創発企業経営

起業13年目の会社の経営、事業報告

韓国EV事情

2023年08月26日 | 経営

6月に4年ぶりに韓国出張しました。仁川空港から水原、東灘というソウル西方にある街を訪ねました。

街では多数EVを見かけました。中でもタクシーやパトカーにEVが多く、Hyundai IONIQ5, IONIQ6, KIA EV6など多数見かけました。タクシーの新車登録の38%はEVとのこと。電気自動車を普及させるなら市街地循環運行をしている公共交通に準ずるこのような車から普及させるのが常道だと思います。 韓国の充電器はEV3台に1台設置されているそうです。 急速充電器も多く、買い物の間に充電が済ませられます。 多くの人が利用できるよう20分すると充電が切れて、利用者にメールで通知が届くそうです。 IONIQ5の電池容量は58KWなので50KW/Hの充電器で40分あれば8割がた充電できるので不満はないようです。

急速充電器は公園や街の駐車場に2器ずつあり、EVは日本の何倍も普及しています。

 

EVなど環境車は高速料金を安くしたり、空港の駐車場所を優遇したりと普及に頭を使っていました。 日本は、世界で初めて量産EVを販売した国なのに、現在のEV普及率は先進国で最低水準です。 国際競争力を維持できるのか大変気がかりです。 

韓国では、自動車の通行が優先されていると感じます。 渋滞を防ぐために右折は信号で停止する必要がなく通行できます(下写真)。

   

自動車の青信号の時間が長いために、信号待ちの歩行者のために日傘が設けられています。

日本にはない設備で、この辺は、歩行者にも配慮をしていることに感心します。

 


2023/2/2 群馬県産業支援機構主催EVセミナー

2023年01月01日 | 経営

2023/2/2 群馬県産業支援機構主催のEVセミナーに講師として登壇します。テーマは中国の宏光Mini EV のインバーター分解調査結果解説です。2020年のリリースから2年経過した2022年においても 35万台以上を販売し、中国の最量販電動車である宏光MINIインバーターのコスト解析結果を報告します。  お時間のある方はぜひご参加ください。

詳細URL :https://www.g-inf.or.jp/pdf/202212_03.pdf

 

 


「キャリアパス」

2022年10月04日 | 経営

米国人の女性からキャリアパスについて話を伺ったことを記しました。 その人の書いたスピーチ原稿が見つかったので以下に掲載します。現在キャリアについて考えている人の参考になればと思います。

彼女はキャリアの最初に学びたかった語学でなく、化学工学を選んだといいます。好きなことより企業や社会、他の人たちから求められていて市場性があるキャリアを身に着けることを優先したということです。

そうしてキャリアの梯子を上ることに対して、最後にこう書かいています。

「自分のキャリアパスについてよく考えてください。どこまで行きたいですか? そこまで行くには、今、何をすればいいのでしょうか? あなたのはしごは、長くまた高いはしご、そのはしごのステップを登るにつれ、そこに広がる景色はだんだんきれいになっていきます。」

90年代、日本は世界から注目されていて、海外から優秀な人が多数来日しました。 私も時代の恩恵を受けていたと思います。円安になることによる最大のデメリットは、そういう人が、日本に注目せず、別の国に行ってしまうことではないかと思います。


中流危機を越えて

2022年09月19日 | 経営

2022/9/18 NHKの番組「中流危機を越えて 企業依存を抜け出せるか」で全世帯の所得の中央値が1994年の505万円から2019年の374万円に減少したと報じていました。

企業に頼らない生活設計として企業も個人もキャリアパスが大事と慶応大学 駒村康平教授の解説がありました。 この「キャリアパス」という言葉、30年以上前、日本の会社で働いていたとき、取引先企業の米国人女性から聞く機会がありました。 この言葉は自分の中に染みついてしまい、その後の人生を変えることになりました。

大学を出て訳も分からず入社した日本企業で、このような人と出会う機会があり、自分は運が良かったと思いました。

キャリアパスという言葉を教えてくれた人は、当時スタンフォード大学で化学工学の修士号を取り、米国企業の日本支社で働いていました。  私はその人が日本語でキャリアパスについて語った原稿を読む機会があり、そこには、こうありました。

キャリアパス(Career Path):  人生の目標を考えながら決めた教育と仕事の道。 キャリアははしごのようなもので、教育も仕事もそのはしごのひとつのステップです。 一番下のステップは、誰でも昇れるかもしれませんが、計画を立てないと一番上のステップまで昇れません。

当時から、米国は企業への就職は難しかったのです。 履歴書を何十通も送ったと明るく話していました。

LSEの教授だった森嶋通夫氏は、1994年に出版された著書の「なぜ日本は行き詰ったか」で日本が90年代に停滞し、いまだ立ち直ることなく深みにはまっている理由を説いています。「生活水準は高いが、活動力がなく、国際的に重要でない国」が森嶋通夫の21世紀の日本のイメージでした。予言はそのまま現実になってしまったようです。

森嶋氏は日本の主流の思想は戦前戦後を通じて儒教であると強調しています。 日本の最大の問題は戦後の教育で、戦前の価値観が完全に否定されたと同時に、それを正しく理解しない状態でアメリカ型の擬似個人主義、擬似民主主義による教育がなされたことだといいます。

しかし、戦後も戦前の儒教型教育を受けた人は残っている。 それが、日本の戦後の発展を支えたが、90年代になり世代交代が進むと、戦後教育を受けた人が社会で重要な地位を占めるようになる。 戦後の教育改革から50年たって、この大改革が今になって日本にエートスの二極分化をもたらしているといいます。

「遠い国アメリカの個人主義、自由主義を日本人は理解していないから、改革の結果の日本は、アメリカ思想を正しく理解せず、思想的貧血状態に陥ったといっても良い有様になった」と。

戦後の日本社会は「人々は自分自身の良心に忠実でもなく、身を処するに厳格でもなく、嘘もまた方便であると考え、利益を得るためには人におもねって当然と考えるような、倫理的な自覚に欠けた土着共同社会に過ぎない」といいます。

森嶋通夫は21世紀に、右翼や超国家主義者が復活してくる可能性を指摘し、これに加えて、無政府主義、ニヒリズムやデカダンスが将来現れるかもしれないと指摘しています。 確かに、品格にかけた行動が社会を支配し、これらの兆候はすでに現れ始めています。


キャリアパスについて語った米人女性は家庭で「あなたは自分の能力を信じるよう」にと言われて育ったそうです。  私などにたいしてさえ「自分の良さに気づいて、あなたは素晴らしい能力を持っているのだから」と言ってくれました。 たとえ今はそうでなくても、そう信じて努力することが未来を変えていくのは紛れもない事実だと思います。


成人教育(1) - Seeing is believing

2022年01月07日 | 経営

米国企業で自動車部品の仕事をしていたころ、米国人の品質管理エンジニアと日本の顧客を訪問する機会がありました。

彼は、モルモン教の布教のために日本に滞在経験があり少し日本語ができました。 静かで目立たないタイプなので、積極的な人が多い米国人の中では目立たないタイプでした。

新幹線で移動中に厚いバインダファイルのテキストを持っていたので何かと聞くと、シカゴ大学のMBAテキストだといいます。

シカゴ大といえばノーベル経済学賞受賞者を何人も輩出し、MBAランキングは世界でもトップクラスでした。

失礼ながら「この人も働きながらMBA取ろうとしているんだ」と思いました。


それからテキストを見せてもらって、どうやって授業に出ているのか等々質問しました。

当時、日本の会社を辞めて米国企業の駐在員事務所で仕事をしていましたが、自分のスキル不足を補うにはどうしたらいいか思案していたところでした。

何か資格を取りたいと思っていましたが、何が良いのか…  MBAは遠い目標だと思っていました。

しかし、その時思ったのは「これなら自分でもできるな」でした。

しばらくして英国のMBAに出願するのですが、この時シカゴ大学のテキストを見ていなかったら応募したかどうか分かりません。

外見だけですが、英国の大学院のテキストもシカゴ大学と似たようなものが届き、こういうものだろうと予想していた通りでした。

講義のテキストがあるなら、何度も読み返せるし、時間はかかっても学習はできると思いました。

「Seeing is believing」は「百聞は一見に如かず」と訳されていますが、「見たものが確信を与える」でした。


ハネウェル・ミノルタ特許訴訟

2021年05月07日 | 経営

1993年に、8年勤めた日本の電機メーカを辞めて、米国ハネウェル社の日本駐在事務所に転職しました。 

当時、ハネウェル社のオフィスは渋谷にありました。 その時の上司は日系米人のOさんという方でした。 

上司と部下の2人のチームで、知的生産手段を身につける貴重な経験をしました。

 

1980年代後半、「ハネウェル・ミノルタ特許訴訟」と呼ばれる訴訟がありました。

ハネウェルがミノルタのオートフォーカスカメラの自動焦点機構が自社の特許を侵害しているとしてミノルタを相手に訴訟を起こしました。

 

米国の裁判所の評決は、ミノルタの特許侵害を認め、1992年、ミノルタはハネウェルに対し、和解金およそ165億円を支払うことになりました。 

ハネウェルは、ミノルタ以外の日本のカメラメーカにも同様の請求を行い、合計400億円以上の和解金を受け取ることとなりました。

 

この事件は、当時の米国と日本の貿易摩擦、企業競争の縮図とみられ、NHKで特集番組が放送されたほどでした。

そもそも、訴訟以前に日本のカメラメーカを訪問してオートフォーカス技術の売込みをしていたのがOさんでした。

 

訴訟が終わった翌年、ハネウエルの日本事務所で上司となったOさんは、この大きな事件については殆ど話しませんでした。

ほんの僅か口にしていたのは「ミノルタが特許を侵害していると米国のハネウェルに伝えた後は、もう何もするなと言われた」とか「訴訟の結果、ハネウェルは日本でカメラの仕事をできなくなった」といったことでした。

 

Oさんは広島出身で、米国に移民として渡り、「中学の授業では英語も何もわからなかった。ラジオ修理の技術者にでもなろうと思っていた」と言います。 その後、ベトナム戦争に従軍、UCLAで電気工学の学士号を、コーネル大学で経営学修士号を得ます。 根っからテクノロジーが好きだったようで、オートフォーカスの技術の話をしたときは少し雄弁でした。 それは、飛行する物体であっても一瞬で位相差を捉えて、カメラの焦点を合わせるというものです。 ハネウェルの特許ではオートフォーカスの実用化はできないという説もあり、技術開示契約をもとに技術情報の提供を受けていたことが、敗訴の原因であったという説もあります。  当のOさんは、そうしたことについては何も語りませんでした。

 

日本の企業、関係者の方は、当時多大な影響を受けたことと思います。 ミノルタは和解金支払いが負担となり、さらに他のカメラメーカとの競争激化で経営が悪化しました。 2003年には、コニカと合併し、コニカミノルタホールディングスを設立しました。 ハネウェルは巨額の和解金を得ましたが、Oさんは、この訴訟に触れることは殆どなく、ましてや、自分の手柄であるとは決して思っていなかったようです。 

Oさんは、引退後は米国に帰国、居合道の先生をしているようです。

 


そうだ、僕は違った人生を生きよう (4)

2018年10月13日 | 経営

1990年代、日本の電機会社に勤めていた頃、最も印象に残った経験は、後に世界最大の電子機器受託製造サービスになる企業の社長が飛び込み営業をしていた現場を目の当たりにしたことです。

当時、私の勤める会社は、JR有楽町の駅を日比谷側に降りるとそごう(今はビックカメラ)があり道を隔てた先にオフィスがありました。

冷たい雨の降る冬。 トレンチコートの長身の男性がたった一人、アポ無しでその会社を訪ねてきました。 受付から電子機器の海外営業部門である私の上司に連絡があり、私も同席させてもらいました。

訪ねてきたのは英語しか話さない日系人で、しかも暗い顔でボソボソ話すので何を言っているのか私にはよくわかりませんでした。 それでも、海外での経験が長い上司は感じるものがあったらしく真剣に話を聞いていました。

その後判ったのは、訪ねてきたのは米国の西海岸にあった企業 - ソレクトロンの当時のCOO Dr Ko Nishimura でした。

ニシムラ氏はその後ソレクトロン会長 兼 CEOに就任し、同社の売上を $3億ドル(1989年)から $187億(2001年)に約10年間で50倍以上の規模に拡大しました。 ソレクトロンはMalcolm Baldrige National Quality Award を初めて2度受賞した企業になりました。

ニシムラ氏は、日本の企業を訪問して米国で製造委託(EMS) の仕事を請け負えないかと申し入れたのです。当時の日本の産業界では思いもよらない海を越えた製造委託ビジネスの提案でした。 EMS事業は、その後、想像できないまでの規模のビジネスに発展しました。

言葉も通じない日本で、スタンフォード大学の博士号を持つニシムラ氏はたった一人で飛び込み営業をしていたのは驚くべきことですが、急成長する企業は、確かな理由があるのだと分かりました。

経営者なら問題があっても、文句をいう暇があったら自ら行動すればいいという例を見せてもらいました。

私の勤めた企業はニシムラ氏の提案に対して、技術責任者を米国に送って検討をしましたが、当時EMSのビジネスの可能性を理解できる社員はおらず、関係はそれ以上進展しませんでした。 ソレクトロンのサービスを活用したのはソニーなどの一流企業。  それから約10年後、ソニーの元製造部長と話す機会がありました。 その人の感想は「ソレクトロン、あれは凄い会社だ」でした。

ソレクトロンは2007年に、フレクトロニクス社に買収されます。 しかし、EMSというビジネスは現在も世界の主要企業であるアップル、グーグル、シスコシステムズなどに利用され、産業界に確固たる地位を築いています。 大企業の立派なオフィスやビルを訪ねると圧倒されますが、企業というものはプロジェクトなのだと思います。 いつか、自動車業界でも電動化の進展に伴い、マーケティング、デザイン、商品企画のみ行う自動車会社が創られ、自動車EMS企業が創業されると思います。 すでに米国ではそういう会社があります。

企業は時代の要請を感じた創業者が創り、時間経過ととともに、形を変え場所を変え名前を変えていく Intangibleな (形のない)存在なのだと思います。


そうだ、僕は違った人生を生きよう (3)

2018年09月06日 | 経営

競争の基本戦略は突き詰めればコストリーダーシップと差別化の2つに集約される。

 

 

マイケルポーターによれば企業の競争戦略は基本的に2つです。ひとつは、コストリーダーシップ、もうひとつは差別化です。  (ポータは著書の「競争の戦略」で集中化をあげていますが、戦略とは集中が前提であり、後年には、基本戦略として集中化に触れなくなりました)

 

これは、競争環境における個人の差別化にも適用できると思います。

 

1) コストリーダシップは自社の属する業界で圧倒的な強さを確立し、納入までの総費用を業界で最低価格に作り上げる戦略です。価格の力で、シェアや収益の拡大を実現します。換言すれば、これは、人と同じことを徹底してやる度合いとスピードの勝負です。 このような戦略をどの企業も取れるわけではありません。一部の企業にのみ可能な強者の戦略といえます。

 

個人の競争戦略で言えば、これはNo.1になるということです。競争のルールが厳格であればあるほど、No.1になるのは難しくなります。 例えば、一斉学力試験や100m陸上など、1点、0.1秒の違いを追求する熾烈な競争です。ここでNo.1になれれば素晴らしいことですが、誰でもなれるわけではありません。 能力、努力に秀でた一握りの強者だけが取れる戦略です。

 

2) もうひとつが、差別化戦略で、買い手が重要と認める特徴を提供することにより、価値に見合った価格を正当化するという戦略です。差別化戦略は、製品、市場、販売方法、技術などユーザの求める価値に対して、自社の強みに基づいて、自分の得意な分野で勝負します。

 

同じゲーム環境なら大きいほど有利ですが、土俵が違えば、規模に関係なく強みを発揮することができます。差別化を追求する人から見れば、学力試験や100m走で1番になっても「それがどうした?」ということになります。

 

つまり、ごく一部の例外を除きすべての企業、すべての人は差別化戦略を採用すべきであるといえます。

 

個人のキャリアの差別化として考えると、ナンバーワンになるかオンリーワンになるかと言えるかもしれません。誰でもナンバーワンになれる訳ではありませんが、誰でも求められる価値に対して人より秀でることは、少ない努力で可能です。

 

その時、大事なのはユーザの求める価値を理解することです。 差別化やオンリーワンは自分のやりたいことを独善的にやることではありません。自分に対して何が求められているかを理解して、それに適した価値を提供するのです。

 

私の経験で、リーマンショックの数年後、外資の企業を辞めて、日本の会社の求人に応募したことがあります。企業からは何の返事も来ませんでした。 当時は買い手市場で応募者はたくさんいて、私は求められるニーズにあっていなかったのです。 企業に雇って欲しい人は世の中にたくさんいる。こういう競争環境で勝負しても疲弊するだけです。ではどうしたらよいでしょう?

 

まず、自分の強みを理解することです。 「私はxxをやりたい」ではなくて「私はxxができる」かを理解する。 次に、街に出て、あるいはなんでもいいから仕事をしてみて世の中に求められているニーズを探してみることです。

 

自分の好き嫌いは一時忘れて、無心に世の中で何が求められているか耳を傾けてみると、どこにでも切実なニーズが存在するはずです。世の中、全てが満たされているわけはなく、不足ばかりではないですか。 そのニーズに、自分の「できること」が結びついた時、それが、自分が勝てる環境になります。 それが個人の差別化戦略の第一歩だと思います。

 

 


そうだ、僕は違った人生を生きよう (2)

2018年07月27日 | 経営
サラリーマンは、人生のカードを他人に握られる。配属先も他人が決め、出世するのもしないのも、他人が決める。
内館 牧子 著 『終わった人』

 
日本では、配属先や出世を他人が決めるのはまだいいほうで、組織自体がなくなってしまうことさえありました。
カードを他人に握られてもゲームに参加できていればまだましという環境であったように思います。
 
卒業後、就職した電機メーカのシステム部門から本社の海外営業部門に異動になりましたが、6年ほどして、今度は別の会社に転職しました。
 
それ以来、自動車業界で仕事をすることになるのですが、以降、何度か転職する機会があっても、その後の人生に最も大きな影響を与えた決断でした。
 
1990年代当時、日本の産業はエレクトロニクスと自動車が双璧でした。  
しかし、この2つの業界はその後の明暗が別れます。
国内に電気メーカの製造工場が減る一方自動車メーカは、今に至るまで存在し続けているばかりでなく、工場の新設さえ行われています。  
 
1990年代初めに、私がこの変化を読み取れた訳ではありません。
 
85年のプラザ合意による円高の進行により日本企業の海外における競争力は大幅に低下し、異動した先の海外営業部門での仕事は一言で言えば撤退戦でした。
 
撤退戦になれば、組織にはポストが限られます。 それでも転職しなければならないほど環境が悪い思う人は、当時はまだ殆どいません。
 
退職の申し出の後、海外事業部長が私に言いました。 「転職するんだって。 やめたほうがいいよ。 失敗するから。」
大企業の傘の下から出たら失敗者になると忠告したかったのかと思います。
 
当時を思い出して、改めて「なぜこの時転職したのか」考えてみました。  思い当たったのは、「企業でデイリーワークに精出しても、能力は伸びない」ということでした。   実際、勤務期間の割には仕事の能力が伸びたとは思えませんでした。 会社のために毎日真面目に働いても、自分のスキルを伸ばすことにはならないということに、なんとなく気づいたのが当時の転職の理由だったように思います。
 
同じ組織に一定期間いれば仕事を円滑に進めるコツがわかってきて、「自分は仕事ができる」と思いがちです。  実際は、その企業限定の能力で、外部に出たら殆ど価値のないスキルです。
 
何れにせよこの転職の結果、移った先の自動車業界は急速な円高でも成長を続けました。
 
経営学者の藤本隆宏教授は、日本の自動車産業の強みは「すり合わせ」だと言います。 これに対しエレクトロニクス産業は「組み合わせ」型手法で、日本企業は強みを活かして競争する土俵がなくなってしまいました。   産業においても差別化ができなければ衰退してしまうということです。
 
ここでは個人のキャリアの差別化の必要性について、書いているつもりなのですが、産業においても企業においても差別化が命運を分けるなら、小さな弱い存在の個人が差別化をできなければ「人生のカードを他人に握られる」のは仕方ないことかもしれません。
 

そうだ、僕は違った人生を生きよう (1)

2018年07月21日 | 経営
毎日の人知れぬ苦労や淋しみも無く ただ楽しいことばかりだったら   愛なんて知らずに済んだのにな           宇多田ヒカル 「花束を君に」 

 

私が大学を卒業して、日本の電機メーカに就職した時、同期の大卒社員は260名ほどいました。 

入社後、自宅から会社まで遠かったので、4人部屋の寮に入るように手配されていました。 しかしながら、寮には入らず、片道2時間位かけて電車で通勤しました。
 
寮に入った同期社員に聞いてみると、仕事が終わると毎日宴会だったそうです。
 
当時、コンピュータシステムのSEが不足していて、大卒の社員はほとんどSE部門に配属されました。
 
プログラミングをやった人にはわかると思いますが、ソフトウェアの生産性はできる人とできない人で10倍、場合によっては100倍差があります。
 
私はデキない方で、人には「適性というものがある」と痛感しました。
 
このままでは、組織の中では成績不良者になるのは明らかで、何とかしないといけないなと思って過ごしたものです。
 
同期が大勢いる中で、自分にはSEの適性はないと言ってもわがままにしか聞こえません。  その末に、思いついたのが英語でした。
 
大学時代の英語の成績は ”C” でしたが、英語自体は好きでした。
 
当時、入社した社員全員TOEICを受けることになっていて、付け焼刃ながら試験前対策を行いました。
 
結果、点数は良くはないながら、全体の2番目の成績でした。 当時の学生は殆ど英語ができなかったのに助けられました。
 
大した成績ではなくとも、その後システム部門で過ごす上で支えになリました。 それから2年して、海外営業部に転属になりました。
 
その時、寮に入って会社に慣れ親しんでしまえば、英語の勉強などしなかったと思います。
 
運が良かったのは、表立っては周囲から協調性がない批判されなかったことです。 その時、周りの評価を気にしていたら、その後の人生どうなっていたでしょう?
 
差別化はたとえ人生に必要でも勇気がいることです。