さいたま市の実家の整理中、1988年6月の県民だよりの切り抜きを見つけました。 実家にほど近い大宮区大門町で、太宰治が人間失格の執筆をしていた家がありました。 この家は記事の発表後、間もなく取り壊されてしまったので、今はありません。 太宰治が亡くなる前のことを記した本を読むと、今も残る酒屋や病院など太宰治が過ごした通りを自分も子供のころ行き来したことが分かりました。
さいたま市の実家の整理中、1988年6月の県民だよりの切り抜きを見つけました。 実家にほど近い大宮区大門町で、太宰治が人間失格の執筆をしていた家がありました。 この家は記事の発表後、間もなく取り壊されてしまったので、今はありません。 太宰治が亡くなる前のことを記した本を読むと、今も残る酒屋や病院など太宰治が過ごした通りを自分も子供のころ行き来したことが分かりました。
「阿片王 満州の夜と霧」を読みました。
著者佐野眞一氏は自ら日本が貧しい頃を知る最後に知り、日本が豊かになったことを最初に時間した世代だといいます。 物心ついたときに遭遇した高度成長経済は心をわしづかみにされる事件であり、戦後の高度成長のグランドデザインは満州国を下敷きになされたような気がすると記しています。
安倍晋三前首相の祖父岸信介は産業部長として満州に赴任し満州開発五か年計画を立て「満州国は私の作品」と述べたそうです。
以下、満州国に関する記述の一部です。
つまり、日本の戦後の高度成長を支えたインフラは全て満州で実験済だったといいます。
大前研一氏が講演で、広大な中国の東北三省を汽車で旅した時、「日本人はこんなところまで進出していたんだ」と感じたそうです。 日・漢・朝・蒙・満の五族を中心とした東アジア諸民族が居住する多民族国家。 日本の戦後の高度成長を先取りした国家計画は、軍事教育とはいえ、当時の日本には壮大な国家デザインを描ける非常に優秀な人材がいたのだと実感しました。
1932年から13年間だけ存在し、傀儡国家と言われる満州国ですが、現代の日本社会に影響を与え「過去の光で現代を見る」ための歴史的教訓を多分に含んだ国であったと思いました。
韓国と北朝鮮の非武装地帯(いわゆる38度線)を訪ねる機会がありました。
北朝鮮が掘ったといわれる南進第3トンネルにある展示館で、朝鮮戦争の死者は600万人という記述を見ました。 600万人はあまりに多いのではないかと思い帰国後調べてみたところ正確にはわからないにしても400-500万人の死者があったようです。 1950年台、戦争に負けた日本が分断されず、朝鮮半島では戦線が釜山から平壌の北まで上下し戦場になったことは、日本ではあまり知られていないかもしれません。
臨津江にかかる橋。 日本統治時代から複線でしたが右側は朝鮮戦争の際に破壊されたままです。
左の臨津江鉄橋は1日1便だけ鉄道が通り、韓国側最後の駅都羅山駅に続いています。
都羅山駅は立派な駅ですが、北に続く鉄路はここまで。北朝鮮の開城まで15Km、平壌まで205km。 北朝鮮と鉄道が通じ、中国鉄道、シベリア鉄道とつながればベルリンまで陸路で行くことができます。
その日が早く来ることを願っています。
コスモスが咲く頃は、「月の光が冷たく寒い秋」です。 春の桜に対して、秋の終わりに咲く秋桜は、静かに眺める花のように思います。 コスモスといえば、尹東柱の詩が思い出されます。
コスモス
清楚なコスモスは
ただひとりのわたしの少女、
月の光が冷たく寒い秋の夜になれば
昔の少女がたまらなく恋しく
コスモスの咲いた庭へ たずねてゆく。
コスモスは
こおろぎの鳴く声にもはじらい、
コスモスの前に立ったわたしは
幼いころのようにはずかしくなって、
わたしの心は コスモスのこころ
コスモスの心は わたしのこころ。 (1938.9.20)
入院中のことを書くのはこれで最後です。
時期は5月、すずめのひなの巣立ちの時期でした。巣立ったばかりのひなが病室の窓際にやってきて、しばらくすると親鳥が迎えに来て行ってしまいました。 出会えると少しラッキー。 病院の中をロボットが走っています。
10年ほど前、勤めていた会社を辞め、みぞれの降る中、都内の会社を何社も訪問したことがありました。 失業すると鬱にも近い無力感を感じるもので、将来に希望が感じられないまま、都内の日本庭園で時間を過ごしました。 ベンチに座って水鳥を眺めていたことを思い出します。
かじかんだ手で傘をさして歩いた、落ちては解ける雪混じりのアスファルトの舗道や鉛色の空は、その時のわたしの原点でした。 何か複雑に事情がこんがらがった時には、ゼロリセットできる。 そこからまた始められる原点だと思いました。
でも、そのときは、まだまだ、たくさん抱え込んでいてゼロではなかったのです。
入院中は、病院のコンビニに商品があっても食べられません。お金があっても、買えるものがない。
動脈に挿入された点滴の栄養補給で生きていて、いつ回復するか、いつまで入院しなければならないか分からない。 チューブが邪魔で風呂には20日も入れない。
病棟のロビーを1日1kmくらい歩きました。 回廊状になっている廊下を1周すると400m。 2周半、点滴スタンドと一緒に歩きました。 30分ほどでポンプのバッテリー切れの警告ブザーが鳴ると、病室に帰らなければなりません。
もう少し歩くと病棟を繋ぐ解放廊下。 ここがゼロでした。 ヒトは何もできない。 無力になる場所。
できることは、点滴スタンドと一緒に一歩、一歩、歩くだけ。 何も考えないで歩いていると、じきに、期待もなく、不安もなくなって。 不思議なこころの落ち着きがありました。