1980年代に購入した Gibson Midnight Special を手放しました。 弦裏通し仕様。出荷数は約2,000本と言われています。エフェクターなしでもドライブ感のあるいい音でした。
さいたま市の実家の整理中、1988年6月の県民だよりの切り抜きを見つけました。 実家にほど近い大宮区大門町で、太宰治が人間失格の執筆をしていた家がありました。 この家は記事の発表後、間もなく取り壊されてしまったので、今はありません。 太宰治が亡くなる前のことを記した本を読むと、今も残る酒屋や病院など太宰治が過ごした通りを自分も子供のころ行き来したことが分かりました。

NHKビジネス特集のサイトににニッセイ基礎研究所がまとめた日米欧6か国の物価上昇を加味した1人あたりの実質賃金上昇率グラフがあります。
1999年1-3月期を100として2023年10-12月期を比べると、イギリス42%、アメリカ34%、ドイツ12%とあがっていますが、日本はマイナス2%でした。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240625/k10014490591000.html
衆議院選挙で賃上げを公約に掲げる政党は多いですが、なぜ日本は賃金が上がらなかったのか? 原因を明確にしておくことは大事なことだと思います。
90年代以降、日本の賃金が上げらなかった原因について2010年刊 野口 悠紀雄 (著)「経済危機のルーツ ―モノづくりはグーグルとウォール街に負けたのか」をもとに記してみます。
野口氏はその原因は、鄧小平が主導した「改革開放、現代化路線」への大転換による中国の工業化に端を発すると述べています。
「中国が工業化して世界の工場としての役割を担うようになった世界では 製造業からの脱却は必然の方向だった。 製造業に固執しても低賃金で生産される中国製品にはかなわない。 もし 正面から競争すれば 賃金水準が中国並みに下がってしまう。」
「製品が実際に日本国内に輸入されなくとも、国際市場で競合が生じれば、価格の平準化は起きることである。たとえば日本製テレビと韓国製テレビが国際市場で競合すれば、日本製テレビの価格は、韓国製テレビの価格にサヤ寄せされて下落する。そして日本の国内価格と輸出価格が大きく乖離することはないので、国内の価格も下落する。つまり、新興国製品が日本国内で使われなくとも、工業製品の日本国内価格は下落する。」
輸出できる貿易財ものは世界市場において製品価格の平準化が進み、賃金面でも平準化が進む。そして日本の賃金は低賃金国のそれにサヤ寄せされる。 これが日本の賃金が上がらなかった原因です。
これは特殊なことではなく、日米国間で生じた貿易摩擦と同じで、日米の関係が、日本とアジア新興国の間の関係に変わっただけだと言います。
ただし、80年代日本の攻勢を受けた欧米諸国(特にアメリカとイギリス)は、脱工業化を果たして製造業の比率を低めたのに対し、90年代以降新興国からの低価格製品の攻勢を受けた日本は、産業構造を変えようとはせず、競合する方向を選び、輸出品との間の価格競争力の劣勢を挽回しようとしました。 新興国と競争しようとすれば何が起こるか.. 賃金の低下、非正規雇用の増加でした。
それでも、エレクトロニクス分野では日本の地位後退を留めることはできず、多数の企業が縮小撤退を迫られる事態となりました。日本が工業化で成功し、Japan as No. 1 と言われたころはすでに工業化の時代の終盤で、世界は情報化社会を迎え、追従できない日本は長期停滞の時代に入ってしまいました。
9月、広島県三原市から竹原市にかけて瀬戸内沿岸を訪ねました。
綺麗な白浜、穏やかな海、瀬戸内海の島々が眺望できました。
タクシーで移動中、運転手さんが、このあたりは過疎が著しく、若い人を殆ど見ないと言います。
竹原市の人口増減率は(2015-2020年)-9.21% (全国平均は-0.75%)、65歳以上高齢化率は42.10%(全国平均は28.60%)。
なぜ、若い人がいないかと言えば雇用がないからだといいます。 三原市の帝人は2018年に撤退、三菱重工も整理縮小を進めています。
朝、三原駅から通勤に通う人が列をなして、それは活気があったそうです。
穏やかな瀬戸内は住むには最適な環境なのに、産業、特に製造業が縮小。雇用が減少すれば、住み続けることができない現実は考えさせられます。
日本経済停滞は何が原因だったのか? 大量の雇用を維持できる製造業にこだわり続けるべきなのか?
このあと少し考察してみたいと思います。
「でたらめだ!」
30年以上前の話。社内の決算数字が私の上司に届き、巨額の赤字が計上されていました。その時、上司が言った言葉です。
1985年9月のプラザ合意前の為替は1ドル=250円を超えていました。 これが1988年には、1ドル=128円にまで進行しました。2年ほどの間に日本の製造業のドル建てコストが2倍になったことを意味します。
この頃、私は電機会社でPC用記憶装置の海外営業に配属されていました。でたらめだと言った上司は、米国勤務から帰国後「これからはPCの時代です」と社長に進言し、会社は多額の投資を行い、PC部品の市場に参入していました。
この人が意気揚々進言した新規事業が会社にとって大赤字のお荷物になってしまいました。
2024年9月11日付日経新聞で、マネックス松本大会長が日本企業の資本効率やガバナンス(企業統治)の改革について問われ、以下のように答えていました。
「最も大きいのは経営者が世代交代しつつあることだ。 これまでの経営層には強烈な成功体験があった。 日本は焼け野原からたったの23年で世界第2位の経済大国になった。 「ミラクル(奇跡)」を実際に見てきた経営者は世の中が変わってバブルがはじけ、世界のビジネス手法が変わっても、外の意見に耳を傾けなかった」
当時の上司は、海外のビジネス経験に優れた有能な人でした。自身の経験を振り返って「ぼうぼう燃える火の中、シャカリキに働いてきた」と言っていました。
炎の中をくぐって辿り着いたら、世の中が変わっていたと聞いても簡単には受け入れられなかったと思います。
当時の日本企業は成長分野に積極的に投資する果敢さがありました。 今なら、投資に対するリターンを慎重に計算して、不確実なら手を出さないと思います。 そうしている間に、日本の製造業は韓国や中国企業に劣後してしまいました。
それから30年以上経ちました。 以前の上司に、「当時は「ミラクル」の追い風が吹いていたようですね。」と言ったら叱られると思います。
その時代の米国の貿易赤字の大半が日本との貿易によるものでした。プラザ合意は日本の企業戦士が頑張りすぎた結果とも言えます。
当時の上司を含め、その頃の日本人がシャカリキに頑張って「ミラクル」を起こしたのですね。
「シャカリキ」は、「釈迦力」と書くそうです。
今年も7月に韓国に行きました。
半日、自由な日があったので江南(カンナム)エリアに行きました。 ここは、ソウル中心部から漢江を越えて南側の地域を言います。
かなりの渋滞の後に、COEX(コエックス)モールでタクシーを降りると目に入ったのが、THE HYUNDAIのサインボード。 THE HYUNDAIは現代百貨店のことですが、THEは「あの」と特定のものを示す冠詞です。 特別なもの一つしかないものといったインパクトのある命名だと思いました。
It’s a Sony. というフレーズがありますが、これは例えば目の前に電気製品があって「(それは)ソニー製品です」といった意味です。
控えめな表現だと思いました。
COEXモールを入るとビョルマダン図書館があります。 無料で本の閲覧ができますが、写真を撮りに来る人が殆どでした。
実際、棚の上の方の本は飾りだそうです。
ちなみに日本の角川武蔵野ミュージアムに図書館がありますが、ここは書棚の前にステップが設けられていて、すべて手に取ることができるようです。
モールの中には水族館がありました。
1日いても時間が足りないくらいですが、私たちは半日しか時間がなく、昼過ぎにはモールの外でタクシーを見つけて、次の仕事の目的地に向かいました。
取引先の人に江南エリアに行ったと話すと「帰りに乗ったタクシーはIONIQ5でしょう。」と言われ、まさにその通りでした。
THE HYUNDAIも EVのタクシーも日本にはありません。 これも江南スタイルかと思いました。