられました。
 
大した成績ではなくとも、その後システム部門で過ごす上で支えになリました。 それから2年して、海外営業部に転属になりました。
 
その時、寮に入って会社に慣れ親しんでしまえば、英語の勉強などしなかったと思います。
 
運が良かったのは、表立っては周囲から協調性がない批判されなかったことです。 その時、周りの評価を気にしていたら、その後の人生どうなっていたでしょう?
 
差別化はたとえ人生に必要でも勇気がいることです。